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王馬くんに言われた通り、私は一階の女子トイレに来た。
幸い誰にも出会わずに来ることができた。それは才囚学園の仲間たちが少なくなってしまったことを示しているようで、お昼にもかかわらず静かな廊下に寒気すら感じる。
およそ1か月前の私もこうして不安に駆られながらここの扉を開けたのだろうか。今となっては曖昧だ。
「うっ……」
中に入った瞬間に頭が割れるように痛んできた。
私はあの時王馬くんに説明したとおり、女子トイレに入ったところまでは覚えているのだが、気がついたらベッドの上だった。前後の記憶もあやふやだ。
だったらその記憶が消えたこの場所が一番怪しい。
今思えばこんなことに気がつかないなんて……。いや、王馬くんが言っていたように首謀者やコロシアイの裏事情に意識が向かないように洗脳されていたのだろう。それに、立て続けに起こるコロシアイに、そこまで意識が回らなかった。
内側から殴られているような頭痛は治まらない。
それでも私はなんとか思い出そうと脳と身体を動かし続ける。
手のひらの上のルーちゃんは何の反応も示さない。当然だ。いつもどおりのトイレなのだから。
私が押し込められていたという個室、鏡、通気口、あらゆるところを探してみたけれど首謀者に繋がる手がかりは見つけられない。
このトイレに入ってから何分経っただろうか。
早くしないと誰かが来るかもしれないという焦燥感だけが募る。
やはりここには何もないのかと諦めそうになりながら用具入れの扉を開く。中に入ろうとした時、まるで人を躓かせようと意図したかのように置かれているモップに躓いた。咄嗟に奥の壁に手をつくと、あろうことか壁自体が動いて私は支えとなるものを失った。
「きゃあ!」
切り裂くような悲鳴と、派手な物音が重なって静かな校舎に響く。
私は見るも無惨な姿でトイレの床に倒れてしまった。特にルーちゃんを守ろうと片方の手を出さなかったことが事を大きくしたらしい。
大変だ……。
これだけ大きな声を出したら誰かに聞かれたかもしれない。それが首謀者だったら……考えるだけでも恐ろしい。
床に打ちつけた足や身体が痛むが、急いで立ち上がり、用具入れから出る。暫く入り口の扉を凝視するも、誰かが来る気配はない。
どうして私はこんなに鈍くさいのだろうか。王馬くんにイジられても反論できない。
まあおかげで隠し扉を見つけられたし、身体の痛みと引き換えに殴られるような頭痛が引いたので良しとしよう。
いつの間にかルーちゃんの姿が見えなくなっていた。
焦って辺りを見渡すが、ハッと気づく。あの扉の先に行ったのかもしれない。薄く開かれた扉の先を見つめゴクリと喉を鳴らした。
ああ……これ……前にもあったような……。
変な動悸を感じて胸を押さえつつ足を動かす。ついに突き当りに来てしまった。
「ルーちゃんどこぉ……怖いよ……」
なんとも情けない声が出てしまった。中で首謀者が待ち受けていたらと思うと呼吸も荒くなってくる。
情けない私の声に応えるように、ルーちゃんがチチッと鳴いて駆け寄ってきた。
「あああ無事でよかった、……」
手に飛び乗ってきたルーちゃんに頬をすり寄せる。
何かあったらこの子だけでも守ろう。
私はそう覚悟を決めて突き当りの扉を開けた。
*
オレがゴン太を騙した時にモノクマから用意されたのも懐中電灯のライトだった。ライトを浴びるだけで記憶を思い出すなんて胡散臭いにも程があるが、光を浴びたゴン太の反応を見ればその効果は明白だった。
きっとあれはゴン太が純真なバカだったからではない。あれは本当に脳に作用をもたらすライトなのだ。そう確信したのは名字ちゃんが何かライトを浴びた気がすると発言した時。
名字ちゃんはそのライトで記憶を上書きされた可能性が高い。
黒幕は、そんな便利なライトがあるのにゴン太の件の時しかそれを使わなかったのは名字ちゃんの記憶の引き金になることを恐れたからか。
そう考えてオレはライトのことを探るためにあちこち動き回っていた。
食堂に立ち寄ったのが間違いだったのか、むしろこれはオレが元から望んでいた状況だと受け入れるべきか。
食堂でバッタリ出会った春川ちゃんはオレの姿を視野に入れるなり、殺気を放ち敵意をむき出しにしてオレを真正面から睨んできた。
「王馬ァ……」
「うわ、どうしたの春川ちゃん。いつにも増して殺気立ってるね」
「あんた……なんのつもりであんなことを私たちに思い出させたの」
「……なんの話?」
春川ちゃんの刺すような視線への疑問、首謀者への怒り、そして名字ちゃんの心配、一度に様々な感情が湧き上がって、すぐに消えた。
