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「#甘甘」のBL小説を読む
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 1etc.小湊春市

 「春っちー! 降谷はー?!」
 ものすごく聞き覚えのある大きな声に思わず顔を上げると、栄純くんが廊下に仁王立ちをして立っていた。降谷くんに何か用でもあるのかと尋ねると、無言でずいっと現国の教科書が差し出された。確かに次の授業は国語でその教科書は返してもらわなけらばならないものだった。
「じゃあ、降谷くんに返しとくよ」
 受け取ろうと手を出すが、彼はなぜか眉をぐぐっと寄せて教科書を渡すのを渋った。
「うーむ、何か直接返さないと悪い気がするんだよなあ」
 そんなところでやけに律儀で丁寧な彼に思わず笑みが零れる。真っ直ぐで、ちょっと古風な彼を僕はとても気に入っていた。
「降谷くんは今、彼女と一緒だよ」
 そう言って栄純くんに笑いかけると、彼は目を大きく見開いて固まった。しばらくすると唇がわなわなと震えだして、か、か、かの、かの?! と意味不明な単語を…まあ彼女と言いたいのだろうことは容易に想像できた。衝撃で何も言えてない状態の彼を見て、あ、これはまずいことをしたのかもしれない、と言ってしまった後で気づいた。
 このクラス内はもちろん、僕たちの学年の間で降谷くんに彼女ができたことは有名な話だったから、てっきり栄純くんも知っているものだと思っていたけれど、彼は全く知らなかったらしい。降谷くんは自分から言うタイプではない。というより、そもそも隠すつもりもないのだろうけど、栄純くんにわざわざ伝える必要もないと判断したのだろうな。
 ああ、やってしまった…。と肩を落とす暇もなく、栄純くんから“何で何で”攻撃がはじまる。好奇心で満ち溢れた彼を止める術を残念ながら持ち合わせていなかった。
 どんな子なんだ?!
 降谷なんぞ好きになるなんて、その女の子の趣味がよくわからんな。なんで降谷のやつを好きになったんだ?!
 降谷に彼女がいることが信じられん!
 いつから付き合っているんだ!
 どうして俺には報告してくれなかったんだァー!
 春っちは前から知っていたのか?!
 矢継ぎ早に訊ねる彼に堪えかねて、栄純くん五月蝿い、と強めに言い放ったら、彼はぴしりと石のように固まった。でもそれもほんの一瞬のことで、すぐに春っちがキレたー! とまた騒ぎ出す始末。やれやれ、と肩を竦めて彼に言った。
「じゃあどんな子か直接見に行こうか」
 僕の言葉に、え? と目を丸めた彼に、もう一度同じ言葉を繰り返す。好奇心旺盛でしつこい彼の質問攻めから逃れるためには実際に見て確認してもらうのが一番だ。百聞は一見にしかずって言うしね。降谷くん、ごめん。と心の中で謝ってから、彼を降谷くんの元へと連れて行った。

 彼らは僕の予想通り食堂にいた。僕たちは彼と彼女がよく見える少し離れた席に座って昼食をとった。なんだか覗き見しているようであまり気分はよくないが、栄純くんを納得させるにはしょうがないのだと自分の心にひたすら言い聞かせた。
 降谷くんは定食を、その向かい側に座っている彼女は小さなお弁当を広げて食べていた。話をして盛り上がっているという訳ではなく、もくもくと降谷くんが箸を進める様子を、ときどき彼女がそっと眺めては微笑んで、また箸を進めている。ただそれだけだというのに、彼らからは互いに想い合っているだろうことは容易に伝わってきた。
 うーん、なんだから見ているこっちがそわそわと落ち着かず、照れてしまうようなそんな雰囲気だ。
 さて、そんな彼らを見た栄純くんはどんな様子だろうと思ってちらりと伺うと、口をぽかりと開けたまま彼とその彼女をぼんやりと眺めていた。栄純くんのことだから、降谷くんと彼女のところまで行って、所謂うざ絡みでもすると思っていただけに意外だった。僕の視線に気付いた栄純くんは偉そうに腕を組み、ふんっと勢いよく鼻息を出してから言った。
「降谷も、あの子も幸せそうだから、なんか邪魔しちゃ悪いな」
「うん、僕もそう思うんだ」
 栄純くんの言葉に大きく頷いて、視線を再び彼と彼女に向ける。ちょうどふたりはごはんを食べ終えたようで、ゆっくりと席を立った。トレーをそれぞれ返し、それから自然と繋がれた手は、ふたりの関係性を何よりも示していた。ふたりを見てると、なんだかこっちも幸せな気分になるのだ。
「僕たちにもああいう彼女ができるといいよね」
「そうだな! まあ、その前にまず春っちは伸長をのばさないとな!」
 そう言ってげらげら笑う栄純くんのほっぺを問答無用で思いっきりつねった。痛い痛いと喚くがそんなの無視だ。今のはどう考えたって栄純くんが悪い。
 結局、ふたりの間に入ることのできなかった栄純くんは、僕に教科書を託して自分の教室へと戻って行った。
 僕はというと自動販売機で牛乳を買った。
 ん? 別に、身長なんて気にしてないよ? ただなんとなくボタンを押す手が、牛乳に伸びていただけだ。



