この数週間、船の中は海と共に荒れに荒れた。
星や月を厚い雲が覆い始め海が一瞬しんと静まり返った時、「やべえ」と言葉を取り繕う暇もなく短く呟いたのは驚くことにイドルフリートその人だった。いつもの見目の美しさに無理矢理合わせたような妙な言葉遣いではなく、其処らに座って賭け事をしている、所謂彼が低脳と罵る船員たちと変わらない口調で呟き顔を青くしていた。何があっても大抵は動じず腹を抱えて笑い流す彼が珍しいものだ。しかしそう船員たちが呑気に思ったのも束の間、海全体に儚くも美しい歌声が波を切り裂くように鋭く響き渡った。その刹那、船内の呑気で平穏な声は阿鼻叫喚に変化する。
恨みが篭った寂しげな声は海を掻き乱し船を引きずり込む。船はぐらりと激しく揺れ、軋んだ悲鳴を上げた。波は幾度となく船に乗り上げ、運の悪い船員を浚ってしまう。海の魔女だとイドは言った。私たちはセイレーンの歌声を聴いてしまった、と。
コルテスの的確な指示とセイレーンの嵐を実際に体験したことがあるイドの機転のおかげで、船はなんとか歌声を振りきることが出来た。大抵の船は彼女に遭うと沈められてしまうらしいが、その原因はあまりにも美しい声に惑わされてしまうからだという。イドはそれを知っていたので、嵐の間も船員を叱咤し続けた。嵐を抜け出せたということは、コルテスとイドの精神の強さが魔女に打ち勝ったということだろう。

しかし胸を撫で下ろすにはまだ早い。

悲劇は嵐が数日間もの長い間続いたことから始まった。極度の緊張状態から、過労や栄養失調で倒れるものがバタバタと増えた。船医の手も追い付かないほどの量の病人が一室に敷き詰められる。嵐の波で食料の大方はやられ、特に水は腐ってしまいとても口に出来るものでは無かった。辛うじて葡萄酒は無事だったが、それもいつまで保つか。塩づけの肉は残っているがビタミンを摂取することはできない。

「終わりだな」と誰かが口にした。
「引き返そう」ともう一人が悲痛な声で訴えた。
「ふざけるな、臆病者」と誰かが憤ったことで、船内は真っ二つに割れた。
疲れはて弱まった心を揺さぶるのは悪魔ではなく、他人と自分自身だ。
『コルテスとイドルフリートを殺せば、引き返せるのではないか?』
船に乗る前は一度たりとも考えなかった提案が頭を過った。そして、その考えに同意するものが僅かだが集い始める。疑心は人を呼び寄せ、その集まりが集団に化けるのも時間の問題だった。

しかしその集まりに聞き耳を立てるだけで会話に参加せず、笑みを浮かべて船室に引き返す人間がひとり。


「『将軍も上官も力は強いが、この船の人間半分が一斉に襲ったらひとたまりもない筈だ。あいつらも所詮人間だし長い嵐で疲れているに決まっている。今のうちに進軍反対者を集めて奴らを袋にしちまおうぜ』とまあ、こんな内容かな」

「相も変わらず地獄耳だなお前…」

イドルフリートは船員の企みを一字一句間違えずに紡いでみせた。ついでにその人間たちの顔もしっかりと記憶に残している。船室で楽しげに報告した部下に、コルテスは溜め息をついた。船内の荒れ事情も勿論だが、それを隅から隅まで知っていて笑っていられるイドの呑気さと無神経さが一番の原因だ。何がそんなに楽しいのか理解出来ない。イドは貴重な腐っていないビスケットを摘まみながら、さてどうしようかと口角を吊り上げてコルテスに問い掛ける。それに彼は国への報告書を書くのを一時止めて、腕を組んで考え始めた。
確かに、その数人の反乱者ならすぐに潰すことは出来る。しかしそれは果たして正しいのか?少なからず、この航海に不安や絶望を抱いている者は半分以上存在する。彼らの疑心は黒死病よりも早く船内に伝染するだろう。そうなるのは面倒であり、やはりできるだけ避けたい。木の枝や陸に住む鳥の姿を幾度か見かけたから、おそらくもうすぐ陸地にたどり着く筈だ。しかし、もしそうだとして、それまで待てるのだろうか?船が限界なのはイドに言われるまでもなく、明らかだった。
真剣に考え込んでしまったコルテスの横顔を見ながら、イドは二枚目のビスケットに手を伸ばす。しかしコルテスにその手をビシッと強く叩き落とされ、彼は気付かれたことに舌打ちした。