皆目検討もつかないその問いかけで、遂に首謀者が動き始めたことを悟ったのだ。春川ちゃんは射るような目でオレを見たあとユラリと揺れたかと思うと次の瞬間にはオレの首を締め上げようと腕を伸ばしていた。
「ふざけないで」
ドスの効いた声が頭上から降ってきた時、扉が開く音とともに、焦るような声が食堂に響いた。
「お、おい! ハルマキ!」
百田ちゃんが春川ちゃんの腕を掴み、オレの方に向き直った。
暫くじっとオレを見ていたかと思うと一度視線を彷徨わせてから、意を決したように眉を寄せてオレを睨む。
「王馬……お前絶望の残党だったんだな」
「は……?」
「コイツさっきからこうやってしらばっくれてるんだよ。どうしてライトなんか用意したんだ」
「……ライト……ね」
ああそういうことかと合点がいくと同時に、名字ちゃんは大丈夫かな、なんてことを思っていた。
どうやら例のライトによって、オレは首謀者ということになっているらしい。
元々オレが考えていた計画ではオレ自身を首謀者だと思わせることも必要だったから、もう、この機を逃すわけにはいかないということだろう。
でも名字ちゃんのおかげでその手段を取ることなくもっと平和的にこのゲームに勝てそうだと思っていたところだったのに。
なーんて、このオレが今さら平和を語ったところで、糸目で常に笑みを浮かべている奴くらい胡散臭い。
名字ちゃんの様子がおかしいことに気がつかない首謀者ではないということか。
どんくさくて弱い名字ちゃんを一人にすることになりそうだけど、彼女はその状況に耐えられるだろうか。
……耐えてもらわなければ困るんだけど。
オレの計画も無にされかねないからね。
噛み合い始めたと思っていた歯車がバラバラに離れていく。
そうなればもうこの歯車を容易く止めることはできない。
オレは口元に微笑を浮かべた。
「キミたちが何のことを言ってるのか知らないけど、オレは正真正銘、首謀者だよ!」
「テメー……!」
さっき春川ちゃんを止めたばかりの百田ちゃんが掴みかかる勢いで凄む。
今度はその百田ちゃんの勢いを止めるように、黙りこくっていた春川ちゃんが不意に彼女の名前を溢した。
「……名字は?」
「ん?」
「そうだ! 名字は一緒じゃねーのか!?」
百田ちゃんが思い出したように怒鳴る。これだから直情型の人間は面倒であり、扱いやすい。
彼女のことはいずれ聞かれると思っていたけど、律儀に答えてやる必要はない。
「んー? 名字ちゃんを探してるの? かくれんぼ?」
「んなわけねーだろ! 名字は王馬も一緒に外に出るって言ってオメーを追いかけたんだよ!」
「あーそういえば昨日名字ちゃんと話したね。でも今となってはオレが一緒に行く意味もなくなったでしょ?」
人差し指を唇に当ててニヤリと笑うと、春川ちゃんの顔があからさまに歪んだ。ああ怖い怖い。彼女なら殺気だけでワイングラスを割れるのではないだろうか。
「王馬……テメーはいけすかないヤツだが名字にだけは友好的だと思ってたんだがな……あいつの気持ちさえも踏みにじんのか?」
名字ちゃんの気持ちを分かっていないのはそっちだ。
名字ちゃんとオレの関係が周りにどう思われようが気にならないと思っていたのだが、いつの間にかオレは随分と度量の狭い人間になってしまったのかもしれない。
「名字ちゃんとのことは関係ないだろ」
思わず溢れたその声が自分の口から発せられたものだと気がつくのに2秒は要した。
名字ちゃんとのことについて他人に口出しされることが自分の中でタブーになっていただなんて思いもしなかった。そのことに今気づかされたというのも癇に障る。
しかしオレはすぐにいつもの笑みを浮かべて百田ちゃんたちに向き直った。
「とにかく首謀者のオレに言いたいことがあるなら今度からは男らしく一人で来なよ。オレはエグイサル倉庫にいるからさ。その時なら答えてあげる。嘘だけどね!」
そう言い捨てたオレはヒラリと身体を反転させて食堂を出た。
その足で倉庫に向かい、お目当ての物を探す。
「あったあった」
この学園内の物品、構図などは一通り把握しているので香水を見つけ出すのにさほど時間はかからなかった。
寄宿舎に戻ったオレはピッキングで自室の扉を開ける。
首からストールを取り、その香水を少量つけた。こんなものが役に立つ日が来るとは予想していなかったが、何があるのかわからないものだ。
鈍い彼女にもわかるようにその手がかりをベッドの上に置いた。
そして、山積みにされたダンボールに手を伸ばす。
ごめんね名字ちゃん。
最後に見た、目を潤ませてオレを見上げる彼女の顔を思い浮かべながら、オレは部屋を出た。
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