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現実世界に戻ってきて一番に感じたのは痛みだった。
慌てて頭に被っている装置を取り、ズキズキと痛む箇所を確認する。左手の人差し指から血が出ていた。その隣でルーちゃんが興奮したような眼差しで私を見ている。
自分の指も気になったが、それよりもみんなの視点が一点に注がれている、その凄惨な光景に意識を向けざるを得なかった。
指の痛みなんてどこかへ飛んでいってしまう。
喉元を押さえて苦しそうな顔をしている入間さんの姿は目を覆いたくなるほどなのに、その異様な光景から目が離れない。
ああ、やっぱり。
その異様な光景を見てそう思ってしまうくらいには、この環境に身体も精神も慣れてきてしまったのか。
「名字さん! 指から血が出てるよ!」
最原くんに指摘されて、私は指を怪我していることを思い出した。意識すると再び痛み始める。
「どうしたんでしょう、これ……? とにかく洗い流してきます」
原因不明の怪我を不思議に思いながら教室を出ようとしたのだが、待って、と最原くんに引き止められてしまった。
最原くんは怪我をしている方の私の手を取ってじっくりと観察する。
「血はほとんど乾いてる。これくらいの傷の深さならだいたい30分前にできた傷かな。……よく見たらこれ、歯型……?」
歯型と聞いてピンときた。
そういえば現実世界に戻ってきた時、ポーチに入っていたはずのルーちゃんが出てきていた。
「これはルーちゃんがつけた傷でしょうか。そうだとしたら、入間さんの様子がおかしいことに気がついて必死に私を起こそうとしていたんですね」
気づけなくてごめんね、ルーちゃん。
「僕もそう思うよ。彼女の死亡時刻とも一致するからね。ごめん、引き止めちゃって……ついて行くよ」
「私のことはいいですから、最原くんは捜査の方をお願いします。私も含めてみんなが最原くんに頼りっきりなのは良くないとは思いますけど……事実一番頼もしいのは最原くんです。捜査とは関係のないことに最原くんを付き合わせたとなったら私がみんなに怒られちゃいますよ」
最原くんは私の困り笑いを見て視線をそらした。
そのまま何も言わず、どうすべきか悩んでいる素振りを見せる。
その時、私達の間に予想もしなかった人物が割り込んできた。
「大丈夫だよ、最原ちゃん。名字ちゃんがおばけにビビってお漏らししたり泣きべそかかないようにオレが責任を持ってついて行くからさ! 心配しないでよ」
その意外な人物を凝視する。
今更どうして……。どういう意図があるの?
一瞬のうちに様々な考えが脳内を駆け巡る。
「どういうつもり……?」
最原くんは刺すような視線で王馬くんを見据える。それを真正面から受け止める王馬くんは何とも思っていないかのような口調で話し続ける。
「オレは単にみんなの手助けをしようと思っただけだよ? 優秀な探偵さんが、のろまでどんくさくてトラブルメーカーな名字ちゃんに付き合う必要はないって。ほら、オレって優しいからさ!」
どういうつもりかわからないけど、これはチャンスではないか?
王馬くんがそう簡単に口を割るとは思えないけど、彼が考えていることを聞き出すチャンス。
「ありがとうございます、さすが優しい王馬くんですね〜こんなのろまでどんくさくてトラブルメーカーで役立たずな私なんかを気にかけてくださって!」
満面の笑み、のつもりだけど引きつっているかもしれない。
「……ほら、本人もこう言ってるしさ。捜査は任せたよ!」
心配げな最原くんに見送られて私たちは廊下に出た。
いざ二人きりになると何を聞けばいいのかわからない。いや、聞きたいことは山ほどあるのだがどれも本人だからこそ口に出せない。
二人して無言で歩く。私達の靴の音だけがこの空間を支配している。ひょっとすると私の息遣いも、いつもより速い鼓動の音も聞こえているかもしれない。
私はしだいに何を聞こうか焦り始めた。王馬くんから言い出したことのはずなのに、彼は何も喋らない。そのことも焦りの原因となる。
話すことがないのならなぜ私についてきたのだろう。なぜ今更私に構うのか。
ぐるぐると思考を巡らせていると、不意に王馬くんが口を開いた。
「名字ちゃんって、嘘がうまいのか下手なのかわかんないよね」
「……え?」
王馬くんは真顔で話し始めたかと思うと、一瞬にして表情を変えた。汚らしいものを見るような目で私を見る。
「オレ、他人の嘘が大ッキライなんだよね」
そう言い放った彼はそのままどこかへ消えてしまった。
残された私はただ廊下に立ち尽くす。
天井を見上げて、目を瞑った。
あぁ、やっぱり彼には敵わないな……。
先に白旗を上げるのはどっちだろう?
