灼ける妬ける狂う
新入部員が加わった翌日から、能京は新たな練習メニューに入った。それは、対王城の守備強化メニューだ。
水澄、畦道、伴の水澄チームと伊達、宵越、関の伊達チームに分かれ、王城と戦う。井浦と人見は、人見の体力を見つつ両方のチームで守備をすることになった。
そして事件は、対王城練習から5日が経過した練習後に起こった。
「ここ?」
「あっ……痛……!」
「ふふ。こんなことで音を上げてるようじゃまだまだだね〜」
「ん……優しく……してください……」
普段カバディ部しか使わない旧部室棟から、夜な夜な女同士の声が聞こえるという噂。
多感なお年頃である男子高校生がそんな噂を放っておくはずもなく、その噂はまたたく間に広まった……。
「おい……! 押すなって……!」
「静かにしろお前ら……! バレるだろ……!」
「あっ! ちょっ!」
部室棟の灯りもまばらになり、聞こえるのはカバディ部から漏れ聞こえる女の声だけ。
噂を確かめに来た生徒が声の正体を確かめようと部室に張り込んでいたが、好奇心が前面に出すぎて扉に当たってしまった。
しかしそのハプニングが彼らにとってはプラスに働く。
「誰? 忘れ物?」
キィと古びた音を立て開いた扉から出てきたのはカバディ部のマネージャーである名前だった。名前はあたりをキョロキョロと見回すが誰もいない。
「どうしたんですか?」
その後ろからひょっこりと顔を覗かせたのは、上半身に何も着ていない女。もちろん胸は練習着で隠している。
「何もないみたい。今日はここまでにしようか」
「はい」
2人はそう言って部室の中に入っていく。
数人の生徒が息をするのも忘れて、食い入るようにその生々しい様子を見ていたことも知らずに。
*
翌日の昼のこと。
最近正人が冷たい。
名前は頬杖をついて、厚い雲がかかった空を見上げながら溜息を吐いた。
「見るからに落ち込んでますって様子だな」
クツクツと笑いながら井浦が名前の前の席に腰掛ける。
「笑い事じゃないよ」
ムスッと不機嫌な顔の名前とは対象的に井浦は笑みを崩さない。
王城が名前に冷たく当たることはこれまで幾度かあった。名前が告白されたと聞けば嫉妬で王城の態度が変わる。しかしそれも名前が慰めて一日経てば元通りだ。
しかし今回は……。井浦もまたどんよりとした空に視線を向ける。
王城が名前のことを避けて3日になる。
さすがの井浦も少し気にかけてはいるが、十中八九例の噂のことで怒っているのだろうと踏んでいる。それならば真相を知れば勝手に仲直りするだろう。
「クックッ……」
「……何か知ってるの?」
今回は噂が噂だ。今までは名前が一方的に好意を寄せられているパターンだったが、今回は名前も行為に及んでいるときている。王城もいつもよりダメージを負っているのだろう。
しかし相手は"女"だぞ。
すべてを知っている井浦は笑いをこらえきれない。人の気も知らないで楽しそうに笑う井浦を、名前はじとりと睨みつけた。
流石におかしいと感じた名前は、その翌日なんとか王城とコンタクトを取ろうと試みたが、すべて無視されてしまった。声をかけようとすれば席を立ったり他の人と話し始める。目すら合わせてくれない。
部活中、心なしか元気がない様子の名前に気づいたのは比較的コート外で一緒にいる時間が長い人見だった。
「どうかしましたか、名字先輩……?」
「ん? なに?」
しかし声をかけられればすぐに元の"先輩"の顔に戻る。
「いえ……なんでもありません」
そんな顔をされると、人見もそれ以上は突っ込めない。振り向いた名前の様子があまりにもいつもどおりだったから、自分の気のせいだったかと何事もなかったかのように部活に戻る。
人見が部活に戻ったのを見て、名前は人知れず息をつく。
部活中は私情を持ち込まないようにしていたが、完全に割り切れるような関係でもない。部活の間、ロボットのように仕事をこなし続けるのは不可能に近かった。しかし幸いなことに王城中心の特殊な練習メニューのおかげで、彼は私情を挟む余裕がないほど集中していた。それは他の者にも言えることで、部活が終われば皆クタクタに疲れ切っている始末で、ついぞ2人の変化に気付く者はいなかった。
しかしその溝は徐々に大きくなる。
噂を確かめた生徒から話はあっという間に広まった。
噂とは怖いもので、それは徐々に形を変えて人々に伝えられる。
そして、噂はひとり歩きを始め、誰にも止めることはできなくなるのだ。
対王城練習から7日目の夜、すでにお風呂も済ませてゆっくりと寛いでいた名前の部屋のチャイムが鳴る。
時計は9時半を指している。こんな遅くに誰だろうとドアスコープから外を覗くと、そこに立っていたのはここ最近の悩みの種である人物だった。
「正人?」
思わず声を上げる。ずっと無視していたのに急にどうしたのか。
「うん……。開けて」
王城の声を聞き、反射的に扉を開けた。しかし、すぐにその違和感に気づく。
音も立てず名前の部屋に入ってきた王城は目が虚ろで、焦点が定まっていないように見えた。パタンと閉まった扉に、王城が後ろ手でガチャリと鍵をかける。
その音がやけに大きく聞こえた。
脳が警鐘を鳴らす。
目の前にいるのは王城だけど王城じゃない。
王城の姿をした別人だ。
名前は、混乱で大洪水を起こしている感情を抑えなんとか声を絞り出す。
「正人……?」
熱い感情も冷たい感情も、全てがぐちゃぐちゃに混ざってドロドロに溶けている。ずっと一緒にいたはずなのに、見たこともない王城の感情に飲み込まれそうで、恐怖すら感じている。
ただひたすら知っている王城に戻ってほしくて目の前の彼の名を呼んだ。しかし、顔を上げた王城は虚ろな目のまま名前を見た。久しぶりに合った視線だが、王城の目には何も映っていない。ふらりふらりと近づいてくる彼に名前は堪らず後退る。
「――……」
ポツリとつぶやかれた声を名前は聞き取れなかった。聞き返す間もなく腕を掴まれる。
「ほんとにどうしたの……?」
名前は苦笑いを浮かべてやんわりと腕を解こうとしたが敵わない。それどころか両腕を掴まれた。さすがに様子がおかしい。
彼の顔を覗き込もうとした時だった。
「ちょ……!」
気がついた時には、ぼすりと背中がベッドにダイブしていた。内側で轟々と炎が渦巻いているような王城の瞳には、怯えるような顔をした女性の顔が映っている。
あ、これ自分の顔か……。
そう認識した時、王城に掴まれた手首がぎりっと軋んだ。
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