 2etc.御幸一也

 根本的なところは変わってないけれど、秋が深まってくる頃になって少しずつ雰囲気が変わった気がしていた。
 秋大会の決勝戦終わりに、この勘は間違っていなかったことを知る。
 降谷と嬉しくて泣いている様子の女の子が一緒になって話している姿を見て、すぐに腑に落ちた。
 ああ、そういうことか。
 直感的にわかったというよりも、見たら誰でもわかるんじゃないかと思う。二人だけの柔らかくてあたたかな特別な空気が流れているのが目に見えるようだった。
 なんていうのだろうか、こういうのを。まさにお似合いの二人というのだろうか。
 俺は倉持と前園に抱えられながら、降谷とその女の子にそっと目を向ける。二人のやりとりは聞こえないけれど、どこか安心したような、それでいて嬉しそうな女の子の笑顔が垣間見えた。
 秋まであいつは無意識的に一人で試合に臨んでいたところがあった。一人じゃ野球はできないというのに、施錠された空間に一人でとじ込もって中々出てこなかった。俺たちが必死になってあいつをそこから連れ出そうとしたができなかった。けれど、彼女はその施錠をいとも簡単に外して、あいつの手を引いたのだろう。外へと連れ出された降谷はきっと気付いたはずだ。俺たちがいる。ライバルの沢村がいる。そして、彼女がいる。ひとりじゃない。
 北海道から一人でやってきた降谷は誰にも言えない孤独や痛みを彼女が一緒に背負ってやってるのかもしれない。
 一人の投手として近くで降谷を見ていたからこそ、そういうのがなんとなくわかってしまう。できれば自分がその役目をするべきだったのだろうが、そんな心配も杞憂に終わったらしい。
 何だか親鳥から離れていく雛鳥みたいだな、とそんな想像をして自然と口角が上がってしまった。
「何ニヤニヤしてんだ気持ち悪ィ」
「とうとう頭までおかしくなったか、御幸ィ!」
 両隣から容赦ないツッコミが入る。だよなあ、俺もそう思う。と素直に相づちを打つと、二人がびっくりしたようにからかう声を止めた。ちょっとの間だけ変な空気が流れ、暫く間をおいてから、らしくねえこと言うなよ、まじでお前やべえな、と倉持から本気で心配された。
 あー、俺もあんな彼女欲しい。
 思わず洩れ出そうになった欲望は口から滑りでることなく、両脇から強く抱えられることによって、いてて、と情けない声が出る。俺は両隣の男にがっちりと捕まれたまま運ばれていく。
 両隣の片方だけでもいいから女の子だったらなあなんて思ったけれども…。
 やれやれ。
 どうやら現実は厳しいようだ。



 3etc.苗字名前

 とても不思議な人だと思った。
 強豪野球部の一年生にしてレギュラーに入りその容姿も相俟って皆から騒がれていたというのに、彼自身はそういうことに全く無頓着なようで、自ら話すようなことは一度もなかった。クラスでも、小湊くんと会話を交わす姿はよくみたけれども、それ以外の子と仲良く話す姿は見受けられなかった。

 シロクマ。

 唐突に落とされた言葉にわたしは目を瞬いた。顔を上げると、降谷くんはわたしの机の上に広げているハンカチを指差してもう一度シロクマ、と小さく呟いた。

 シロクマ、好きなの?

