66 最初で最後
ピンチだ。とても、ピンチだ。
机に突っ伏してうんうん唸る。普段からあまり動かしたことのない脳みそをフル回転させているからか、頭からぷすぷすとそのうち煙が立ち昇ってしまいそうだ。
真琴と喧嘩をしてしまい、四週間まるまる話していないのだ。こんなこと初めてでどうすればいいのかわからない。よく周りの人と喧嘩をしている凛ちゃんに仲直りの仕方を教わろうと連絡を入れたら「お前って本当に無神経だよな、そういうところじゃないのか?」と一蹴された。酷い。人のこと言えないと思うよと返信したけれど、凛ちゃんからの返事はとうとうなかった。
自分から素直に謝ればいいのだけれども、どうやって謝ればいいのかわからないのだ。そもそもこうなってしまった事の発端すら忘れているのだから、もうどうしようもない。バツの悪さに真琴と目があってもあからさまにすぐ逸らしてしまうし、彼が話しかけようと近付いてくると反射的に避けてしまう。これは嫌われても当然の行為である。
もう部活も引退してしまったし、推薦で大学も決まっているため、授業が終わってしまえば時間は膨大にあった。考える時間はたくさんあって、ずっとああでもないこうでもないと放課後の教室の机に座って頭を抱えながらぶつぶつと一人呟いていると、上から呆れた声が降ってきた。
「早く仲直りしたらどうなんだ」
聞き慣れた声にむっと顔を上げる。冷めた目つきでこちらを見つめる遙は、心底面倒くさいと言いたげに徐にため息をついた。わたしと同様に大学は推薦で決まっている彼も、有り余った時間を持て余しているのだ。
「渚、玲、江も心配していた」
後輩たちも巻き込んでしまっているのかと思うと申し訳ない気持ちが募り、言い訳をしようとしていた口を噤む。かわいい後輩達の名前を出すのは反則行為である。
「凛も言葉にはしてないけれど、多分心配している」
遙はさらに追い討ちをかけるように「真琴には言わず、凛には相談していたんだな」と言葉を重ねた。思いがけない不意打ちに「うっ、」と声が洩れる。凛のやつ、どうやらわたしを売ったらしい。手元にあるケータイを意味もなく睨みつけた。
「……遙だって、ついこの間真琴と喧嘩してたじゃん」
「それはそれ、これはこれ、だ」
他所は他所、うちはうち、みたいなことを言われても納得はいかない。けれど、その件と今回では事情が全く違うのも確かだ。引き合いに出すべきではないことくらい分かっていたはずなのに、自分の非をなかなか認められない愚かなわたしは、恨みがましく口にしてしまう。
あのとき、わたしは二人の間でおろおろと立ち往生するばかりで、なにもできなかった。それから凛が遙をオーストラリアに連れて行って、そして帰ってきたら、いつの間にやら喧嘩していた遙と真琴は元の関係に戻っていた。ずっと幼馴染をやってきたのに、蚊帳の外に出され、一人だけ取り残された気分になった。だからといって、わたしが間に入ったところでなにもできずに終わっていただろう。彼らには彼らにしかわからないことがある。男同士の友情と絆に、女であるわたしはどれだけ仲が良くても、そこには触れることすらできないのだ。そんなこと、とっくに気付いていたはずなのに、いざその事実を突きつけられると自分の無力さに愕然とした。
大きなため息をひとつ落とす。それから、あーあー、と意味もなく何度か呻いて再び頭を抱え込んだ。自己嫌悪の塊で胸が押し潰されそうだし、現状を打破する解決策は一向に浮かぶ気配もない。
「おおよそ春が悪いんだろ」
「……」
はい、そうです。そうですよ。胸の内で答える。言い返す言葉などない。ただ黙り込んで、首だけ縦に振る。その通りだからだ。
「真琴が話そうと歩み寄っているのに、あんな露骨な避け方されたらいくら真琴でも傷つくに決まってる」
「……そう、だよね……。でも、」
喧嘩した理由を忘れてしまい、謝りたいにも謝れない、とは正直に言えなくて言葉を濁す。すると遙はなにかを察したようにじとりと目を細めた。視線が痛い。
「どうせ喧嘩した理由を忘れて、謝るにもどう謝ればいいのかわからないんじゃないのか」
バレていた。ていうかわたしの心中は筒抜けだった。プライバシー、個人情報、パーソナルスペース、だとかそういう単語が次々と浮かんだけれども、わたしの生理の周期すら把握している幼馴染みなので、そういった類いの言葉はわたしたちの間に存在しなかった。
「…………よくご存知で」
「春のことだ。いやでも大体わかる。ああ、そういえば春は頭悪いけど、水泳だけはできてよかったな。そうじゃなかったら大学も行けなかったんじゃないか?」
「え、それ遙が言っちゃう?」
「春より勉強はそこそこにできる」
「そうですよねー! 知ってますよー! 遙が赤点とってるところ見たことないもん。同じ大学だし、これからも勉強教えてね。よろしく」
「断る」
「鯖缶買ってあげるからさ」
「……それなら考えないこともない」
「ちょろい」
本題から話が逸れたことにほっと胸を撫で下ろしつつ、まだ見当もつかない大学の話をいくつかしていると、遙が突然「春」と真面目な声音でわたしの名前を呼んで話を遮った。
