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 65 隠れ家

 薄暗い一室のなかに一台のグランドピアノがあって、そこから少し離れたところに椅子がぽつぽつと置いてあった。その椅子のひとつに腰かけると、早速、艶やかな色彩を纏った音が奏でられる。
「この曲なに?」
 そう問うと春は手を止めないでこちらを見た。肩にかかった髪が音のうねりに合わせて揺れ動く。
「今の気分、かな。即興でつくってるから題名はないよ」
「じゃあ、題名つけて」
 春はうーんと小さく唸ってから、奏でる音に合わせて歌うように云った。
「『みゆきの休日』とか、どう?」
「『ローマの休日』みたいな?」
「うん。我ながらいいタイトルだと思う」
「適当なくせに」
 呆れて云うとそうかなあと春は肩を揺らして笑った。
 音楽に対しての知識は浅薄なので、どのように頭の中をくぐらせたらこんな曲が出来上がるのか、野球ばっかりの自分には皆目検討もつかない。けれども簡単に、しかも瞬時に作り上げてしまうのはとても凄いことだというのだけはわかる。
 高校生のとき、御幸は春に質問をしたことがあった。「どうやって曲を作ってんの?」と。すると、返ってきた言葉は一言だった。
「イメージ」
 自身の米神を指差し、にやりと笑う。
 そんな説明でわかるかよ。そう脳内で突っ込んだ。それから春に音楽の類いで質問することを止めた。質問したところで、たった一言の解答が理解の範疇を越えていたからである。

 今日は、音楽指導を受けるわけでも、ましてや質問するために御幸はこの一室に訪れたわけではない。高校の時からお互いがオフになると二人で出掛けるのが恒例となっていて、高校を卒業して五年経った今でもその関係は続いていた。本日もたまたまオフが重なったので二人でぶらぶらと散歩をしていた。すると春が急に「ピアノ弾きたくなってきた」と呟き、指をあるリズムを刻みながら動かし始めた。と思ったら「ピアノきかせてあげる!」とこちらの意見を訊くこともせず、御幸の手を取って春がよく行くらしいレコード屋に連れて行かれたのだ。
 ままよとその店内に入ると、沢山のレコードが壁全面にぎっしりと並べられていた。そして気さくにジャズ音楽が流れていて、その音は不思議と心を落ち着かせた。思わず足を止めて店内をぐるりと見回す。決して綺麗とはいえないが、どこか趣のある店だった。
 春はその店の店主と仲がいいらしく、「こんちにわ!」と元気よく挨拶すると、「いらっしゃい」と深みのある低い声が応じた。
 店主はまるで仙人のような風貌をしているのに、目には若々しさが宿っていた。御幸に気付くと、にっこりと微笑んで軽く会釈した。御幸も倣って軽く頭を下げた。店主は春と御幸を見て柔和な笑みを浮かべ「下、今日は空いてるから自由に使っていいからね」と云った。春はやった!と声を上げて「私の隠れ家なの、ここ」と春は御幸の手を引いて地下に続く階段へ案内された。一段降りるごとにぎしぎしと鳴る木の音にどこか懐かしさを感じながら降りる。そして細い廊下を少し歩くといかにも重そうな防音用の扉が見えた。その扉をゆっくりと二人で押し開けて中に入った。春は本当に勝手知ったる様子ですぐに天井の明かりをつけた。ぱっと明るくなって部屋を見渡すと春が云った通り、本当に隠れ家と呼ぶにふさわしい一室だった。
「随分と立派な隠れ家だな」
「でしょう?」
 春は褒められた子供のように得意げに微笑んだ。
 その部屋には様々な楽器が並んでいた。どれも年季が入っているのにもかかわらず、全ての楽器は隅々まで手入れが施されていて大切にされていることがわかった。そしてその部屋の真ん中には、まるでこの部屋の主のように屹立している大きなグランドピアノがあった。天井に吊るされた白熱灯のオレンジ色の光に照らされて、つやりと黒く輝いていた。
 春はゆっくりとピアノに近づき、鍵盤蓋を開けて掛けられていたえんじ色のクロスを取った。するとその下には規則正しく並べられた黒と白の鍵盤が現れた。
 春はその鍵盤に手をそっと置いて、指の腹でひとつ押す。ぽーんと音が広がった。それはとても澄んだ音で、その音が部屋全体の空気の粒子を震わせて動いていくのが目に見えるようだった。
「弾いていい?」
 弾きたくてたまらないといった顔で問いかける春に、御幸は高校のときから変わらないそのまっすぐな目を見つめて「どうぞ」と黒い椅子を引いた。春はゆっくりとその椅子に腰掛けて音を紡ぎ出した。
 
