エピローグ
「おーい、名字ちゃん」
「いつまで寝てるのさ。寝坊助だなあ」
「こりゃ罰ゲーム追加だね」
「………名前」
こうしてたまに王馬くんの声が聞こえる。
これは幻聴だろう。だって彼はもう……。
でも、もう一度彼に会えるのなら。
私は今、彼と同じ場所にいるのだろうか。
私はあの後…………
薄っすらと目を開けると眩しい光が入ってきた。思わず眉をひそめて再び瞼を閉じる。
一瞬、人影が見えた気がした。
顔の横でピョンと跳ねた髪が特徴的なシルエット。
懐かしくて、大好きな。
私がもう見るはずのない、あのシルエット。
その人影がまぶたの裏にこびりついて、今もくっきりと浮かんでくる。
私、結局死んだのかな。
死んで、王馬くんと同じところに来たのかも。
「おはよう名字ちゃん」
ほら、またあの声が聞こえる。
彼のやけに優しい声。
王馬くんには死ぬなって言われたけど、また同じところに来れたのなら、それもまたいいかなって思ってしまう。
こっ酷く怒られようが嘘をつかれようが、また彼に触れられるのなら。
私は再び目を開けた。
まだ目が眩むけれど開けられないほどではない。
今度ははっきりと姿を捉えた。
やっぱり、王馬くんだ。
彼の名前を呼ぼうとしたけれど、代わりに喉からはすぅすぅと空気の抜けるような音が出る。
私は手を伸ばした。
王馬くんの手に触れるととても温かくて……。
「名字ちゃんは泣き虫だなあ」
王馬くんだ。
王馬くんがいる。
「んっ……」
私は王馬くんにしがみつき声にならない声をあげて泣いた。子供みたいに顔をくしゃくしゃにして咽び泣いた。ブスだと罵られても私は泣き続けた。彼の着ている病院服が私の涙で濡れても、王馬くんは私の背中を撫で続けた。
駆けつけた医者や看護師に至るところを検査されて、現状の説明を受けた。あの悪趣味なコロシアイはヴァーチャル世界での出来事だった。そんなこと突然言われても理解できない。植物人間状態のまま目を覚まさない可能性も十分にあったらしい。それでも私が目を覚ましたのは、彼の声があったからだと思う。
病室に再び静寂が戻った時、徐々に混乱が収まり、生きていることをじわじわと実感してきた。へッドボードに背を預けて窓の外を見る。高い空の向こうに鳥が飛んでいる。
「また王馬くんが助けてくれたんですね」
王馬くんはじっと私の横顔を見ている。構わず掠れた声で喋り続けた。
「王馬くんの声がずっと私を呼んでいました。王馬くんに会いたくて……目を覚まさないとって……」
ああだめだ。やっぱり現実感がない。
だって私にとってはあの嘘の世界も命をかけた現実で、今こうして喋っている"現実"の私との境界線はどこにあるのか。
その時、突然唇に柔らかいものが触れた。
触れたとわかった時にはまたすぐに離れていく。
王馬くんの顔がすぐ近くにあり、ばっちりと目があった。
「なーに今さら動揺してんの名字ちゃん」
王馬くんは私の目を見ながらそう囁いた。
瞬きすら忘れてぽうっと王馬くんの顔を見ていると、彼の口端がにぃっと釣り上がった。
「え、え……?」
唇の感触から数秒遅れてかあっと顔が熱くなる。
布団を口元までひっぱり顔を隠すけれど、王馬くんから目を離すことができない。アメジスト色の瞳に私の影が映っている。まるで私が王馬くんの中に囚われてしまったようだ。
いや、もうとっくの昔に囚われている。
王馬くんのことを考えると胸が苦しくなって、王馬くんと話すことが楽しくて、王馬くんが大好きで。
他人の嘘が嫌いな王馬くんは嘘つきな私のことが嫌いなんだと思っていた。やはりこれは夢なのではと疑う。死後の世界、もしくは私の身体は生死の境にいて都合のいい夢を見ているだけ……。
