(王様と冬と盗賊/ちょっぴり季節外れ)


ローランサンは硬直した。まるで恐ろしい化け物が牙と爪を剥き出しにして今にも襲いかかってくるのを眼前にしてしまったような顔をして、強張る身体を叱咤する術も知らず恐れ戦いていた。しかし目の前にあるのは化け物ではなく、ただの扉で、彼が手にしているのは剣ではなく紙切れ数枚と小さな瓶だけだ。彼は実質的には盗賊なのだが、国家内では近衛騎士という地位を得ていて実際実力もある。国王陛下の護衛の為に活躍する、この国の中では名のある兵士の一人だ。その彼が、蛇に睨まれた蛙のように動けないでいる。

ローランサンは心の底から逃げたかった。敵に背中を向けるのは愚かなことだと昔教わった気がするが、無謀な敵に立ち向かうのもまた愚者の選択だろう。そう言い訳して全力で踵を返したかった。出来ないのは、これが自分に与えられた義務であり、扉の向こうにいるのは、国王陛下その人であるからだ。

―――作曲中の陛下には近寄るな。

これはもう臣下どころか彼と直接関わりのない国民までも熟知している国家の最大の暗黙の了解だ。陛下は建国する際に剣を投げ捨て代わりに歌と平和を選んだくらいには、基本的に穏健な性格をしている。国家の神話はこの話から始まる。しかしそんな男も所詮は人間であり、感情の起伏はある。曲を作っている時は格別に酷い。臣下どころか宰相もなるべく関わるのを避けるほどに鬼っぷりを発揮するのだ。だから大抵、作曲中の陛下の執務室には誰も近寄らない。陛下との親密な人間関係を築いているローランサンの相方だって清々しいほど彼との対面をスルーしていた。

しかし今回、ローランサンには仕事があった。私情と仕事は別物だ。幼い頃から叩き込まれた教訓がローランサンを逃がすことを許さない。

「(さっさとおわらせようそして逃げよう)」

ローランサンは硬く心に誓って勇気を振り絞った。震える手で扉を叩き、返事があると開いて中に入る。地を這うような声だ。普段詩を紡ぐ歌声は軽やかで優しさを纏っているのに、なんでこんなに冥府を巡回してきましたというような声色をしているのだろう。本気で不思議に思った。
ローランサンは机に向かって作業をし続けている陛下の前に立つ。彼はローランサンが入ってきても尚顔を上げない。それは想定内だったので、気にせずに機械的に義務をこなす。

「報告します。先日私とイヴェールが調べた地域で、非合法の物質が取引されていたのを確認しました。物質はアルコール度を80越えている酒のようで、幻覚症状を起こす危険性があるので我が国では禁止しているのですが、どうやら他国から仕入れたものらしく、特定の地域で高額な値段で取引されています」

書類に書いてあることを半ば棒読み気味に読み続け、たまに陛下の反応を伺う。相槌も打たないので聞いているのか聞いていないのかいまいち分からない。なにこれ早く帰りたいと汗まみれになった手のひらを服に擦り当てる。「これがサンプルです」と持っていた瓶を机に置けば、ようやく陛下は反応を示した。ゆっくりと上げられたサングラスの奥の目は死んでいる気がする。

「…他国って、こんなの合法化してる国なんてあるの」

「英国はアルコール度を薄めて販売してますね。出回っているのはそのままの度数ですが」

「麻薬みたいなものかい」

「効果的には。だから危険性があるんです」

声に抑揚が無い。陛下はサンプルをつんつんと指をついて、何度か顔を上げて尋ねてくる。そのまま何気ない動作で飲み出しそうな気がして、ローランサンは彼をじっと監視した。その酒もどきを飲んだらどうなるか路地裏に居る塵人間を見ればすぐに分かる。

「ああ、そう。じゃあ宰相に言って厳しく規制しよう。ありがとう。やっぱり毒を以て毒を制すのが一番効率的だな」

「俺らは毒か」

最後の余計な一言に思わず普段のダメ口で応えた。実際事実であり気にするほど心も狭くないが、ローランサンは言外に「もう少し口調に気を付けろ」という意味を込めて低く諌める。しかし彼には通用しなかったようで、特に反応することも、気分を害することもなく平淡な口調で言葉を紡いだ。

「盗賊は社会の毒。君たちの存在だってこの酒と同じく非合法だよ。違う?」

「…荒れてんな」

毒と例えられた人間が毒舌に罵られても効果は無いが、普段柔らかい表現しか知らないような王様から辛辣な言葉を聞くという事実には口元をひきつらせずにはいられない。ローランサンは陛下の御前だということも忘れ、溜め息をついた。これは普通に怖い。何故普段は後光が差しているような穏健な人間から毒々しいまでのオーラを浴びなければならないのだ。ギャップどころではない。ローランサンは書類も机の上に置くと、目の前の負のオーラに呑み込まれないように気を張りながら礼をする。さっさと帰りたいという願望のみが彼を動かしていた。陛下も特に咎めはしないので、事務的なこのやり取りは直ぐに終わりを告げる。

「ああ、そういえば」

しかし部屋から出る前にローランサンは足を止めた。此処から先は仕事ではないが、伝え忘れていたことを思い出したのだ。声のトーンが変わったことに気づいた陛下は作業を一時中断してローランサンへ視線を向ける。

