部屋ごと揺すぶるような音で、安らかな微睡みから叩き起こされた。手元にあった時計を見ると夜中の1時を過ぎている。目の前には食べ掛けのペペロンチーノと、先程の音で驚いて転がしてしまった水の入ってないコップがあるだけだ。一体誰が来たのかと思考する前にその尋常ではない音に危機感が増して、私は咄嗟に辺りを見渡した。一度だけではなく断片的に音が鳴り響き、それは玄関のドアから聞こえている。
(……強盗?)
泥棒が正面から堂々と出向いてくるのもおかしい話だ。だが、いくら此処が古いボロアパートだと言っても、呼び鈴くらいは付いている。そろりと立ち上がり、メルヒェンが護身用にと修学旅行で買ってきた木刀に手を伸ばした。今は私しか部屋にいない。メルヒェンはエリーザベトの家で、部員と管弦楽の練習をしに行っている。もしかして彼が居ないことを見越して訪ねてきているのだろうか?不安が押し寄せて心臓が痛いほど高鳴ったが、玄関の前まで歩いたとき外から聞こえてくる呻き声に目を丸くした。――酷く聞き慣れ、今は聞きたくはない声だった。
「……エル…、コルテス?」
「……うー…」
慌ててドアを開けると、眉をしかめたコルテスがいきなり凭れ掛かってきた。木刀を咄嗟に壁に立て掛けて彼女の肩に手を回したが、支えきれずにそのまま玄関に尻をついてしまう。様子がおかしかった。目は半分も開いておらず、顔が異様に赤い。あと酒臭い。
「…こら未成年」
コルテスは制服を着たままだった。この状態で夜の町を歩くなんて無防備にも程がある。よく警察に咎められなかったものだ。完全に力が抜けている体を引き摺って部屋に招き入れて、ドアの鍵を閉めた。明るい場所で見ると余計にコルテスの火照った体が目につく。こんな夜中に女子高生が酒を飲んで、同級生の家に転がり込むという異常事態に改めて溜め息をついた。誰が彼女にこんなに酒を飲ませたのだろう。そう考えただけでふつふつと嫌な感情が沸き上がり、振り払うように頭を振る。
「…そうだ、水」
コルテスを敷いてあった布団の上に横たえ、せめて少しでも酔いが薄まるようにとコップに水を汲んだ。彼女の横に膝を付き、頭を支えて飲みやすい態勢をつくる。その時ふとしっかり首回りを締めているスカーフの存在に気付き、少し風通しを良くしてやろうと手をかけた。藍色のそれに指を絡め、するりと引き抜く。
「……触るな!!」
バシッと派手な音を立てて手を叩かれた。頭を支えていた手も振り払われ、彼女はまるで親の仇と相対しているかの様に私と距離を取る。酒に思考を持っていかれても一丁前に警戒心だけは強く、仰向けに寝転がっていた体を捩らせ、獣のように威嚇してきた。赤く染まってじんじんと痛み出す手の甲に、私は呆然と彼女を見つめる。言葉が耳から入り、脳で解釈するまでにかなり時間を要した。
触るなと言ったのか。コルテスが、私に。
「…なんで、」
「もう…いやなんだよ、やめてよ…いい加減」
「……私に触られるのが嫌だってことか」
「いつ、あたしが許可したの?」
許可が必要だったとは初耳だ。胸の内から込み上げてきた何かに押し流されないように、ぐっと叩かれた手を握りしめた。はっきりと拒絶されたことで、コルテスとの距離を改めて思い知らされる。良く一緒に行動していた頃、触れてくるのも抱き付いてくるのもそういえばコルテスの方だった。最近全く触ってこなくなったのは、男の人と付き合って私にまとわり付かれるのに嫌気が差したからだろうか。思った以上にショックを受けている自分に気付いて苦笑した。大抵のことなら耐えられると思っていたのに、馬鹿みたいだ。
「…なあコルテス、今日も彼氏の家に行っていたのか?」
「あー…彼氏はいないよ。別れた」
「じゃあ別の男のとこ?」
「うん。つらくて泣いてたら、お酒くれた」
失恋で哀しむ女子高生に酒か。とんだ優しい人が居たものだ。その言葉で先程まで彼女が何をしてきたのか簡単に想像出来てしまい、乾いた笑いを溢す。女に酒を勧める男に下心が無い訳がないのに。
(エルナン、私なら君のことを…酒がなくたって、慰められるよ)
本音は何時だって喉の奥に突っ掛かったまま言葉にはならない。いつから私は、彼女の前で自分を取り繕う様になったのだろう。
