Day 10


「……入って」
「お、お邪魔します」
名前はその晩、最原を部屋に招き入れた。彼はいつもの黒い学ランは着ておらず、ワイシャツに制服のズボンという格好だった。いつもワイシャツで寝ているのだろうか。だとしたらシワがあまりついていないので寝相がいいのかもしれない。

名前は緊張でガチガチに硬くなっている最原をソファに座らせる。
「えっと、お茶飲む?」
「あ、うん」
名前も内心ではめちゃくちゃ緊張している。冷静に考えると付き合ってもいない男女が夜に部屋で二人きりって時点でアウトなのではないだろうか。この考えって古いの? 近年の若者はこんなことしょっちゅうあるの?
恋愛経験が少ない名前は何が正解なのかわからない。寝るだけだよね。うん、寝るだけ。
自分に言い聞かせてお茶を最原の前に差し出す。緊張しているのはおそらく最原の緊張が伝わっているのもある。

よほど喉が乾いていたのか、最原はゴクゴクと喉を鳴らしながらお茶を飲み干した。緊張をほぐすためにお茶でも飲みながらお話しようと思っていたのだけれど。
最原がカラになったコップを慎重な手つきで机の上に置き、部屋の中を静寂が包んだ。

「なんか、こんなことになってしまってごめん……。あの、呼び出しておいてなんだけど、私、平気だから自室に戻っても大丈夫だよ」
嘘。本当は部屋にいてくれるだけで不安な気持ちが薄れる。今だって緊張はしているけど嫌な気持ちではない。だって最原を選んだのは自分なのだ。優しくて、いざという時頼りになる最原を。
しかし最原の固い様子を見て、自分のわがままが彼に相当なストレスを与えているのだと気づいてしまった。だから最原のためにはやはり自室に戻ってもらった方がいいだろうと考えた。

しかし最原は、緊張しつつもしっかりと首を横に振った。
「全然平気に見えないよ。原因不明の体調不良が続いて不安にならないわけがない。名字さんが一人になりたいって言うなら僕は帰るけど、一度でも手を取ってくれたなら、僕はちゃんと名字さんの力になりたい。自惚れだったらごめん……」
最原は真っ直ぐに名前の目を見つめる。そこに嘘も恥じらいもない。純粋に名前のことを想ってくれての言葉だ。名前は零れ落ちそうになる涙を堪えて自分の手を握りしめる。

「ありがとう……本当はすごく不安だった。この状況自体よくわからないのに体調も一向に快復しない。自分の身に何が起きているのか不安で仕方なくて、実は誰も信用する気になれなかった、ごめんね」
「……ううん」
名前は拳を握りしめたまま、自分の気持ちを吐露する。今なら、最原になら言えるから。
「でも最原くんの目を見てわかったの。最原くんは本気で他人のことを思える人だって。私が困っていたら、きっと最原くんは助けてくれる。本当に根っからの探偵さんなんだなって、そう思った。だから、依頼するね」
顔を上げると、最原の頼もしい視線と交わる。
「今だけでいいから、私と一緒にいてほしい」
名前の細い声を聞いて、最原は深く頷く。
「もちろんだよ」
きっと、犯人も見つけ出してみせる。
そう決意しながら、最原は名前に向かって微笑んだ。



ドクドクと激しく脈打つ心臓の音がうるさい。流石にシングルベッドに二人寝転ぶのは窮屈だった。少し動いただけで名前の肩や手、足に自分の身体が当たってしまう。最原は布団の中でガチリと身体を硬直させていた。名前は側にいるだけで安心するはずだから、一緒に横になる必要はない。だが、名前がソファで寝ることを許してはくれなかった。最原がソファで寝るくらいなら自分がソファで寝ると主張したのだ。眉間にしわを寄せて主張する名前に負けてベッドで寝ることになったものの、これはその、色々とまずいのではないだろうか。

ベッドに入り、おやすみと就寝の挨拶を済ませ、30分か1時間程経っただろうか。全く眠れる気配はない。隣に眠る名前は寝返りをうつこともなく大人しいものだがもしかして彼女も眠れていないのではないだろうか。
最原はゆっくりゆっくりと首を動かし、チラリと横を見た。


寝てる! しっかり寝てた!


