水火の夜
それは3日目の夜だった。男たちとのブッキングを避けるため、いつものように入浴時間ギリギリにお風呂に入っていた。誰もいない大きな浴場。羽を伸ばしたくもなるだろう。小さく鼻歌なんて歌いながら湯船に浸かっていたその時だった。
カララと開け放たれた扉。聞こえるはずのない音にビクリと肩を揺らし、振り返る。
「え……」
「ん……?」
お互い目を合わせ、しばらくの沈黙。
「……うわあ!?」
「きゃあああ!」
悲鳴を上げたのは同時だった。
「……で、人見は練習に疲れて一眠りしてしまい、遅い入浴になってしまった訳だな」
「はい……。本当にすみませんでした!!」
今日は階段ダッシュも水泳もして随分頑張ってたもんなあと眉を下げる。
ペコペコと必死に頭を下げる人見の肩にぽんと手を置くと、人見は目を潤わせて見上げてくる。そんな顔をされたら強く言えないに決まっているだろう。それに、もっとわかりやすいように張り紙を貼るとか、選手たちに伝えておくとか、こちらにももっとやりようがあったはずなのだから。
「それにしてもまさか『……うわあ!?』の方が名前さんで、『きゃあああ!』の方が人見ちゃんだとは思わなかったよな」
「京平くんそれは言わないでよ」
自分でも思い返すと恥ずかしい。
「声だけ聞くと人見の方が被害者だよな」
「慶まで容赦ないね」
もうなけなしの乙女心はズタボロである。
名前は水澄と井浦と言い合いながらも就寝時間のため自室に引き上げた。
部屋に残された男たちは黙々と布団を敷き、就寝準備に取り掛かる。
部屋にはなんとなく悶々とした空気が流れている。
それもそのはずだろう。女性の入浴と聞くと、少しでも想像してしまうのが男子高校生の性というものなのだから。
「おやすみー」
「おやすみ」
全員大人しく布団にくるまるが、なかなか寝つけない。時折もぞもぞと寝返りをうつ音が聞こえる。
人見があまりにも赤面して恥ずかしがっていたのも原因の一つである。なんとも落ち着かない空気が流れるが、誰も口を開かない。ここにはそういう下衆な話題を持ち込む者がいなかった。
しかし一人、あまりにも裏のない者がいた。
「ねえ人見君、名前の身体見た?」
「ひえ!?」
「ブフォッ」
吹き出したのは宵越である。
「ちょ、おま、何聞いてんだよ!?」
「え、いや、気になったから……」
「気になったからって普通聞くか!?」
完全に虚を突かれた宵越たちはただただ狼狽するしかない。人のスキを突く。これぞ王城の十八番、カウンターである。
「ククッ……で、どうなんだ」
「井浦さんまで!?」
「見てない! 見てないですよ!」
「そっかあ……」
「『そっかあ……』ってどういう反応すか」
わなわなと震える人見が不憫なので、流石にこれ以上追求する者はいない。
名前の裸を他の者に見られなかったことに安心しているかと思われた王城は、意外にも煮えきらない顔でまた黙り込む。
「もうくだらないこと言ってないで寝ますよー」
「明日の練習もハードだからな」
お風呂事件に一区切りつき、悶々とした空気もなくなった。顔を上げていた者も皆もそもそと布団に入っていく。
誰も王城の様子に気づいていない。電気を消しているので表情が見えにくかったのもあるだろう。
しかし王城の隣にいた井浦はその変化に敏感に気づいた。違和感を覚えたのはその気の抜けた口調だったが、顔を見て確信したのだ。王城がここまで普段と異なる様子を見せるのは、感情の種類が違えど奏和戦で攻撃に出るなと名前に止められた時以来だ。
名前と何かあったか、もしくは王城の心境に変化があったか。
日中の王城の様子を思い出してみても、特に変わった様子はなかった。むしろ名前の方が不自然だったくらいだ。いや……不自然なくらい王城に反応する名前に対して、それほど反応を示していないことがそもそも異常ではないか……?
