あなたへの真実
昔、まだ久納とたまにではあるが連絡を取り合っていた頃。
名前のことを贔屓目なしで見ることができないなら近づかない方がいいと言われたことがある。
久納にそんなことを言われる筋合いはないだとか、名前の方から接触してきているのだとか、子どもみたいに反論ばかりを頭の中で並べ立てていたことを覚えている。
それでも、彼の言葉は深いところまで突き刺さり、親切心で忠告した彼に言葉を返すことはできなかった。
「はあ……」
亜川は頭を押さえながら布団から起き上がる。なぜそんな随分も前のことを夢に見たのか。そのせいでこの一年で一番と言っていいほど寝覚めが悪い。重い身体を引きずるようにして洗面所へ向かう。顔を洗って、幾分かスッキリした頭を上げて、歯を磨くために歯ブラシを取る。
いつものルーティンは、頭が空っぽになっていても身体が覚えている。裏を返せば、身体を動かしながら別のことを考える余地ができてしまうということ。
なぜ、なんて自問してみたがその原因はわかっている。
最近名前からの連絡がない。
久納が聞いたら、まだ連絡が途絶えてから1週間とちょっとしか経っていないのに何を気にする必要がある、女子高生にはいろいろあるのよ、と言われそうで誰にも言っていないが、ここ数日落ち着かない日々を送っている。
別に毎日連絡を取っていないと落ち着かないわけではない。事実、1ヶ月や2ヶ月連絡を取っていない時だってあった。しかしここ最近、昔を思い出したように連絡を取り合ったり、名前が泊まりに来たりしていたので、こうも急に途絶えると色々と勘ぐってしまうだけだ。
家を出る前にもう一度スマホを開くが通知は来ていない。
亜川が送った『わかりました』という簡素な文章を最後に時が止まったままのメッセージ画面。こんな無愛想な返事でも、名前ならスタンプなどの反応を返してくれる。
何かあったと疑わずにはいられないだろう。
いつもと変わらない日常を過ごすも、頭の隅にはいつも名前の影がある。
お風呂上がりにソファに座りながら静かなスマホの画面を見つめるも、黒く塗りつぶされた瞳には何も映らない。
「はあ」
来るかもわからない連絡を待つなんてどうかしている。自分はこんなに子供っぽくて女々しい奴だっただろうか。
スマホの画面を閉じ、ローテーブルの上に置こうとした時だった。
ただの箱と化していたスマホが突然手の中で震えだす。取り落としそうになったのをギリギリでキャッチした。
画面には待ちわびた文字。
何も考えずに応答ボタンを押した。
「はい」
『…………』
「名前……?」
確かにそこにいる気配がするのに、ずっと聞きたかった名前の声が聞こえない。
『公ちゃん……ごめん……』
絞り出したような声に胸が締め付けられる。聞きたかった声はこの声じゃない。待っていたのは、聞いているだけで心が照らされる弾むような名前の声だ。
名前の顔が見えない。消え入りそうな名前の背を撫でてやることもできない。
「今家ですか?」
『……一人で家にいるよ』
「迎えに行きます。待っていてください」
『え……? 公ちゃん!?』
気がついたら身体が動いていた。車のキーを取り、家を出る。運転席に座ってから、お風呂上がりのジャージ姿であることに気がついた。
今自分が名前の側にいないことがもどかしい。
自分を動かしている根幹にあるものが許されるものなのか。そんなこと、今はどうでもいい。
名前が助けを求めているのなら手を差し伸べる。その気持ちに良いも悪いもあるわけがない。
こうして逸る気持ちを抑えて車を走らせるのは名前が倒れた日以来だ。
「公ちゃん……」
「名前、家に帰りましょう」
玄関を開けた名前は目の下にクマを作り酷く憔悴しているようだった。そして、嫌でも目につく首元の赤い印。何が名前をそんなふうにさせたのか。こんな姿を見て余計に放っておくことなんてできない。
彼女の家はここでありここじゃない。
名前の腕を掴み車に乗せた。抵抗はなくすんなりついてくるがなんだか誘拐している気分になるのは後ろめたさがあるからか。
結局車の中でも一言も口を開かないまま、名前はずっと窓の外を流れる夜の景色を見ていた。
何があった。大丈夫か。何かできることはあるか。
飛び出しそうになる言葉を飲み込んで、名前が口を開くのを待つ。
「…………」
「お風呂、行きますか?」
一度ゆっくりと頭を整理した方がいいかもしれない。名前は言葉を上手く紡ぎ出せないほど頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
