30 握手
ああ、もう顔が見れない。距離が近い、近すぎる。あのいつも遠くから眺めていた犬飼くんの顔がすぐそばにあって、それだけでももう心臓が爆発するくらい緊迫している状況だというのに、手まで繋がっている。もう、脳はちょっと前から麻痺していてこの現実を認識していないけれど、多分、というか絶対に、両手は汗だくだ。恥ずかしい。そろりと見上げるとちょうど犬飼くんと目が合う。その瞬間、彼は悪戯っ子のように瞳をにっと細めた。わたしの心臓がさらに早鐘を打つ。嬉しいけど早く終わってくれ、なんて矛盾した気持ちを抱きながら犬飼くんのさり気ないリードを頼りにステップを踏む。未だにうちの学校には体育祭の終わりにはフォークダンスがあり、男女のペアを作って踊る。みんながそれぞれ相手を見つけてる中、わたしは一人でぽつりと途方にくれていた。すると犬飼くんが近づいてきて、まだ相手いない? とわたしに問うた。いないに決まってる、と不貞腐れたように応えると、じゃあおれもいないから、とわたしの目の前に手を差し出した。あの学年問わず女の子に人気の犬飼くんがなぜわたしの目の前に立っていて、さらにはフォークダンスを一緒に踊ろうとしているのだろうか。犬飼くんなら引く手数多だろうに。現状を信じられず固まっていると、ほら、と彼はかちんこちんに固まったわたしの手を取った。握手と思ってさ、と笑って言うけれど、握手だなんてそんなもんじゃない。手のひらは完全に繋がっている。わたしの気持ちなんて筒抜けなのだろうな。案の定、成瀬さんってわかりやすいよね、なんてくすくす笑い声が上から降ってくるではないか。ええい。もう開き直ってしまえ。もう今日死んでもいいや。ぎゅ。犬飼くんの手をわたしから握る。するとなぜか確信犯のようにますます笑みを深めた。まるでこうなるのがわかっていたみたい。犬飼くんの真意はよくわからないまま、わたしはただ彼の思い通り動いてやることにした。