隣の布団からはスースーと大きな寝息が聞こえる。ごそごそと王城の方に身体の向きを変えると、目を瞑って寝ている王城の横顔が暗闇の中薄っすらと見える。
感情を抑えられないほど名前のことを愛しているのに、いざ名前が手元に来そうになっても気づかないものなのか。
お前は、何を考えているんだ?
その横顔に向かって、心の中で問いかけることしか井浦にはできなかった。
その頃名前はというと、夏だというのに頭までスッポリ布団を被せて硬く目を瞑っていた。
王城の目を思い出すと眠れない。
上の空で話を聞いていないような態度。正直、王城はもっと取り乱すと思っていた。それこそ今後こういうことがないように名前がお風呂の時は僕が見張っておくね、くらい言うのかと……。
「んんんん!」
名前は奇声を上げそうになるのを布団を深くかぶり直してなんとか抑える。
自惚れてんのか私。馬鹿じゃない?
羞恥心に加えて布団をかぶっていることでうっすら汗をかきそうなほど暑い。
王城が自分のことを好いている事実を、当たり前のように思っていた自分が怖いし、恥ずかしい。執着しているのは王城だけじゃなく名前だって同じなのだから。
むしろ、名前の方が王城に執着していると自分では思っている。
王城が側から離れたらと思うと怖くて怖くて叫び出しそうになる。王城自身も王城の気持ちもどちらも大切にしたいのに、王城が離れそうになると情けないほど不安に駆られてしまう。
名前はフラフラと屋外を歩く。一度夜風にあたって頭を冷やしたかった。
『夏は夜』と言ったのは清少納言だったか。昔から夏の夜が気持ちいいのは変わらないらしい。山独特の涼しい風を受けて頭が冷やされていく。
適当な場所に腰を下ろして、空を見上げて息を呑んだ。真っ黒なキャンパスに数え切れないほどの星が散らばっている。こんなに綺麗な星空を見たのは初めてかもしれない。開放的な気分だ。
この空が大きな宇宙の一部でしかないと思うと、この世界の広さを感じて自分の存在なんてちっぽけに思えてくる。
なんかもうどうでもいいかもしれない、と割り切れたら楽なのだろけれど、それもできない図太さも持っているからここまで引きずっているのである。
何分ほどこうして空を見上げていただろうか。
いくら夏といえど山の夜は涼しくて肌寒さを感じ、ふるりと身体が震えた。
「くしゅん!」
さすがにもう戻った方がいいのだろうけど、布団に入っても眠れる気がしない。もう少し、この非日常的な幻想の中で漂っていたい。
「名前」
背後から突然聞こえた声にびくりと肩を揺らし、反射的に振り返る。
「正人……?」
現実から目を背けすぎてついに幻覚を見てしまっているのかと疑う。名前は数回目を瞬かせるも、そこには確かに王城がこちらを向いて立っている。
「風邪引くよ」
そう言って歩み寄ってきた王城は羽織っていたパーカーを名前の肩に被せた。王城の体温が残っていて、まるで包み込まれているみたいだ。
「どうして……」
ここにいるの。ここがわかったの。声をかけたの。
それらが声になることはない。
しかし、王城は名前が声を詰まらせたのを見て、微笑む。いつもと変わらない笑顔で。
「散歩してたら名前がいたから声かけちゃった」
声音さえもいつもどおりで、変に意識しているのは名前だけのようだった。
胸のわだかまりを出すようにふうと息を吐き出す。隣に座った王城は口角を上げて空を見上げていて、思わずそっと視線を外した。考えていることがわかりやすいようでわからない。夏の夜特有の虫の音に耳を澄ませて押し黙る。
「眠れないの?」
穏やかな王城の声が二人の均衡を破った。数秒の沈黙があり、聞こえていないのかともう一度口を開きかけた時、漸く名前がぴくりと動いた。
「うん……」
たった二言。それでも名前がどこか上の空であることはわかった。
名前が自分を選んでくれたことはわかっている。しかし名前が選んでくれたのは、カバディ選手としての王城正人なのか、それとも、王城正人そのものなのか。それがわからなかった。何を考えているのか、ぼうっと空を見上げる名前を見てもわからない。
「……戻るね」
「……うん」
言葉が足りないことに気づけないまま、わだかまりを抱えた二人は眠れない夜を分かち合うことすらできなかった。
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