心の安定剤
好きなことができるというのはすごく幸せなことだと思う。こうして出汁の取り方から怒られ涙目になっている私はすごく贅沢なのだ。
顔でも洗っておいで、と優しさなのか邪魔だから出ていけと言われているのかよくわからないまま追い出されてしまって、私は目から流れる水を冷たい水道水と混ぜ合わせて流すことしかできない。今の私を伊東さんが見たら笑うだろうか。そして土方さんに報告するんだろうか。私が嫌がることをしたがる人だから、伊東さんは。
「帰りたい?」
タオルで顔わ拭いている私に後ろから声をかけたのは、このお店の奥さんだった。
よしよし、と優しく肩をなでてくれる手のぬくもりに、記憶の奥底にあるお母さんが蘇ってきた。また泣いてしまいそうだ、
「いいえ、やります」
「頑張るね、どうしてそんなに頑張るんだい?」
「美味しいものを食べさせたい人がいるんです」
「きっと大事な人なんだろうね、貴女にそんな顔させるんだから」
考えないで自然と出た言葉だった。美味しいものを食べさせたい相手がいる。その相手は土方さんなのか、それともあの約束を果たす為の不特定多数なのかは自分でも分からなかった。
奥さんと厨房に戻ると、この店の支配人がおろおろと目を泳がせて「強く言い過ぎたね」と謝ってくれた。私が悪いんです、そう言って頭を深く下げた。
支配人はとった出汁をむらちょこに入れて私に渡してくれた。優しくて、繊細な味。こんな味私に出せるようになるのだろうかと不安になってまた泣きそうになった。どうしたどうしたとまたおろおろする支配人に大丈夫ですって言っても聞いてくれなくて、その様子を見ていた奥さんが笑った。
『今日は怒られちゃいました。柄にも無く涙出てきちゃって迷惑かけて、すごく申し訳ない気持ちでいっぱいです。でも頑張ります、鍛錬あるのみなのは、剣術と一緒ですから』
その日の夜に送ったメールは、いつもより少しだけ短かった。明日の朝は、教えられたとおりに、いや、それ以上にうまくやるんだ。
敷いたばかりの布団に横になって深く息を吐いた。
銀時のことも良く分からないままこっちに来て、なんだか気持ちもグズグズだ。枕元に適当に置いた携帯電話から、私の好きな曲が流れ始めた。普段音楽なんて聞かない私の耳に無理やりヘッドフォンをはめて、総悟が聞かせた女性向け恋愛ソング。カラオケ行く時に歌える曲ないとか悲しすぎまさぁ、なんて言ってたけどほんとは同じ曲を好きだって言って欲しかったんだろう。私がこの曲いいね、って言うと嬉しそうに俺が選んだんだから当たり前でさァ、なんて言うんだもん、可愛い弟ポジションだ。
「もしもし」
『なんだよ、泣いてねぇじゃねぇか』
「泣いたの朝ですよ」
『急いで電話かけて損した』
「心配しました?」
『ああ、お前が泣いてるのなんて滅多に見ねぇし』
「涙は女の武器ですからね、そんなに見せちゃいけないんです」
『よく言うぜ』
電話越しに聞こえる声は優しい。
窓から見える月と同じ月を、土方さんも見てるんだろうか。…なんでだろう、変に詩人みたいなこと言いたいお年頃なのかな、センチメンタルだ。
「土方さん、ありがとうございます」
『おう』
「声聞けてよかった」
『……おう』
「ほんとに、器用なのか不器用なのか分からない人ですね」
『うっせぇ!何話していいか分かんねーんだよ』
そう言えば今日伊東さんがね、なんて他愛のない話をして、気付いたら眠りに落ちていて、朝日の眩しさで目が覚めた。今日もがんばろう。
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