辻は滅多なことがない限り自分から異性に話しかけることはない。それこそ用もないのに話しかけたなんてことがあれば明日は雨が降るどころか天変地異が起こるだろう。
「名前、さん……あ、の……」
「うん。ゆっくりで大丈夫だよ」
だからこうして用事ができて、どーーーうしても話さなければいけない時がくれば名前は絶対に辻のペースに合わせる。決して彼を急かしたりはしない。だってこれは数少ない彼とお話できる機会なのだから。無理に急かして逃げてしまったら勿体無いだろう。
にこにこと柔和な笑みを浮かべたまま彼を観察する。彼の手にいつもの書類はなく、もじもじと指を動かしている。二宮隊からの書類はほとんど彼が届けてくれるのだが今日は別件だろうか。二宮も一番年下だからといって女性が苦手な彼に仕事を押しつけなくてもいいのに。でもそのおかげでこうして彼と話す機会が設けられているわけだから少し有り難くも思っている。
どうも様子がおかしい辻が少し心配になってきた。顔もいつもより赤く、冷や汗までかいて口は何かを発しようともごもごと動いている。
「辻くん、深呼吸しよう」
「は、い」
頭に酸素が回りきっていないようだったのでとりあえず落ち着かせる。吸って、吐いて。名前に合わせるように呼吸を繰り返していると次第に顔色もましになってきた。本当に今日はどうしてしまったんだ。このまま待っているだけでいいのかと口を開きかけた時、辻が大きく息を吸った。
「名前さん……!」
「っ、はい!」
今まで聞いた中で一番大きな声だったので思わず背筋が伸びる。と言っても通常運転の弓場には遠く及ばない声量だが。
なんだ、この雰囲気。"あれ"を疑わずにはいられないほどの緊張感に包まれる。
いやでも、まさか、辻に限ってそんな。
「腕、貸してください……」
「腕……?」
思わぬベクトルの台詞にふっと肩の力が抜ける。一体何が始まろうとしているのか。
断る理由もないので素直に腕を差し出すと、辻が微かに震える手で名前の細い腕を取る。
じっとその腕を見つめていたかと思うと、彼は大きく息を吸う。ぎゅっと両目を瞑り、名前の腕に唇を押し当てる。
「っ……〜〜!!」
顔を茹でたこのように真っ赤にさせた辻は自分のとった行動に驚いているのか、あわあわと視線を彷徨わせたかと思うと何も告げず走り去る。
何が、起こった……?
今起こったことが理解できないまま、遠くなる辻の背中を見送った。
腕 恋慕