肺にためた煙を口から吐き出して、重く鈍くなった思考が徐々に晴れていく。今はそれを咎める人がいないことをいいことに、わたしは煙を吐き続けた。紫煙がゆうらりと目の前を通過していった。小さな灰皿に降り積もる吸い殻は折り重なっていた。その数に比例して、頭の中にいる主人公たちはわたしの予想を遥かに越えて動き、揺らぎ、葛藤し、成長していく。わたしは勝手に動き出す彼らの全てを取り零したくなくてパソコンのキーボードをひっきりなしに叩いた。四角く発光している画面に彼らたちの一挙手一投足を埋めていく。これはとても調子がいい。頭の中に散らばっていたピースがカチリカチリと綺麗にはまっていく感じがする。最後のピースが残っていようとも、そこまでは書ききってしまわなければならない。
じりじりと口元近くまで灰になってしまったのでそれをまた灰皿に押し付け、新たなタバコを咥えてライターで火を灯す。鼻先までずり落ちてしまった眼鏡を押し上げて再びキーを叩いた。
「お嬢さん、タバコの吸いすぎは身体に悪いんじゃねえの?」
突然の声に、頭の中で進んでいた主人公たちがはたと止まってわたしを睨む。動こうとしたのになんで。そんな咎める視線が痛い。わたしが思考を止めてしまったからだ。ごめんね、君たちを動かす思考は彼の言葉に全て奪われてしまったの。
手を止めて、声のする方へ顔を向けると彼がいた。久々に見た彼は相も変わらず人を食ったような笑みを浮かべている。そういえば、今日の夕方に帰ってくるって連絡が随分前にあったのにわたしは仕事に夢中になって忘れていたみたいだ。
「いつの間に帰ってきたの?」
「数分前。ちなみにちゃんとピンポン押したからな」
リビングで仕事をしていたというのに本当に気付かないなんてわたしの耳は飾りなのだろうか。確かに玄関につながる扉は開いていて、彼が帰ってきたことを何よりも示していた。
「夫の帰り気づかないくらい仕事に集中しちゃうとか、仕事に嫉妬しそうなんですけど」
「なにそれ」
拗ねたような口調がなんだかおかしくて、自然と笑みが零れてしまう。
「“仕事と私どっちが大事なの?”って云いたくなる」
「もう言ってるじゃん。それに女の常套句だし」
「男でも云いたくなるんだよ。で、どっち?」
「んー、…今は仕事かな」
正直に答えると、一也はわざとらしく肩を落としてみせた。
「そう云うだろうと思ってたけど、実際云われると悲しいもんだな」
そう苦笑して、わたしの口から煙草をするり抜き取った。まだ吸い始めたばっかなのに、と文句を云う暇もなく顎を掴まれ唇を塞がれる。カチャリと互いの眼鏡がぶつかる音が鳴る。久々の口づけは濃厚で、彼の舌はとても甘く感じた。
「うわあ、にっが」
「だったらキスしなければいいのに。あとタバコをとるならメガネも外して欲しかった」
「久々なんだからそれくらい許して」
我慢できなかったんだ、と付け足してわたしの頭を軽く混ぜた。彼はわたしの口から抜き取ったまだ新しいタバコを丁寧な手つきで灰皿にじりじりと押し付けた。あーあーもったいない、と小さく嘆くも彼の耳には届かなかった。
彼はわたしをじっと見つめて云った。
「なんか痩せた?」
「んー、よくわかんないけど、一也がそういうのならそうなのかも」
「名前、ごはんはいつ食べた?」
なんじに食べたと訊かずにいつ食べたのかと訊くのが彼らしいところ。いつだったっけ、と記憶を遡ってみるのだけど最近食べたもので覚えてるのはカップラーメンで、それをそのまま伝えてしまうと叱られてしまうからなんとかうまいこと云おうと頭を一生懸命働かせてみる。けれどもちっとも言葉は浮かんできやしない。くるくると考えたまま何も云えずにいると、そんなわたしを悟ってか、訊くより自分で見た方がわかると判断したらしい彼は冷蔵庫の中身とか戸棚の中を念入りに確かめていく。
「見事に何にもねえな」
久々に聞く、からからと笑う彼の声は呆れとか諦めとかが混じっていた。そのあとすぐ、ゴミ箱を見て「カップラーメンしか食ってねーのバレバレなんだけど。てかお前の好きな炭酸水切れてんじゃん」と怠惰な自分の身ぐるみを遠慮なく剥いでいく。さながら彼は証拠を一つ一つ見つけて事件を調べあげる刑事のようだ。わたしはその犯人といったところかな。
その間にもわたしは再び思考を走らせキーボードを叩こうとしたのだけど、一度集中の糸が途切れてしまうとまた繋ぎあわせるのはとても困難で、わたしは脳の神経全部を弛めた。その一通りの様子を見ていた彼は「今日くらい仕事休めよ、でさ、食糧買おうぜ」とわたしの肩に薄いジャケットをかけた。
「わたし、一也がいないと何もできないみたい」
ふと思ったことをそのまま告げると、靴を履きかけていた彼はきょとりと目を丸めてわたしを見た。
「仕事以外の生活ができなくなる」
彼がキャンプに行ってる間、確かに仕事だけは順調にいっても私生活は不甲斐ない自分に常に腹を立てていたように思う。毎朝作ってくれていた美味しい朝食を再現しようとしたけれども野菜を切るたびに自分の手を切ってしまうし、味付けもてんで上手くいかなくてやきもきした。食器を洗っていると指からつるりと食器を落としてしまうし、アイロンをしようとすると火傷はするし、散々だった。だから、彼がこの家を離れてから二週間たった頃、家事を諦めてしまった。それに伴って生活習慣もぐずぐずになった。
彼に倣って玄関に座って靴を履く。靴紐を結び終わって立ちあがると、彼はわたしの右手をとった。
「それ、当たり前」
端的にきっぱりと云い切った彼に、どういうこと? と問おうとしたけれども、それより先に彼は続けて云った。
「だって名前が俺なしじゃ生きられないようにしてるんだからさ」
その瞬間、最後のピースがカチリとはまる。あ、と思わず声が出そうになるのをなんとか呑み込んだ。頭の中での彼らが走り出して、わたしに嬉しそうにピースをしてくる。わたしも嬉しくなって、彼らにピースを返す。
たしかに彼が云うように、わたしは一也がいないと生きていけないようだ。
「そうじゃないとお前金稼いでるし、一人で生きていけるとか云い兼ねない」
「たしかに一人で十分に生きていける財力はある、というかむしろ二人くらいは余裕で養えるかもしれない」
「ですよねえ。さすが売れっ子の名前さん」
「でもそんな理由で一也から離れたりしないよ」
「え、それ詳しく教えて」
「内緒」
ええー、と情けない声をあげる彼にこっそり笑う。
実のところ、その財力の源の小説だって彼がいないと書けないし、そもそも好きだから一緒になっているのだけどなあ、なんてそんな小っ恥ずかしい当たり前の言葉たちは胸の中だけでとどめておいた。
繋がれた彼の左手に嵌められた銀色の環が、わたしの心の中の声に呼応したようにきらりと光った。