 恐る恐る聞いたわたしに対して降谷くんはこくりと頷いて、そのハンカチから目を逸らさずただじっと眺めた。わたしが見られているわけではないのに、長めの黒い前髪から覗くその真剣なまなざしに心臓がどきりと大きく跳ねた。きれいだなあ、なんてぼんやりと思っていたら休憩の終わりを告げるチャイムが鳴って降谷くんは自分の席に戻った。
 なんとなくそれがきっかけで、休憩時間になるとふらりと気紛れにわたしの席までやってきてぽつぽつと話すようになった。降谷くんは自分のことをめったに話さないけれども、稀に愚痴を溢すことがあった。
 暑い。しんどい。ご飯多い。怒られた。
 きちんとした文章になりきらず単語だけを訥々と話すのだけど、わたしはそんな降谷くんの口からこぼれ出る愚痴を聞けるのがとても嬉しかった。わたしにしか見せない降谷くんの一部なのだと思うと、口もとが思わず緩んでしまう。この時間はわたしにとって特別で、大切な時間だった。

 それから、わたしは野球なんてちっとも興味がなかったけれども、友人に降谷くんと仲良いなら試合観に行ってみようよ、という軽い誘いに乗せられて行くことになった。
 観てまず驚いたのは、彼のファンが想像以上に多かったことだ。彼の一挙手一投足に歓声をあげる女子生徒がたくさんいたのだ。何でこんなに降谷くんは人気があるのだろうと常日頃思っていたけれども、試合を観て納得した。マウンドの中央に立つ彼はとても勇ましく格好良く映った。教室にいるときのぼんやりとした彼ととても同一人物に見えなくて、何度も目を瞬いてしまう。けれどもまっすぐにキャッチャーのミットを見つめる瞳は降谷くんそのものだった。なんだかものすごく遠い存在の人なんだなあと感じてしまったのだけど、次の日学校で会うと、いつもと変わらないぼんやりとした降谷くんがいて、安心したのは記憶に新しい。

 暑い暑い夏の日の休み時間、降谷くんはいつもの調子でぽつりと言った。

 苗字さんともっと話がしたいし、声を聞きたい、

 彼はふと言葉を止めて、座っているわたしと目線を合わせるように屈んだ。顔が近くなったから、彼の息遣いをわたしは耳のすぐ近くで感じて、顔と耳がカッと熱くなる。それで終わりかと思ったけれど、彼は続けて言った。

 だから、きっと苗字さんのこと好きなんだと思う。

 彼の言葉はいつだって唐突で、わたしの想像を軽々と超える。今回だってそうだ。わたしは彼の言葉が信じられなくて、え? と聞き返すと、降谷くんは苗字さんのこと好きなんだと思う、ともう一度繰り返した。自分のことをまるで他人事のように話す彼に小さく笑って、一呼吸置いてから言った。

 うん、わたしも好き。

 そっか、と彼は呟くように言って、わたしの頭におそるおそる手を置いた。大きな大きな手。ボールを握りこむ手。不器用になでるその大きな手が、たまらなく愛しかった。



 4etc.降谷暁

 降谷くん!
 決勝の試合が終わって球場から出ると、聞きなれた声がした。その声の方向へ顔を向けると応援に来てくれていたらしい彼女が駆け寄ってくる。けれども彼女の目からはぼろぼろと大粒の涙が零れ出ていた。ぎょっとしてを目を見張った。どこか痛いのだろうか、それとも何か悪いことがあったのだろうか、と眉をしかめたけれど、目の前まできた彼女は満面の笑みを浮かべながら泣いていた。どうやら彼女は嬉しくて泣いていたみたいだ。そうだとわかってほっと息をつく。

 お疲れさま、ずっと見てたよ。
 うん。
 最後、すごかった。
 うん。
 ほんと、よかった。足、大丈夫なの。
 大丈夫、大したことない。
 本当に?
 本当。
 嘘だ。痛いくせに、我慢、してるでしょ。それくらいわかる。ずっと降谷くんを見てたら、そんなのわかる。
 そっか。
 痛かったら泣いてもいいんだよ?
 泣かない。苗字さんが僕の代わりに涙を流してくれるから、泣かない。
 …じゃあ、わたしが降谷くんの分、泣いたり笑ったりする。

 彼女の濡れた頬に手を添えて、濡れてる頬にそっと唇をあてがった。かさかさとしていた自身の唇がしっとりと濡れて、そこから舌にその滴がじわりと広がった。しょっぱくて、つんとして、彼女の感じる僕の痛みが少しだけまた僕の痛みへと戻ってきたみたいだった。
 まるで痛みを感じなかった足首から熱が戻ってくる。ほら、痛みが戻ってきた。そのまま彼女に伝えると、彼女は涙を流しながら、再び笑った。
 感情を表に出すのが苦手な僕が彼女にどれだけ救われているかなんて、彼女はきっと何も知らない。僕よりも幾分下にある頭に手を置いて胸の中にそっと閉じ込めた。