「なんだい?」

「天秤があんたに会いたがってた。一応止めたんだが、それでも顔は見せたいって聞かねーんだ。昼までに訪ねてくるだろうからその仏頂面どうにかしろ」

「何故止めたのか聞いていいかな」

「賢明な判断だろ」

自覚はあるらしく、陛下は力ない顔で笑う。なんとかしておくよ、と紡がれた言葉にローランサンは漸く安堵して、部屋を後にした。普段と変わらない態度で接するのは聊か疲れる。天秤にはその顔を見せることが無いようにと、彼の無邪気な表情を脳裏に描いてローランサンは苦笑した。まあ天秤なら、陛下の機嫌くらいあっさりと変えてしまうのだろうけど。



「ていうことが今朝あって、死ぬかと思った」

「あー……お疲れ様?」

ベッドに俯せで倒れ込むローランサンを見下ろしながら、イヴェールは労りの言葉を掛けた。彼らが合流したのはついさっきのことで、夕方までイヴェールは外で例の酒の情報を集めていた。毒を以て毒を制すというのは正にその通りで、盗賊を本業としている彼らは裏社会に深く通じている。生物の情報を扱うには彼らの立場が一番適していた。盗賊が犯罪に目を光らせるとはおかしな話だが、国からの報酬は悪くないので稀に仕事を引き受けていた。情報収集に出掛けてしまったイヴェールの代わりに国王への報告を引き受けたのはローランサンだ。普段なら難なくこなせる仕事も、陛下の機嫌のタイミングの悪さに疲労感がぐんと増した。そういえば今朝の陛下もかなり疲れている様子だった。おそらく食事もまともにしてない上に、徹夜なのだろう。彼の健康を管理する宰相でさえ国王に近寄れない状況なのだから悪化しているにちがいない。酷い悪循環だ。だからといってなんとかしてやろうとする勇気は出てこないのだが。

「陛下のアレは一週間は続くと思うけど、山越えたら大分落ち着いてくるから気長に待った方が良い」

「物生み出すのって大変だな…」

しみじみと思う。母親はお腹痛めて子供を生むけど、陛下は頭を痛めて物語を生むのだろう。その過程を邪魔したいとは思わないので今朝の出来事は本当に神経を使った。
喋り疲れたのか、イヴェールはブーツを脱いでベッドに上がると直ぐに横になってしまう。ローランサンは体を起こして彼の眠るスペースを作ってやると、毛布を肩まで引き上げた。明日には陛下の機嫌も直っていれば良いと半ば不可能に近い願望を抱きつつ瞳を閉じる。この後特にやることも無く、早く寝てしまいたかった。正直に言えば明日早く起きて王国を抜け出したかった。神経を使うより体を使う労働の方が向いている気がした。「そろそろ明かり消すぞ」とローランサンが声を掛けると、夢のなかに片足を突っ込んだような声が背後から聞こえてくる。イヴェールも1日かなり動いて疲れているようだ。あまり振動を与えないようにしながら身をよじりランプに手を伸ばす。すると同時に、なぜかあり得ない方向からも光が差した。ベッドの向こう側から漏れた光がローランサンの視界を照らす。

「は?」

すっとんきょうな声を上げて眼前を見ると、イヴェールと変わらない容姿をした青年が佇んでいた。ドアを薄く開いてこちらを覗いている。逆光でよく見れないが、申し訳なさそうに眉を垂らしていた。間違いなくイヴェールその人だ。天秤だった。

「どうしたんだよ」

こんな時間に訪ねてくるなんて珍しい。ローランサンは体を起こしてランプの明かりを強くした。隣で寝ていたイヴェールも目を覚まし、瞼を擦りながら天秤を見つめる。

「天秤?」

「…ッ…」

ローランサンの反応にびくりと体を震わせた天秤はドアノブを強く握りしめていた。まるで何か耐えているようだ。ブーツを履いて天秤の前まで歩いてやると、彼は大きな二つの眼から透明な液体をぶわっと溢れさせた。そして天秤は衝動のまま、固まってしまったローランサンに抱きついてくる。

「…っお、おい…?」

驚いてローランサンの問いかけの語尾も小さくなる。イヴェールもブーツに足を入れて二人の傍まで歩くと、天秤の頬にそっと手のひらを当てた。促されるように顔をあげる天秤の頬にはまだ止まることを知らない涙が流れている。外傷は無いから肉体的な痛みからくる涙ではないだろう。多分傷付いているのは心の方だ。

「ローランサン…」

「…あ、ああ」

これは何かあった。それも、おそらく陛下のことだ。
ローランサンがイヴェールに目配せすると、彼は黙ったまま二人の後ろを通りすぎ部屋を出ていった。バタンと閉ざされた扉の前で泣きじゃくる天秤の手を引いて、ローランサンはベッド前の椅子に座らせる。それでも服の裾を離そうとしない天秤に彼は呆れながらも、最後まで付き合うことにした。乗り掛かった船だ。嗚咽混じりの謝罪を胸のなかから聞いていたら、なんかどうでもよくなった。

「(またすれ違ったんだろうなあ)」

ローランサンとイヴェールもそういうことを山程やらかしてきた仲なので大抵の立ち回りはできるつもりだ。明日早く王国を出たいと言う願望を切り捨て、明日昼寝時間はどれほど取れるか計算することにした。

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