いつまでもあなたの味方


髪を梳く無骨な手の優しさがとても懐かしい。

「その少年はとても幸せ者だと思います」

彼の口から紡がれる低音があまりに心地よくて、理由を聞くのは野暮なことだと感じた。肯定されたことで仮染でも報われたような気がする。
物語の男の子が幸せだという評価に多少なりとも安心したのと、撫でられる頭の感触が気持ち良くて瞼が下りる。たくさん悩んで使い果てた脳がこのまま眠ってしまおうよと誘ってくる。

「名前、まだ髪を乾かしていませんよ」

ごわごわになりますよ、といういつか聞いたセリフに瞼を上げる。目に飛び込んできた彼の頭に、思わず笑みが溢れた。
「公ちゃんもちゃんと乾かしてないでしょ」
彼の梳かした形跡のないゴワついた髪に指を通す。もうすっかり乾いてしまったそれは、髪を乾かす余裕すらなかったのだということを示している。
図星だったのか亜川は目線をそらした。


「ありがとう、公ちゃん」


この時、亜川の中で大きな変化があった。悩んでいる時や不安な時に頼ってくれる人がいること。その人にとって自分が心の拠り所となっていること。そして、その相手が何よりも愛しく思えること。元々亜川は情が深いタイプではないが、カバディへの姿勢を見ればわかるように一つのことに執着するタイプである。名前への想いが明確になったことで、そんな彼の中で何かが弾けた。

これからも名前の拠り所であれるように。

名前の柔らかい笑顔を見て決意する。
忙しい彼女の親の代わりに自分が彼女を見守らなくては、と。





数週間後、燦々と照りつける太陽のもと生徒たちが爽やかな汗水を滴らせる、そんなある日。
大勢の人で賑わう能京高校運動場の隅に、場違いなほど顔色の悪い男が身を隠すように立っていた。

ついに来てしまった……。
能京高校体育祭。

名前には何も告げずにここまで来てしまったが、本当に来てよかったのかと今更怖気づく。彼女を見守ると決めたもののこれが正しい行いなのか確信が持てず、半月ほど彼女との連絡を絶って考えた末の決断なのだが。いやしかし今年で最後の体育祭なのだ、ちゃんとこの目で見届けよう。
亜川は運動場が辛うじて見える場所にある建物の影から一歩踏み出す。
賑やかで明るい運動場へと向かうその姿は、まるでコロシアムに挑む戦士のようだ。

迷走しつつある亜川を止められる者は今ここにはいない。


3年生の種目が終わり、少し休憩を挟もうと思った時だった。

「え……公ちゃん……?」

聞き慣れたその声にギクリと肩を震わせる。聞かなかったことにして姿を晦まそうか。
そんな大人げない考えが頭を過る。しかし本能が名前を無視することを拒絶した。ゆっくりと振り向くと、目を丸くさせた名前が立っている。彼女は大きく息を吸った。
「公ちゃん! 隠し子がいるの!?」
「……名前!?」


名前を人気のない場所まで移動させて一息つく。予想の斜め上を行かれた。おかげで暑さのせいではない変な汗がべたつき気持ちが悪い。

2週間ぶりに会う名前の顔は、少し前まで悩み落ち込んでいたとは思われないほど晴れやかだ。全身を纏う空気がキラキラと輝いていて、顔には青春真っ只中ですと書いてあるようだ。

名前は弾けたように軽口を叩き、とどまることを知らない。いつもより感情が高ぶっているようだ。体育祭という光溢れるイベントがそうさせているのかもしれない。
来てよかったと思った。この笑顔が見れただけでも満足だ。


ただ、今の名前のペースに合わせるのは危険だ。全力で走るチーターに紐でくくりつけられて引き摺られるようなものだ。

「もうそろそろ離れてください」
「……汗臭い?」
「そういう訳ではないですが……」
「じゃあいいじゃん」

ああもう、だから嫌なのだ。
チーターは、前触れもなく急ブレーキをかけ、がぶりと亜川の喉元に噛み付く。

こちらだって汗をかいているのにそれすらもお構いなし。全くこちらの意図を汲んでくれないではないか。名前はすべてわかっている上で、たまにこうして子どものように我を押し付けてくる。本当は、誰よりも愛を求めているのを亜川は知っている。

王城と肩を組み、一心同体となって走る名前の顔を亜川は一生忘れないだろう。
きっとこれから、愛に飢えた二人は今日のように一蓮托生の関係を築いていくのだろう。
その道中で、彼女たちが引き裂かれることだってあるかもしれない。支え合えないほど耐え難く、辛く苦しいことだってあるだろう。その時は、少しくらいなら手を貸してやってもいいかもしれない。
王城にできないことを、亜川が補っていけばいい。

あなたはこんなに愛されているのだと、彼女自身が気づくまで。


ぎゅうっと抱きつく力を強めたかと思えば、名残惜しむように離れていく名前の背中を見送る。


今日という日を、思う存分に楽しんでください。

僕はいつだって、あなたの味方です。


燦々と照りつける太陽が、砂に反射し真っ白な世界を創り出す。
思わず目を細めてしまうほど輝かしい世界に飛び込んでいく彼女の背中が見えなくなってもなお、エールを送り続けた。


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