「コルテス、一つ提案があるんだ。名案だ。付き合ってくれないかな?」

結局ビスケットには手を出せず終いだったが、構わずイドは目を細めて微笑む。コルテスはその笑みに嫌な予感を覚えた。先程から楽しげに笑うのは、初めから彼に考えがあったからだろう。しかしいつもの命令口調じゃないのが余計に気持ち悪かった。

「何故お前が同意を求める。不気味だ」

「酷い奴だな。何、彼らをその気にさせれば良いんだろう。君なら出来るよ。元から詐欺師の質があるんだから」

「お前に言われたくない。ていうか、やはりそういう路線なのか」

「まあまあ、ほら、耳を貸したまえ」

イドはくすくすと上機嫌に笑ってコルテスに手招きする。仕方なくコルテスは立ち上がり、寝台に座るイドへと近付いていった。
―――斯くして、その内容は。



カモメが一羽空を飛ぶ。数日前の嵐が嘘のように晴れ渡っている。雲一つない青空の下で、船員たちが将軍の命により集められた。訝しげにコルテスを見上げる船員たちは、ある者は企みがバレたと挙動不審になり、ある者は退却命令を下されるのではないかと期待を抱き、ある者はその命令が下ることを予想して苛立っていた。将軍の横にはイドが座っていて、船員を見下ろすこともせず低空飛行で飛ぶカモメを目で追いかけている。しかし彼の場合それは憎らしいほど通常なので、船員も将軍さえもツッコミを入れていない。

「諸君の中に進軍に不安を抱いている者が居ると聞いた。私とこの阿呆を殺してでも、船を引き返したいらしい」

ざわりと船員たちはざわめいた。そいつは誰だ、と船員の中の数人が声を上げる。その声はうねりを上げて船内に響き始めたが、将軍は首を振って彼らを鎮めた。

「知らん。だがそいつらの言い分も一理ある。私も命は惜しい。そこでだ、ひとつ提案がある。この航海に疑心を持つ者は今すぐにこの船を降りなさい。船と食料を用意してやるから、キューバに退却すれば良い」

「はぁ、コルテス、船っていうのはあれかい?結構の人数が乗れるじゃないか」

ふとカモメを眺めていたイドは船の下を見下ろし、備えてある小型の船を指差した。小型だが、確かにかなりの人数は乗れる。船員たちはイドの視線を追いかけるように、ちらちらと船の下へと目をやった。イドは船の下に手を伸ばし、くすくすと声を上げて笑う。

「良い逃げ道を提供してくれるね、私もあれに乗って逃げようかな」

「ふざけるなお前は駄目だ。セイレーンが来ようが伝染病が流行ろうが食料が全て腐ろうが、道連れにしてやる」

「はあ、全く低脳が。言葉の使い方を学びたまえ。君、悪魔のようだぞ。それとも告白のつもりなのかな。随分と情熱的じゃあないか」

「イド、そろそろ黙れ。雉が何故打たれたか知らないわけではないだろう」

コルテスがふいにイドへ目をやって鋭く睨み付ける。それにイドは何も応えることはせず、ただ命令通りに口を閉じた。先程の退却許可に加えてのその威圧感に、怒られている本人ではない船員たちが身を強張らせてしまう。そしてある船員が確認するように、隣の同志に話し掛ける。