眉間に刻まれた似合わないシワと、膝の上で硬く握られた拳がそれを物語っていた。
コクリと頷いたのを見届けて、お風呂の湯を沸かし直す。その間に名前はごそごそとタンスから着替えとバスタオルを用意する。
勝手知ったるなんとやら。
ここが我が家であるように着替えなどを出しているのを見て思わず口元が緩んだ。他人の家などではない。ここは笑顔の裏で実は気を張っていることが多い彼女が安心できる場所なのだ。
ピーとお風呂が沸いた音が鳴り、いつもより小さく見える彼女の背中を見送る。
あの小さな身体の中に一体どれほどの思いを抱えていたのか。
いつも笑顔であるその入れ物の内側には、ぎゅうぎゅうと無理やり押し込められた感情がはち切れそうになって今にも溢れそうになっている。
その入れ物に今、ヒビが入った。
そのヒビから次々と溢れ出るモノをどう対処したらいいのかわからない彼女は、それを言葉に変換することもできない。
不憫だ。
普段要領良く自分の感情と周りの環境との折り合いをつけてきた彼女だからこそ、溢れてしまったものの対処の仕方がわからないのだ。
逆に言えば彼女がこうなってしまうほどのことがあったということ。
名前は湯船に浸かりながらぼうっと天井を見上げた。瞼を閉じれば、鮮明に思い浮かぶ王城の艶めかしい顔。
「う、ああ……」
思い出しただけでまた身体が熱くなってくる。彼の顔を消すようにバシャバシャと足をバタつかせ水飛沫が上がる。そして、彼への気持ちと現実を考えてすっと身体が冷えるのだ。
ずっと、その繰り返し。
彼への気持ちはどうしょうもないほど膨れ上がっている。でも、それでいいのかと、現実的な自分が訴える。
彼を応援するのなら、彼の集中を妨げるようなことをしてはいけない。なんだか頭がクラクラしてきた。考えすぎて知恵熱でも出たか。
「名前、大丈夫ですか」
いったいお風呂に入ってから何分くらい経ったのだろうと思った時、扉の外から亜川の声が聞こえた。その時になってようやく、名前は自分の状況を理解した。
「だ、大丈夫じゃない……かも……」
「えっ!?」
頭がクラクラしていたのは、のぼせたせいか……。
名前は手放しそうになる意識をなんとか手繰り寄せ、心配して風呂に入ってこようとする亜川をいなした。
「ごめん公ちゃん……」
「全く……声をかけに行ったからいいものの……」
ソファに横になる名前の首に保冷剤を挟んだタオルを当てる。ヒンヤリと気持ちいいのか、眉間にシワを寄せていた名前はゆっくりと瞼を下ろした。
「公ちゃん……聞いて……」
まだ火照って赤い顔のまま、名前はゆっくりと口を開く。その瞼は閉じられたまま。ズルいけど、目を見て話すより一方的に言葉を投げる方ができそうな気がしたから。
「はい」
意図を汲み取ったのか、亜川は静かに耳を傾ける。
名前の口から語られるのは、とある物語。
ある平凡な少女がいて、その少女はどうしようもないほど一人の少年に恋い焦がれていた。幸せなことにその少年も少女のことを好いてくれている。しかしそれは少女と同じ"恋"という感情からくる好意なのかは定かではなかった。さらにその少年には大きな夢があり、それは何があっても決して手放すつもりのないものだった。少女は心から少年の夢を応援したいと思っていた。
名前は重い瞼を上げ、思っていたよりも近くにある亜川の顔を見上げる。
「女の子はその男の子を応援したいのに、苦しくて苦しくて、胸が張り裂けそうなほどその子が好きで、もう、側にいるのも辛くなっちゃうんだよね」
名前の声が、静かな部屋にぽつりぽつりと落ちていく。それは鏡のような水面に雫を落とすように、確実に伝播し心を波立たせる。
亜川にわかるのは、その少女は平凡なんかじゃないということ。そして、彼女からの純粋な愛を一身に受けているその少年はとても幸せだということ。
ああそうか。
名前の深い愛を知ってようやく確信した。
名前の幸せを誰よりも願っている。この気持ちは、紛れもない家族としての愛。
まだ湿っている名前の髪を撫でつける。顔色も赤みが引いてきてだいぶマシになってきたようだ。
"遠い親戚"という肩書に囚われすぎていた。もはや血の繋がりがなくたって、心から大切に想うのなら"家族"にだってなれる。名前が泣いている時も、笑っている時も、一人で寂しい思いをしている時も、常に側にいたのは血の繋がった親ではなく遠い親戚である亜川なのだから。
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