 その指先から紡がれる音の一粒一粒が耳に優しく届いてお腹の底まで音に満たされる。
 春の手はとても小さくて柔らかい指をしているのに、どうしたらそんなに滑らかにときには力強く黒と白の間を行き交って音を鳴らせるのだろう、と疑問が胸に沸き上がるけれども、それを春に対して抱くのは愚問なのかもしれない。
 一粒の音が繋がり、流れる旋律は美しく、空気を波のように緩やかに振動させる。ところどころスウィングさせて音楽を揺らすのに、どこも気取った感じはせず自然に耳に届くものだから不思議だなとつくづく思う、と同時に、目が自ずと音を奏でる春の姿に吸い寄せられるように見てしまう。
 ふと、春は御幸をみた。視線が絡む。そして、スウィングのリズムは刻まれたまま、ねぇ、と口を開いた。
「惚れた?」
 自信ありげににっこり笑う。御幸は目を見開いた。

 ふいに、高校生の頃の春と今の春がきれいに重なった。脳の奥底に眠っていた過去の記憶が蘇って、その時の匂い、情景、空気、全てがこの空間と過去とを繋げた。
 夕暮れに溶け込んでしまいそうなオレンジ色の音楽室に、その教室の隅にあったアップライトのピアノを弾く春がいた。もう役目はないと隅に追いやられたピアノは、春に奏でられることによって息を吹き返すみたいだった。
「どうやって曲つくってんの」「イメージ」そう云ってにやりと笑ったあと、続いた言葉があった。太陽が西へと沈んでいく間に、音楽室の片隅で過去の春が今の御幸を捉えた。「わたしのこと好きなの?」そう突然春に問われて「さあ、どうだか」と曖昧に笑って誤魔化した自分がいた。好き、というたった二文字が云えなかった。今なら、今なら伝えられるのではないか。そんな想いを巡らした瞬間、ぎゅるっと早送りのように再び現実に戻されていく。
 
 にっこり笑った春に、ふっと鼻で笑ってやる。
 即興で作られていく音楽の狭間に、御幸の声も混じる。
「何を今更」
 御幸は俄に顎を引いて、薄い唇の両端をつり上げた。それから音と音が行き交う間にゆっくりと一回瞬いた。
「俺の心、とうの昔に全部攫っといてそんな台詞をよく云ったもんだな」
 春は驚いて瞠目する。次の音を出そうと滑らせた手が、白鍵と黒鍵の間で中途半端に止まる。自然と、音も消えた。
 予想を遥かに越えた言葉に頭の中に流れていた音がぜんぶ、ぜんぶ、弾け飛んだ。鍵盤の上に置かれていた手をだらりとからだの横に垂らして信じられないというように御幸を見つめている。その様子を静かに見ていた御幸は、悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、コツコツと靴を鳴らし、旋律を奏でることをやめたピアノに近寄って、春の目の前に立つ。そして驚きによって少し開かれた唇に、唇を重ねた。五年分の想いを詰め込んで。
「なあ、返事は?」
 離れる際に不満そうに漏らした言葉はどこか子供っぽくって、春は小さく笑ってしまった。返事なんて必要ないよね、と小首を傾げる春にずっりィと御幸は苦笑した。
 でもひとつだけ云わせて、と春がぽつりと洩らしたので御幸はなに、と静かに促す。すると春は眉尻を下げて、困ったように笑ってから御幸の耳に唇を寄せて囁いた。
「わたしだって、とっくの昔に心盗まれてるんだよ」
 知らなかったでしょ、と再び小首を傾げる春に次は御幸が目を見張る番だった。けど、すぐに柔らかい笑みに変わって、そっか、と肯いた。
 再び手から流れる音楽は『Some day my prince will come』