「なあ、本当に将軍を殺して帰るっつってる奴いんのか?」

「知らねーけど、勝てるわけないだろ馬鹿」

その呟きは辺りに広がり、彼らはちらりと将軍と上官を見やりながら、コルテスに貰った決断の自由を他に求め始める。

―――人間とは、面白いものだ。

それを黙って眺めていたイドは僅かに口元をつり上げる。どうしてだろうか、折角許可を貰ったというのに、彼らは自ら手を上げる勇気を持てないでいる。いや、実はそうではないのかもしれない。彼らはひとつコルテスに『逃げ道』を与えられた。つまりいつだって逃げても良いと言われたのだ。何故だか、後ろに道があると知ると人は強気になる。まだ自分は頑張れるのではないか?と思い始めてくる。そしてそれは最終的にそうであってほしいと願うようになる。極めつけは、反逆者の存在だ。自分を含む勇敢な者が集うこの船員の中に、トップを殺してでも逃げたいと考える腑抜けが居る。それは許されないことであり、その人間を追い出すことによって自分の考え、または船員全体の考えが正当化される気がしてくる。今まで逃げたいと考えていた人間が、そう願う反逆者を追い出してまで進軍するべきだと思うようになるのだ。――とまあ、此処までいけばやりすぎだが、実際船員たちを見下ろしていれば、その変化は一目瞭然だった。

「将軍、進軍するべきです。弱腰な人間はこの船には要りません。退却許可ではなく、軍法会議にかけるべきだ!」

誰かがコルテスにそう応え、ぐわっと一気に船員の態度が変わる。「ああその通りだ!」「軍法会議だ!」と次々に同意の声が上がった。最早退却する人間を絞り出してやるといった目付きが全員に見られるまでになる。まるで魔女狩りだ。イドはその声に混ざって大声で笑い、立ち上がってコルテスの肩を小突いた。

「船員が皆勇敢で素晴らしい!良い部下を持ったな、将軍殿?」

「…で、もういいか?」

「…ああ、良いんじゃないか。頃合いだろう」

ふいに声を潜めて二人は言葉を交わし、イドはコルテスの肩を叩くと再び定位置に座り込んだ。二人の反応にふと正気に返った船員たちが、興奮しきった声を上げながらも、数回将軍の方に目をやった。彼は顎に手を当てて船員たちを見下ろしており、「軍法会議はやりすぎだよな…」と呟いている。そして最後にしぶしぶと頷いた。

「分かった、仕方ない。そんなに言うのなら進軍するしかないか」

「コルテス?撤退許可を取り消すのか?」

「ああ、不本意だがそうすることにしよう。諸君、もうすぐ陸地だ。疲れているだろうが付いてきてくれるな?」

その言葉を待っていました、とでも言うように船員たちが一斉に沸き上がった。元から血の気の多い人間ばかりなので、すぐに船内は活気立つ。先程までの動揺が嘘のように、今船員たちはひとつになった。まるで船に乗る前、またはその直後に見た彼らそのものだ。皆が皆コルテス将軍に続く瞬間を夢見て、新大陸の黄金を思い描き、未知へ羽ばたく己に陶酔していた、キューバ出発のその日のようだ。その光景をコルテスとイドは満足そうに眺め、ふと目を合わせてお互い意地悪く笑った。



『上から命令するだけでは人は動かない』

昨日、船室の中でイドは言った。常に上から目線で人に接する人間が言っても説得力の欠片もないが、彼が間違いを言ったことはない。コルテスは彼の言葉に耳を傾け続ける。

『人はその本人にしか動かせない。つまりこうだ、『俺は他人ではなく、自分でこの重大な決断をしたんだ』と彼ら自身に思わせることが重要なんだ。自発的に行動したと自覚すれば士気も上がる。君はそう仕向ければ良いのだ。船員たちの心理を見透かせ、その綱を握って裏から操りたまえ。私はその演出をしよう』

全く、食えない男だと思う。むしろ人を食うような男だ。イドの楽しそうな表情を見てコルテスは苦笑した。今まで自分の周りに、これほど理性的に物事を考える人間が居ただろうか。居たとしても、こうも的確に行動することが出来るのだろうか。彼はその両方を軽々と成し遂げる天才なのかもしれない。イドはよくコルテスのことを「野心の為に思惑通りに人を動かす詐欺師」だと揶揄するが、それはイドにも間違いなく当てはまる。類は友を呼ぶのかもしれない。全く嫌な友人を持ってしまったことだ。
それでもコルテスはあの出来事のあとイドを船室に呼び出し、友と変わらぬ意地の悪い笑みを浮かべて葡萄酒を掲げるのだろう。「我らが神に乾杯」など、そんなことを宣いながら。

―――
つまり二人とも性格悪い。

まじで本当にあったお話でした。
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