目を瞑りスヤスヤと寝息を立てる名前を見て思わずふうと息を吐き出す。緊張していたのは自分だけなのかと少しだけ悲しく思うが、名前の安心して眠る姿に最原は頬を緩める。
自分が側にいることでこうして安心してもらえることが素直に嬉しい。ずっと、気を張り詰めていたはずだ。今だけでもゆっくりと休んでほしい。

最原は少し身を起こし、名前の額を撫でた。


おやすみ、と心の中で呟いたその時、静かな部屋の中に、規則正しく3回のノックの音が響いた。

最原はハッと身体を起こしベッドから降りる。
「さいはらくん……」
最原が動いたことで目が覚めたのか、眠たげに名前も身を起こす。状況が理解できていない名前は警戒した様子の最原に首を傾げた。不思議そうな顔をする名前を見て、最原はゴクリとつばを飲み込む。

「誰か来た……」

時計に目をやると、針は12時過ぎを指している。訪問するにしては遅すぎる時間だ。名前もようやく事態の深刻さに気づき、音を立てないように慎重にベッドから降りる。

「私の部屋だから私が出る。最原くんも変な誤解を生みたくないでしょ?」
「でも……」
渋る最原を両手で押し戻し、名前は扉に歩み寄った。別に音を出してはいけないわけじゃないけど、なんとなく音を立てたくなかった。恐らく、慎重に行動することで、自分の気持ちを落ち着かせていたのかもしれない。

「……誰?」
扉の前まで来た名前は、ドアノブに手をかけながら扉の外にいる人物に話しかけた。
「天海っす。できれば中に入れてほしいんすけど……」
聞き慣れた天海の声に、名前の肩の力が抜ける。名前は大丈夫だと言うように後ろを振り返ったが、最原は依然眉間にしわを寄せたままだった。その様子を訝しく思ったものの、名前は鍵を開け扉を開く。そこには、いつもどおりの天海が立っていた。
「こんな遅くにすみません」
「ううん。どうしたの?」
申し訳なさそうに苦笑する天海をソファに座るように促した。しかし天海はソファに座ろうとはせず、名前に柔らかく笑いかけたあと、ベッドの側に立ったままの最原へと視線を動かした。



その天海の眼光を見た瞬間、名前の背筋がゾワリと粟だった。



彼の目が、かつて見たことがないほど黒く濁っていた。
こんなにも恐ろしい表情が人に向けられているのを目の当たりにしたのは初めてだった。

恐怖で足がすくむとはこういうことを言うのだろう。名前は金縛りにあったようにその場から一歩も動けなくない。

「今度は最原くんなんすね……」

「……今度って何の話? 天海くん、こんな夜遅くに何しに来たの?」
最原は警戒を強めて天海を見返した。
名前は天海の近くにいる。できるだけ名前を天海から離したくて、ジリジリと不審がられないように名前の元へと足を進める。

しかし、最原はすぐにでも名前に手を伸ばさなかったことを後悔した。

「何でだと思うっすか?」
ニヤリと口元を歪めた天海は側にいた名前の手首を掴み引き寄せると、自分の腕の中に閉じ込めた。
「名字さんが許せないっすからよ」
「許せないってなんだ……! 名字さんを離せ」

最原は咄嗟に天海に駆け寄った。しかし、天海はその動きを察知し、名前の口をぎゅっと塞ぐ。
「っ……!」
「名字さん!」
「最原くんはそこで見ていてください。名字さんと俺が結ばれるところを……」
「んー!」
「くっ……」
最原が動きを止めたのを見て、天海はニヤリと笑みを浮かべて名前の口から手を離した。

「ごめんね、名字さん」
天海は眉尻を下げると、髪をなでつけるように名前の頭を優しく撫でる。最原は天海が態度を変える姿を見て二重人格のようだと思った。常軌を逸していると。

名前は未だに信じられない気持ちで天海の腕に抱かれていた。これは何かの冗談だ。たちの悪いサプライズか何かなのだと、自分に言い聞かせる。でないと、天海がこんなことをする意味がわからない。

天海は名前を腕の中に閉じ込めたまま、顎を掴み上を向かせる。
名前の潤んだ瞳と目を合わせ、優しく優しく微笑んだ。

「かわいい」

彼はそう呟いて、名前の両肩を掴み首元に顔を寄せた。すうっと匂いを嗅がれる気配を感じながら、名前は気づいた。



ああ、この声は……。





夢の中で聞いた声だ。





「やめろ!」
最原が強引に天海から名前を引き剥がす。

天海はガクリと頭を垂れたまま動かない。

名前は電池が切れたような彼の様子を最原の腕の中で見つめた。

天海はゆっくりと顔を上げる。

彼の顔を見て名前ははっと息を呑んだ。彼は今にも死んでしまいそうなほど儚げな微笑を浮かべている。

「ごめんなさい……。でも、本当に好きなんすよ……」

今にも崩れそうなその姿に、目の前で母親に捨てられた子どものようだと思った。


「ずっと、ずっと前から……」


天海の濁った瞳から一筋の涙が零れ落ちて、名前の部屋の床を濡らした。





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