57 ごめんね
家でひたすらこもって仕事をしていると、携帯が震えた。仕事関係以外の電話なら普段でないのだが、画面に表示された非通知の文字にあわてて携帯をとった。非通知からの電話は約四ヶ月ぶりだった。
「もしもし」
電話を取ると、回線の向こう側はとてもバタバタとしており、こちらから話しかけることは躊躇われた。喧騒の中、ぽつりと唯一聞こえたのは「ごめんな」の一言だった。その低くて甘さを滲ませた声は、わたしがずっと待ち望んでいたものだった。
彼の『ごめん』にはいつもたくさんの意味が含まれている。
わたしが仕事をしている最中に電話をかけてしまってごめん。真夜中に電話をかけてしまってごめん。長い間家に帰ってこれなくてごめん。なかなか連絡が取れなくてごめん。一人にさせてごめん。出かける約束を守れなくてごめん。それから、ごめんの理由を言えなくてごめん。なにも知らない振りをさせてごめん。
彼はそんなたくさんの『ごめん』を音に孕ませて、わたしに伝える。
さて、今日の『ごめん』はなんだろうか。周りが緊迫した様子だったので、時間のない中、わざわざ電話をかけてきたのだろう。多分、全部が含まれている。
「電話、ありがとう」
だから、わたしはたくさんの『ありがとう』をぎゅうぎゅうに込めて返すのだ。
忙しいのに連絡してくれてありがとう。声を聞かせてくれてありがとう。心配してくれてありがとう。それから、危険な仕事をしているのに、一緒になることを決めてくれてありがとう。
電話は「ああ」という一言でぶつりと途切れた。電話時間は約十数秒ほど。でもその声には安堵が滲んでいた。わたしもほっと息をつく。彼はちゃんと生きていた。
彼はなにも語らないけれど、きっと命に関わる大変な仕事を担っている。毎月振り込まれる多額な給与が彼の仕事の立場を物語っていた。好きに使ってくれて構わない、なんて言ってわたしの口座に自動で振り込まれるが、いつも使いきれずお金はどんどん貯まっていくばかり。
いつの日か、彼が無事定年を迎え、落ち着いたらこの貯金を遣ってのんびり旅行をしよう。そして今までの『ごめん』の言い訳をたくさん聞こうと思う。
それまで、わたしはこの家で、彼の唇から好きだと紡がれた絵を描き続けながら、彼が帰ってくるのを待っている。