威嚇態勢のままかくんと首を前に倒したコルテスをそのまま放って置くのもどうかと思った。布団に転がそうとして無防備な腕を掴む。しかしそれも派手に振り払われた。哀しみよりも苛立ちが沸き上がり、その拒絶を無視して彼女を布団に押し付ける。大体人の家に酔ったまま転がり込んで来るなんて非常識にも程がある。少しは大人しくするべきだ。皺にならないようにスカーフを抜き取り、上から釦を外していった。
「…ッやめてっていってるだろ!お前なんかにだかれてやる気はない!!」
「はあ!?私だって君を抱く気は……、え?」
思わず手を止める。
今なんと言った。
「好きな人がいるから」
釦に引っ掛けていた指を離した。嫌がるように四肢をばたつかせていたコルテスが、安堵したように息をつく。反対に私は息を呑んだ。彼女の一言が、耳の中を反響して離れない。
「……好きな人が、いるんだ…」
口内で反復する。嗚呼、なんだ。そういうことか。だったら、何となく納得できる。私を拒絶するのも。彼氏と別れたのも。もしかしたらコルテスが男の家に転がり込んだのは、彼氏との別れがショックだったんじゃなくて、想い人と上手くいかなくて悲しんでいたからかもしれない。そんなときに優しい人に慰められたら、酒くらい飲んでしまうのかな。彼女の気持ちは決して此方に向かないのに、ひたすら追いかけ回す私はなんて滑稽なんだろう。歪みそうな顔を笑みで誤魔化して、コルテスに語りかける。
「……コルテス、その人は優しい?」
「いじっぱりだけど、すごく優しい。かわいい。抱き締めたい」
「かわいいのか。君昔から、小さいものが好きだったからな」
小さい頃二人で海に行ったとき、コルテスは白い箱に貝殻をたくさん集めていた。本人はそういう趣向を似合わないと笑っていたが、私は素敵だと思っていた。貝殻を集めて、穴を開けて作ってもらった首飾りは今も大切に取ってある。また二人で海に行こうと約束していたのに、歳を重ねるにつれてそんな小さな約束さえ崩れ落ちていった。
ぽたりと膝に雨の雫が落ちる。雨漏りしているのか?と一瞬思った自分を嘲笑った。止めどなく降っているのは私の心だ。いくつもいくつも溢れ落ちてきて、止まらずに頬を手で抑える。
「なんで、お前が泣くんだよ」
頬を温かい手が包んだ。誰のせいだと思っているんだ。文句を言いたいのに、嗚咽だけが溢れてくる。泣きたくなくても次から次へと出てくるんだから仕方ない。頬が発熱したようにじんわりと熱かった。水が必要なのは私の方かもしれない。失恋ってこんな感じなのかなと頭の片隅で考えた。私は自分が思っていた以上に、コルテスのことが好きだったらしい。こんな感情を抱えたまま彼女と接していたから気味悪がられたのだ。突き放して、想い人の元に走り出したくなるのも当然だ。苛立ちや悲しみよりも、虚無感が沸き上がってくる。私の方には視線をやらずに、コルテスはゆっくりと言葉を落とした。
「……こんな無意味なことやめるべきだって、ずっとおもってた。なにしたって、虚しさだけしかのこらないのに。でも、ぜったいあいつは、あたしのこと好きにならないから」
「…どうしてそう決めつけるの」
自分のことを言われてるみたいで、胸が痛くなる。
「だって、友達だっていわれた。あたしのこと、友達として好きなんだって。それ言われたとき、彼女はあたしのほんとのきもち知ったら、拒絶するんじゃないかっておもって…それからずっと怖くて」
コルテスは心中をぽつりぽつりと語っていく。それを何処か遠くで聴きながら、彼女に愛されている見知らぬ人間を想い描いてぐちゃりと嫌な感情が渦巻いた。友達として好きだなんて、私はコルテスと友人という土台に立っているのかさえ怪しいのに。しかしそう考えたとこで、ふと予想していなかった単語が聞こえたことに気づき、眉をしかめる。
「…彼女?」
「あいつのそばにいたら、あたし、そのうち何しだすか分からないから」
「……なあコルテス、あいつって女の人?」
「…そうだよ。知ってるの?」
「君が今彼女って言ったじゃないか」
「…そうだっけ」
