幸村がふと目を覚ましたとき、彼は見たことのない場所に立っていた。
空は突き抜けるようにどこまでも青く、周りを見渡せば緑があふれていた。
おかしい、俺がいた場所はこんなところではなかった。
俺が今までいた場所はどこか冷たさを感じる病院であったはずだ。
そう思いながら、ゆっくりと足を前に出す。

歩けた。

足を前に出せ、という命令に足が従った。
おかしい、俺はこんな風には歩けなかった。
病に蝕まれた身体は、こんなに素直に言うことを聞かなかったというのに。
幸村の頭の中には数々の疑問が浮かんでいた。

これは夢なのかもしれない。
そう思い始めたとき、幸村の背後から小さな声がした。

「おはよう」

思わず振り向くと、そこにいたのは少女であった。
静かな顔でじっとこちらを見ている。
この目の前の少女は誰なのか。なぜおはようなのか。やはりこれは夢なのか。
さまざまな考えを巡らせている幸村を不快に思う様子もなく、少女は言葉を続けた。

「ねえ、あなた。死んでみる気、ない?」
「…は?」

幸村は、ここに来て初めて声を出した。
突然このようなことを言われれば無理もない。
なぜ見ず知らずの人間に死ねと同義に近いことを言われなければならないのか。

「ねえ君、ふざけてるのかい?」
「ふざけてないよ、まじめ」
「俺に死ねと言っているのか?」
「ちがうよ、命令じゃなくてお誘い」

ますます訳がわからない。

「だいたい君は、なぜ」

俺にそんなことを言うのか、と問いかけようとしたところで、視界がぐにゃりと歪んだ。

「もう行っちゃうの?」

行くとはどこへ、と口に出そうとするが言葉にならない。
そのまま、幸村の意識は闇へ落ちていった。
少女の声は、優しかった。





「ここは…」

意識を取り戻した幸村がいた場所は、見慣れた病院のベッドの上であった。
やはり先程の出来事は夢に違いない。
しかし、夢にしてはいやにはっきりと記憶に残っている。
あの風景も、大地を踏みしめる感触も、そしてあの少女の言葉も。

一体あれはなんだったんだ。
そう思ったところで答えは出るはずもなく、幸村はこの疑問を無理矢理頭の隅に押しのけた。
足は、動かなかった。




目を覚ますと、幸村はまたあの場所にいた。
これで二度目だ。
自分の身体が以前のように動くことを確認しながら、幸村は少女の姿を探した。

「…いた」

少女は、少し離れた花畑の中にぽつんと座っていた。
このままここに突っ立っていても仕方がない。
そう思い、幸村は少女のもとへと歩き出した。

「やあ」

少女はゆっくりとこちらを振り向き、「おはよう。あなた、死んでみる気はない?」と問いかけてきた。
幸村は少し考えたあと少女の隣に腰をおろし、少女の質問は聞かなかったことにして言った。

「ねえ、なぜ『おはよう』なの?今は朝だったかな」

少女は幸村の顔をじっと見つめ少し微笑んで、
「朝だよ、あなたにとっては」
と言って花へと視線を戻した。

何とも満足のいく答えを得られず、幸村は最も気になっていた質問を切り出した。

「君はどうして、この間あんなことを言ったんだい?」
「あんなこと、って?」
「ほら、俺に死んでみないかって言っただろう」
「ああ、私ね、ここに来た人みんなに聞かないといけないんだよ」
「どうして?」
「そういうものだから」

これもまた満足のいく答えだとは言えないが、目の前の少女はこれ以上言えることは存在しないかのような表情をしている。
もう聞いても仕方ないだろうと判断した幸村は、花畑に目を遣った。
色とりどりの花が、季節を無視して鮮やかに咲き乱れていた。
一際濃く咲く黄色の花が幸村の目にとまった。
その花に向けて手を伸ばそうとした瞬間、再び視界が歪んだ。