私はそろそろ限界だよ……。
王馬くんは私のことをどこまでわかっているんだろうね。
私は、彼のことを理解していない。嘘というベールが何重にもかけられている彼を、本当の意味で理解できる日なんて来るのかな。でも、私だってただぼんやりと王馬くんを見ていたわけじゃない。
王馬くんはいつだって本気だ……。
今回の学級裁判は今までにないくらい辛いものだった。ゴン太くんは最期まで立派な紳士として生きた。
おしおきが終わり、重苦しい空気に押しつぶされそうになる。
それでも、ゴン太くんの死を無駄にしないために、前に進むためにも、今回の犯行を企んだ王馬くんに聞かなければならないことがある。
百田くんは顔を歪ませながら王馬くんを問い詰めた。
「外の世界の秘密ってなんだよ! ゴン太のことを想ってるなら本当のことをーー」
「嫌だよー! バーカ!」
王馬くんは先程までの涙は嘘だと言うように口を大きく三日月の形にさせて笑った。
王馬くんの口からは聞くに耐えない悪意の言葉が次々と飛び出してくる。
「オレは純粋に、心の底から、この疑心暗鬼のゲームを楽しみたいだけなんだ!」
そう言って王馬くんは不気味な笑みを見せる。
みんなの彼を見る目が耐えられない。
さっきまでさんざん彼を疑ってたくせにこういう言葉だけ信じて……。
「ほら、オレって悪の総統だからさ、性格がひん曲がってるんだよねー。純粋に人が苦しむのが嬉しいんだ! この世にはそういうヤツもいるんだよ! 理由もなく悪意を撒き散らす、オレみたいな……」
「やめて!!」
そんな言葉聞きたくない……!
「王馬くん……どうしてそんなことを言うんですか? 何を企んでいるんですか? それは、王馬くんの本心なのですか……?」
「名字ちゃん」
王馬くんは真っ直ぐ私だけを見る。私は瞬きもせずに彼を見返した。この空間だけ時が止まってしまったかのように誰も動かない。
そして、王馬くんの口がゆっくりと動き始めた。
「残念だけど、これがオレなんだよ。オレのことを知ったようなことを言う名字ちゃんは前から邪魔だと思ってたけど、本当にどうしようもないね。目障りなんだよ」
冷たく、鋭く、私をえぐるその言葉に、私は何の反応も示せなかった。涙さえ出ない。顔を歪ませることもしない。自分の中で受け止めきれていないだけかもしれない。
「テメェ……入間やゴン太だけじゃなく、名字にまでそういう口をきくのかよ」
百田くんは王馬くんに詰め寄ると力に任せてとストールを掴んだ。
「名字は……こんなテメーでも信じようとしてんだよ! それでもテメーはそんなほざいたことばっか言ってんのか!」
「オマエラは人を信じ過ぎだよ。オマエラが見てきた名字ちゃんだって、諸手を上げて信用していいのかなあ……?」
「はぁ……何言ってんだよ?」
百田くんは顔を歪ませて目の前の彼を睨みつける。王馬くんはギリギリと締め付けるように百田くんの手を掴んで、襟首から離した。
王馬くんはため息をつきながら乱れたストールを正す。
「これだけは言っておくけどさ……ゲームに勝つのはオレだからね」
そう言い放って王馬くんは去って行った。
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