ふいに王馬くんが私を抱き寄せた。その手で後頭部を押さえられる。彼の跳ねた髪が頬にあたって気持ちいい。
「名前」
「ん……」
耳元で吐息混じりに名前を囁かれてくすぐったい。もしかしてこれはからかわれているのだろうか? ますます体温が熱くなっていく。
彼は私の顔を見るとにししと笑った。
「王馬くん……」
「オレ怒ってるんだよね。死ぬなって言ったのに無茶してさ」
王馬くんは顔に貼り付けていた笑顔をしかめっ面に貼り替えた。
「私……やっぱり死んだのですか?」
そう言うと王馬くんは珍しく表情を崩す。一瞬だったけれど、驚いたように目を見開いた。
自分が死を覚悟していたことは覚えている。だけど王馬くんが死んでしまって、私は……。
王馬くんは優しく私の頭に手を置いた。撫でられるととても懐かしく心地よい気持ちが胸にじわりと広がる。
「全部、終わったよ」
王馬くんに言われるともうそれだけでいいかって何故か納得してしまう。今、王馬くんの温もりを感じられる、それで十分だ。
私が王馬くんを好きという設定。
それはあのコロシアイゲームの中での設定。
その設定があったのかなかったのかはわからない。
けれど、現実世界の彼を前にして、私の心臓は過去に例を見ないくらい早鐘を打っている。
「王馬くんが好きって気持ちだけでも忘れないでよかった」
「名字ちゃんってホントに恥ずかしいヤツだよね。オレがいないと生きることすらできない赤ちゃんだからしょうがないかなあ?」
「あ、赤ちゃんじゃないですよ……」
王馬くんは私の顎を持ち上げてにししと笑う。また顔が熱くなってきて目も合わせられないくらい動揺してしまう。
王馬くんはそんな私の反応を見て楽しそうに笑った。今のは完全にからかわれた。
悔しいから勢いで王馬くんの唇に自分の唇を押し当てる。一瞬で離れたのに、私の心臓はバクバクとうるさくて、顔も火が吹き出しそうなくらい熱くて、頭の中もグルグル渦巻いていて、とにかく今すぐ逃げ出したいくらい恥ずかしい。
しかも、彼は動揺を一ミリも見せることなく、真顔で私の顔を穴が開くほど見つめてくる。無反応というのは、嫌がられるよりキツい。
あまりのいたたまれなさにうつむき加減に目線を反らすと、王馬くんは短いため息を吐いた。
「はぁ……オレの唇は値打ち物なのに無断で奪うなんて。どう落とし前つけてくれるのかな、名字ちゃん?」
「ひぃ……!」
顔を上げると、王馬くんの口が三日月型に頬まで釣り上がっていて、目も弧を描いているけれど瞳の奥が全く笑っていない。
久しぶりに見るその表情に背筋が凍りつく。これは絶対に倍返しされる。
身を固くした私を見て薄ら笑う王馬くんはちょっと怖かったけれど、私は幸せに満ちていた。
どえむ……というわけではなく、王馬くんとこうして話し合うことができるって本当に幸せなことだと噛み締めているのだ。これからはずっとこうして生きていけるのだろうか。
先のことはわからない。
けれど彼が側にいるだけでどうにでもなる気がする。
私が記憶している姿より少し痩せた王馬くんが、夕日に照らされて儚げに見えた。痩せて骨ばった手に自分の指を絡める。
明日は他のみんなの様子を見に行くのもいいかもしれない。時間はまだまだあるのだから。
この嘘でできた狂った物語は一先ずここでおしまい。
だけど、私たちには明日がある。私たちは生きている。
これからの物語は本当の世界で私自身が紡ぎ出すのだ。
それが幸せな物語になることを願って、愛しい彼の手を見失わないようにきゅっと握った。
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