「じゃあ、またね」

また次があるのか、という言葉は音にならなかった。





次に幸村がこの場所を訪れたとき、そこには雨が降り注いでいた。
雨の粒がいくつも落ちていく中、少女はぽつんと佇んでいた。
幸村はうつむいたまま、少女のもとへとゆっくり歩みを進めていった。
身体は動く。

「こんにちは。あなた、死んでみる気はない?」
「ねえ」
「うん」
「もし俺が、それを肯定したら、どうなる?」
「死にたいの?どうして?」

人を誘っておいてなぜ今更理由なんかと思いながら、幸村は顔を上げた。
少女はやはりこちらをじっと見つめていた。

「俺は、テニスプレイヤーで」
「テニス部の部長で、みんなを三連覇へ導かないといけないのに」
「病気で身体が動かなくて」
「もうテニスは出来ないって」
「どうして、俺が」

少女は、一言も発さずただ黙って聞いていた。
幸村がうつむいて何も言わなくなると、少女は少しためらいがちに問いかけた。

「テニスは、つらい?」

幸村は、うつむいたまま答えなかった。
少女は表情を変えることなく、再び言葉を投げかけた。

「さっきの質問の答え。もしあなたが死にたいって言ったら、ずっとこの世界に居られるよ」
「…この、世界に?」
「そう。そのころには、この雨もやむと思う」

幸村は、この世界のことに思いを馳せた。
美しい景色、花、そして優しい声。
動く、身体。
居たくないと思う理由はなかった。
しかし、向こうには…。

「少し、考えさせてくれないか」

少女は心なしか複雑そうな顔をしたあと、「わかった」と言って控えめに手を振った。
視界が、再び歪んだ。





あれからしばらく後、幸村はやってきた。
今度のこの世界は、夜だった。

「こんばんは」

幸村のうしろに、月明かりに照らされた少女がいた。

「こんばんは。まともに挨拶を返したのは初めてかな」

幸村が笑うと、少女も少し笑った。

「夜は初めてだな」
「みんな、夜よりも朝や昼の方が長いから」
「人によって違うのかい?」
「うん、そう」
「この世界では?」
「この世界では」

幸村と少女の表情は穏やかだった。
静かな風が吹きはじめたころ、少女は幸村の目をじっと見て言った。

「これが、最後のお誘いになるよ。あなた、死んでみる気はない?」

ふたりの間に沈黙が訪れた。
それは一瞬だったが、とても長い時間のように感じられた。

「最後のお誘いなんだね」
「そう、最後」

幸村は少し目を伏せたが、次の瞬間に少女を確と見据えた。

「君の期待を裏切るかもしれないけど、それは出来ない」

幸村の強い言葉に少女の表情は変わらず、穏やかなままだった。

「なぜ?この世界に居ればあなたの身体は動くし、つらいテニスもしなくて済むよ」
「俺は逃げるわけにはいかない。必ず身体を元に戻して、三連覇を成し遂げなければいけない」
「テニスは、大切?」
「俺にとって、テニスはどれだけつらくても失うわけにはいかないものなんだ」

もはや少女の意見など耳に入らないほど、幸村の意思は固かった。
そんな幸村を見て、少女は「本当にいいの?」とたずねた。

「いいよ。これは最後のお誘いなんだろう?」
「そうだよ」
「ということは、俺はもうここには来ないんだろう?」
「そうだよ」
「そうか、それだけ分かれば充分だ」

幸村は少女に背を向けてゆっくりと確実に歩き始めた。
少女はそんな幸村を引き止める様子もなく、ただ見つめていた。

「さよなら。あなたはもう、死んでみる気はないんだね」
「さよなら。俺がいるべき場所は、テニスコートだ」

幸村の姿が歪み、消えた。
彼の居た場所をじっと見つめる少女の足元には、淡紫紅と白の花が静かに揺れていた。






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