56 熱(大学生)
三日前に久しぶりに会いたいと電話したら、すごい鼻声で「今はちょっと駄目。来ないで」と断られた。「どうした、風邪でもひいたか?」そう訊ねたら「違うよ」と言いつつも、回線の向こう側で鼻をすする音が聞こえてくる。説得力の欠片もない。けれど長年の付き合いでこれ以上言っても無駄だと知っていたから「わかった、でもしんどかったらいつでも連絡しろよ」と渋々身をひいた。
それから三日間連絡がない。四日目、こちらから連絡したが繋がらなかった。音信不通というやつだ。さすがに心配になって彼女の家まで赴いて様子を伺うと、案の定というか、彼女はベッドに横たわっていた。合鍵作っといてよかった。けれど、彼女は俺の顔を視界に入れた瞬間、眉間にしわを寄せ「来ないで…って、言ったのに…」と苦しそうに呻いた。水分もろくに取っていないんだろう。五百ミリリットルのペットボトルが二本だけ枕元に転がっていた。水分だけではなく、必要な塩分も足りてないはずだ。スポーツドリンクを後で飲ませなければならない。「確かに言ってたな」「…帰って」「丸々四日間連絡してこない人間に言われてもなあ〜」「え…? …四日?」ぼんやりと繰り返す春に思わずため息を洩らした。「ほら、言わんこっちゃない」「…けど、うつしたら、悪いし」「そんなやわじゃねえから。で? どうせなにも食ってないんだろ」春はバツが悪そうに目を逸らし、口を噤んだ。俺の言ってることは的を外れていないからだろう。「だって、食欲、ない」「食わねぇと治るもんも治らねえぞ。あ、熱測り終わったな」ピピッ、と小さな電子音が布団の中から聞こえてきて手を差し出すが、春はその手を無視して布団の中に顔を潜らせた。「おい、隠すなって。見せろ」強い口調でいうと、春は恐る恐る布団から温度計を差し出した。怖がらせたかもしれないが、このくらい強く言わないと彼女は自分の弱いところ曝け出せない性格だ。「……うっわ、39度3分か。そりゃ動けねぇわけだ」季節的に流行り病ではなく、ただの風邪なんだろうけど、それにしたって高熱だ。暫くは学校の登校は無理だろう。とりあえず、消化のいいものを腹に入れて解熱剤を飲ませなければならない。「春の母さんは、お前が病気になったらなに食わせてた?」布団からひょっこりと真っ赤になった顔を出した。「えーと、…すりりんご」「わかった」「…でも、りんご、今家に、ない」「今から買ってくる。春は寝てろ。できたら声かけるから」ベットから立ち上がる。けれど、つんっと服を引っ張られる感覚に動きを止めた。後ろをみると、彼女の指がTシャツを摘んでいた。はっと我に返った彼女は慌てて手を引っ込めた。無意識に手を伸ばしていたのだろう。普段は強情で素直じゃない彼女が、不意打ちのように見せる無自覚な素直さに俺はめっぽう弱い。いつもそうだ。人をこんなにも心配させたのだから、今日こそは説教の一つくらいしてやろうと意気込んで来たのに呆気なく削がれてしまう。「ごめん、なんでもないから」春は目を逸らし、布団の中に再び潜った。きっと、照れ隠しだ。照れるとすぐに顔を逸らしたり隠したりするのは春の可愛いクセだ。わかりやすい。口元がついついゆるんでしまう。「…あー、すぐ戻ってくるから、そんな顔すんな」「…そんな、顔?」「行かないで欲しい、って顔」「お、思って、ない」「ほんっと、素直じゃないんだから〜」春がこんなに弱ることなんて滅多にない。風邪引いてる間は思う存分に甘やかしてやることを心に決めた。心配なことは、俺の理性が持つかどうかだが、病人に手を出すほど愚かではないと自分に言い聞かせる。「ほんとにすぐ戻ってくっから、大人しく待ってて。な?」耳元でなるべく優しくそう言うと、「うん」と小さく肯いた春は安心したのか目をつむるとすぐに眠ってしまった。汗で濡れている髪の毛が頬にかかっていたのでそっと指先ではらう。僅かに触れた指先が熱かったのは言うまでもない。その熱を名残惜しく思いながらも、俺はリンゴとスポーツドリンクを買いにスーパーへと走った。