「春と真琴が喧嘩すると調子が狂うんだ。だからさっさと仲直りしろ。……真琴、そろそろ出てきたらどうだ」
「遙、どういうこと?」と問う間も無く、すぐにからりと扉が開いて真琴が教室へ入ってきた。真琴とふいに目が合い、息を呑む。もしかして今までの遙とのやりとりを全部聞いていたのだろうか。そのまま尋ねれば、彼は「うん、盗み聞きしてごめんね」と力なく肯いた。それから遙が「あとは二人で話せ」と言い残して真琴と入れ違うように教室を出て行く。
「遙、待って!」
わたしの必死な制止の声は遙に届いてるはずなのに、遙は一瞥だけよこしてそのまま去っていった。そして教室に取り残されたわたしと真琴は、しばらくの間互いに黙っていた。
き、気まずい。彼との沈黙がこんなにも気まずいなんて、今までで初めてだ。けれど、この件はひたすら避け続けていたわたしが悪いのだ。喧嘩した理由を忘れてしまったことも勿論悪いが、避けていたことがなにより一番悪い。でもどうやって話を切り出したらいいのかわからない。バツの悪さに目が合わせられず、足元を見つめていたら、彼がゆっくりとこちらに近づく気配がする。そして、目の前で大きな影が止まった。真琴が意を決したように息を吸う。相手の呼吸さえわかってしまうほどの静けさに包まれていた。
「春。…俺のこと、嫌いになった?」
「そんなわけない!」
反射的に、叫ぶように口にしていた。自分の声の大きさに驚いて思わず口に手を当てる。
「……じゃあ、こっち見て」
静かに落とされた言葉に逆らうことなどできず、顔を徐に上げる。真琴は悲しみを耐えるような表情でわたしを見ていた。ああ、こんな顔させたくないのに。わたしは今どんな顔をしているのだろうか。彼の瞳の中にいるわたしを見つめてみても、よくわからなかった。
「やっと目があった」
真琴の目元がふわりと和らいだ。けれど、まだどこか悲しげな影がちらついている。わたしは恐る恐る口を開いた。
「……あのね、実は、……喧嘩した理由、全然覚えてなくて……えっと、それで、」
話の整理ができず、言葉につっかえながら話す。そんなわたしを真琴は急かさず、うん、と何度も相槌を打ちながら話の続きを静かに待ってくれる。
「どうやって謝ったらいいのかわからなくなっちゃって。それで、気まずくて…真琴に顔を合わせてちゃんと話せなくなって、避けた。避けているうちに、真琴に嫌われたかもしれないと思って、それがまた怖くなって、ますます避けた。自分が傷つきたくなくて、真琴を傷つけた。身勝手な行動だったと思う。……本当に、ごめんなさい」
言いながら彼のことを真っ直ぐに見つめることができなくなって、目線がどんどん下がっていく。最後は語尾が掠れて少し湿った。もう、わたしはダメなのかもしれない。嫌われたかもしれない。あまりにも自分本位な行動に我ながら反吐が出そうだ。
彼の大きな手が、わたしの両頬を包み込んだ。あたたかい。そして「ねえ、こっち見てよ」とまた言った。うん、と頷いて再び顔を上げると今度は相好を崩して笑っていた。わたしのよく知る、いつもの真琴だ。
「よかった」
「え?」
「春に嫌われたのかと思ったから」
寂しそうに呟かれたその言葉に胸の奥が苦しくなる。
「……ごめんなさい。そう思われて、当然のことをしたと思ってる。真琴は、わたしのこと嫌いになってないの?」
声が震える。嫌われて当然だと自分で思っておきながら、実際に真琴から答えを聞くのがすごく怖い。耳を塞いでしまいたい。目をぎゅっと瞑り、身を固くして答えを待つ。けれど、いつまで経っても返事はない。そろりと目を開けると、真琴はぽかりと口を開けて驚いていた。真琴? と声をかけると同時に、わたしは彼の腕の中にいた。このやさしい温度に触れるのは久々だ。とても、安心できるあたたかい温度。
「嫌いになんて、なるわけない」
わたしの肩に顔を埋めているから声がくぐもっている。覚束ない手つきで、彼の背に手を回して背中を撫でた。
「そっか……」
「だから、もう俺を避けたりしないで」
「わかった。でも、もう、喧嘩したくないな…」
独り言のように呟いて顔をそっとあげると、彼はまぶたをぱちりと一度瞬いたあと、へにゃりと眉を下げて微笑んだ。
「そう? これからも俺たちは喧嘩もすると思うよ。けれど何度だって春とだったらしていい」
「……そう、思う?」
「うん。喧嘩して今以上にもっと春のこと知っていくから。でも、避けられるのはちょっと傷つくから、怒ってる理由がわからなくても、わからないんだけどってこれからは素直に言ってほしいな。俺は今更そんなことで春を嫌いになったりしないよ」
「そっか」
じゃあ、帰ろうと手を差し出したのは同じタイミングでお互いに笑ってしまった。
玄関に向かうと、遙が靴を履いて待っていた。
「終わったんだな」
穏やかに微笑んだ遙に、胸がぐっと熱くなる。心配かけてたんだなあって今更ながらに気づいて、涙が出そうになる。泣くな、と遙に頭をぽんと叩かれてその拍子に涙が一粒ぽろりとこぼれ出た。
ひさびさに三人肩を並べて、ゆっくりと話しながら家路を辿った。また喧嘩したら遙に頼るかもと冗談混じりで言ったら、遙はあからさまに顔を顰めて、俺を巻き込むな、と語気を強めたので、真琴と一緒に笑った。