コルテスはかくりと首を傾げる。コルテスの好きな人は女の人。言葉を頭の中で繰り返して、思い当たる節が有りすぎて思考が止まった。友達として好きだという台詞、よく考えたら思い切り私が言った言葉だ。もしかして、私とコルテスの会話は初めから噛み合っていなかったのではないか。
「…コルテス、確認していい?」
「んん?」
「コルテスは女の人が好きで、その人にフラれるのが怖くて男と付き合ってた?」
「…たぶん、そう」
「その女の人って」
「幼馴染み。最近はしゃべれないけど、あげたロザリオをずっと持っててくれてた…うれしかった」
コルテスがとろけるような笑みを浮かべる。私は頭が真っ白になった。昼、ロザリオを無くして必死に教室を探し回り、コルテスと目があった出来事を思い出す。私は震える声でゆっくりと紡いだ。
「……君は、彼女のこと、なんて呼んでるの」
「いど」
彼女は私の膝元に視線をやって、噛み締めるように言葉を紡いだ。彼女の口から紡がれたふたつの音が反響する。嗚呼、久々に聞いた。
「…イドに、あいたい」
細められた瞳が、切なそうに揺らぐ。甘く囁くような音色に、顔が意識せずに熱くなった。
「………君は、一体私を誰だと思って」
「……やさしいひと」
それはそうだ、私は優しい。震える手で机に置きっぱなしだったコップを手に取った。上気した顔で布団に寝転がる彼女は、まるで何かにとりつかれたように私の名前を繰り返す。それは私が聞きたくて仕方なくて、それ故に耳を塞いで拒絶してきた声。水の様に浸透し、涙となって頬を流れた。私はその言葉を信頼していいのか?その大好きな声に、裏切られることは二度とない?確認するために、優しい私はコルテスの真上でコップを傾ける。
「うあッ…つめたっ!!ちょ、なにす」
「エルナン」
水を顔面に浴びて飛び起きたコルテスに抱きつき、名前を呼ぶと、彼女はぴくりと肩を震わせた。
「…………イド?」
頷く。しっかりした声が、確認するように紡がれる。
「…好きだよ…エルナン」
私もまた言葉を覚えたての幼子のように、彼女の名前を繰り返した。
水を浴びてすっかり酔いが醒めたらしい。コルテスはびしょ濡れになった布団の横で正座して、挙動不審に辺りを見渡した。「イド?」と名前を呼んでくるのでその度に頷く。自分でもどうしてこの場所に辿り着いてしまったのか分からないのだろう。動かした足も、ドアを叩いた手もコルテスのものだというのに、おかしな話だ。
少しお互いに気持ちが冷静になった後、コルテスは学校が終わった後のことを話してくれた。あの後ベルナールを引き摺って、彼の家に行ったこと。目的は一時の記憶の抹消で、ベルナールの兄が成人済みで寛容な人だから、愚痴っていたら酒を勧めてくれると分かっていたこと。しかしあまりにも気分が落ち込みすぎて、缶を一つ開けたら完全に酔っ払ってしまったこと。その後の記憶は定かではないこと。大人しく聞いてる間に何回かまたコップを彼女の頭の上で傾けたくなったが、先程まで胸の内で燻っていた不安が杞憂だと知って体の力が抜けた。
「…な、イド。さっきのって、どういう意味」
「…え?」
名前を呼ばれて顔を上げると、思いの外真摯な表情と目があった。先程の酔っ払いが嘘のように、目元がしっかりしている。あまりにも真剣に言われるから反応に困ったが、コルテスが何を言わんとしているのか分からないほど鈍感ではない。私は彼女の肩に触れて、少し自分の方に引き寄せた。見開かれた目を視界に入れて、閉じる。
ちゅ
「………こういう、意味」
触れるだけの口付けを、唇にした。初めての弾力に心臓を高鳴らせながらも、コルテスを見上げる。気持ち悪かったかと不安が押し寄せた。しかし見えたのは、唇を手で覆って耳まで真っ赤になっているコルテスの表情。あまりの変化に此方の方が固まっていると、いきなり腕を掴まれ彼女の胸に押し付けられた。むぐ、と変な声を出してしまう。
「…イド、いいの」
「ん、う?」
「あたし、我慢しなくていいの」
私の背中に回る手は、僅かに震えていた。どくどくと跳ね上がる心音は私と同じで、嬉しくなって目を閉じる。
「いいよ」
そう紡いだ途端、体を離された。驚いて顔を上げると、コルテスが肩を強く掴んでくる。そのまま唇に口付けられた。唇が触れ合う距離で、すき、と振動で伝わってきた音に、喉をひきつらせながら何度も頷いた。