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 32 指名手配

 目が覚めたら既に太陽は高く登っていた。ぼやけた視界と重たい頭をすっきりさせたくて、屯所の中で一番冷たい水と噂されてる井戸で顔を洗うことにした。両手で水をすくい顔にかける。冷たいのに、目の前の視界も頭の中もあまり変わらない。もうひとつと水をすくい上げると、背後から声がかかった。気怠げな声音はいつもと変わらないけれど、届くのは芯のないぼんやりとしたものだった。

 今日は随分とだらしねェ。
 ええ? いつも寝倒してる沖田さんに云われたくないんですけど。
 珍しいこともあるもんだと思いやして。春って無駄に朝早くから起きてるイメージだったんでさァ。
 ……久々にいっぱい寝たくなったんですよ。
 へえ。

 やたらと含みを持たせた相槌をうつから、少し気になって、屈めていた腰を起こし後ろを見遣る。彼は少しだけ伸びた前髪を揺らしながら、近頃肌身離さず持っているわたしの愛刀に向かって問いかけた。
 
 なあ、春。知ってますかィ?

 沖田さんは双眸を細め、唇の端をつりあげた。その顔はさながら獲物を狩る時の目付きで、自分の意思とは関係なく肩が震え、唾を呑み込んだ。

 一月前くらいから、此処いらで辻斬りが流行ってるそうでさァ。

 鋭い視線から逃れるように顔を背けて、上げた腰を再び下ろして顔を洗った。耳に届いているはずの彼の言葉はやはり何処か遠くに感じたのだ。 ぱしゃ、ぱしゃ。顔を打つ冷たい水音だけが内耳に谺する。

 なんでも、真選組が取り逃した連中が次々と死んでいってるって専らの噂でしてねィ。
 あぁ、噂になっていますね、そんなこと。

 わたしは未だ覚醒しきってない脳をなんとか働かせて、言葉を吐いた。
 
 ソイツはそこそこに強いらしいんでさァ。
 へえ、いつか手合わせしたいものです。

 肩にかけた手拭いで、顔に浮かぶ水滴を吸い取った。冷水で流したらすっきりするはずの脳は、まだ靄が蔓延ったままで、視界がぼやぼやと揺れ動く。白い靄、というより血液のように真っ赤なものが目蓋の裏から頭の中にこびりついている感覚。水でどれだけ洗っても、血の匂いと鮮血の赤はちかちかと瞬いていた。

 なあ、春。そろそろお辞めなせェ。
 なにを、ですか。 
 惚けんのもいい加減にしたらどうですかィ? アンタ、血の匂いとその血に飢えた目、隠せてねェんでさァ。あと付け足しときますが、近藤さんと土方は騙せても、俺の目は誤魔化せねェですぜ?
 それは、おっかないですね。

 肩を竦めて笑った。
 その瞬間だった。上から氷のように冷たい水が頭上からどっと降ってきた。その刹那、すべてがゆっくりと見え、頭のてっぺんから足の指先まで舐めるように伝っていく水と、体から弾け飛んで地面に落ちて土の色を濃くしてゆく雫がはっきりとわかった。それをじっと見届けると、肌にぴたりとはりつく襦袢があとから気持ち悪く感じた。だがそれよりも、張り付いていた噎せ返る血の匂いと、鮮烈な赤色が一瞬にして消え失せた。わたし自身ではどうにもできなかったものが、沖田さんが浴びせた冷水によって全て真っ白に消えたのだ。
 
 目ェ、醒めたかィ?
 
 涼やかな声が冷えた頭にじんと響く。ぽたり。萎れた前髪から水滴が散る。呆然としたまま、再び沖田さんに焦点を合わせると、彼も今度は刀ではなくわたしをまっすぐに見ていた。
 
 その刀も十分に血を啜ったことだろィ。

 沖田さんは意地悪い笑みを浮かべて、

 どうせやるなら誰にもバレずに徹底的にやりなせェ。あの土方にバレたら、士道不覚悟で俺が春の首を落とすハメになるだろィ。

 彼は目にも留まらぬ速さで柄から刀を抜き、わたしの濡れた鼻先に突き付けた。
 
 春。異論、ありますかィ?

 小首を傾げ可愛らしく問うた彼に、わたしは両手をあげて瞼を閉じた。

 ない、です。

 沖田さんは満足げに唇を緩ませ、ゆっくりと刀を下ろし鞘に収めた。
 
 じゃあ今日は早く寝るんでさァ。そしてまた婆さんみたいな生活でもしなせェ。
 わたし、沖田さんになら殺されてもいいです。

 云うつもりのなかった言葉がぽろりと転がり落ちた。ずっと腹の奥底に沈めておくべきわたしの紛れのない願望だった。
 沖田さんは足を止めて一瞥した。言葉はない。その代わりに首のスカーフを抜き取ってわたしに投げてよこした。

 バカなこと云ってねぇで、さっさとそれで拭きなせえ。風邪を引いたら土方さんにどやされますぜ。
 それは確かに困ります。

 再び肩を竦めて笑うと、次に降ってきたのは冷水ではなく、あたたかな笑い声だった。