季節が涼しさを忘れていくにつれて、じめじめとした湿っぽさが廊下に立ち込めていく。激しく運動した訳でもないのに浮かんできた汗を拭い、ベルナールは隣の教室へと足を運んだ。次の授業は他クラスと合同だった。擦れ違った女子高生の会話から、突然知人の名前が聞こえてくる。彼がその名前を他人の口から聞くのは初めてではなかった。思案顔で、少し訝しげに彼女の名前を口にする少女たちの声を、ベルナールは昨日から三回は聞いている。聞き耳を立てているのに会話に混じろうとしないのは、その女子高生が彼にとってあまり親しく無いのと、知人の名前が決して肯定的な意味で紡がれていないのを知っているからだった。
教室に入る。気の早い生徒は既に教室で友人達とお喋りしながらチャイムが鳴るのを待っていた。ベルナールもどちらかといえば気の早い性格であったから、授業開始の五分前には指定教室で机に座って本を開いている。いつもはそうして過ごしているのだが、今日は少し違った。窓際の一番後ろの席で、次の時間は別の教室で授業を受ける筈の女子高生が、退屈そうに窓の外を眺めていた。ベルナールはそれが気になった。先程女子のグループの話題になっていた、彼女に間違いなかった。机の上に置いていた暇潰しの本に見向きもせず、ベルナールは彼女に話し掛ける。

「放心する程前の授業がつまらなかったんですかね?」

前の席を陣取って座り、コルテスに話し掛ける態勢を作ると、彼女は閉じかけた瞼を少しだけ開いた。

「…ああ、イドの横顔よりつまらなかった」

「イドさんってさっき授業此処でしたっけ。貴方ずっと見てたんです?」

「見てたよ」

それが当然の行いだと言うように、平然と彼女は答えた。その視線の先は教卓より机三つ分離れた場所に絞られていて、ベルナールにもイドが何処に座っていたかすぐに分かった。ベルナールはアルバラード程では無いが、コルテスがイドに恋心を抱いていることを知っている。そしてアルバラード以上にイドとも仲が良い。下校の時は、部活が無ければ良く一緒に帰っている。最近イドの調子が良くないみたいなので、コルテスが原因では無いだろうかと踏んでいた。その直後にコルテスが彼氏と別れたという噂が広がり、一体何が起こったのかと不審に思っていたところだった。

「授業、始まりますよ」

ベルナールは時計を見る。促すように肩を叩くと、コルテスはその手を掴み体重を乗せるようにして立ち上がった。甘えただなと思いながら口にせず、ベルナールは手を引っ張って助けてやる。ガタリと椅子が無機質な音を立てた。立ち上がらせるときに自然とベルナールも席を立ち、コルテスを見下ろしたときに、ふとその首から鎖骨に掛けて線を結んでいる赤に気が付いた。絆創膏をつけて襟はきちんと立てているが、それでも見下ろしたら視界に入ってしまう。

「……まだ消えて無かったんですか」

「…ああ。どうやって消したら良いか分からなくて」

「患部にレモンを乗せて揉めば良いって聞いたことあります…というか、そんなまどろっこしいことする前にファンデかコンシーラーでなんとかするか、湿布貼って誤魔化す方が良いと思いますけどね」

「…保健室で湿布貰ってくるか」

「是非そうしてください。女子に睨まれますよ」

本人にその気は無くても、女子高生はそう言った話題に敏感なのだ。少し気を配るべきだと思う。もしかしたら親しい友人の夜事情を知ってしまってイドの機嫌が悪いのかとベルナールは一瞬思考の糸を辿ったが、本人達が話さない限り口を挟むのを止めるべきだと考えることを放棄した。
時計の針が段々と次の授業の開始時間へと動く。コルテスは未だ覚束ない動作で教科書と筆記用具を抱えた。ベルナールはそれを黙って見下ろしていたが、ふと教室のドアから入ってきた見慣れた金色に視線を向ける。彼女は何処か焦った様子で教室に飛び込み、視線を床に忙しく動かしていた。そして目当てのものを見付けたのか、屈んで落ちていたものを拾い上げる。焦燥に駆られた瞳が一転して安堵に細められ、いくらか緩んだ口許が弧を描いていた。小さな手のひらで大切そうに胸元に手繰り寄せられたそれは、十字架の形をしていた。

「あ、イドさん。忘れ物ですか?」

踵を返そうと動きかけた背中にベルナールは話し掛ける。突然名前を呼ばれて背中を強張らせた彼女は驚いた表情で振り返ったが、親しい友人に呼ばれたと理解したのだろう、僅かに口角を上げて微笑んだ。しかし視界にコルテスを捉えた途端、その笑みは見事に凍り付く。

「………」

ベルナールに応えようと開きかけた唇が役目を放棄した。コルテスもイドが此方を向いていることに驚いて、声も出せずに狼狽えている。二人は一瞬視線交差させ、イドは開きかけた唇から何か言葉を吐き出したそうにしていた。しかし情けなく下がった眉毛が、それが不可能だということを雄弁に語っている。コルテスは先程の無機質さが嘘のように頬を強張らせ、ぎゅっと唇を固く噛んだ。言いたいことはあるが、言う資格が無いと諦めたような表情だった。二人の間に流れたぎこちない空気に、気の回るベルナールが耐えきれるわけがない。彼はその雰囲気で二人の今の関係を一瞬で見抜き、空気を打破しようと口を開いた。しかしその前にイドが顔の筋肉を無理矢理動かしてにこりと微笑む。

「何でもないよ、ベル。少し落とし物をしただけだ」

自分の言葉で先程拾った十字架の存在に気付き、まるで見られたくないという様に手のひらのなかにしまいこんだ。コルテスはその手の中のものを一瞬視界に入れて何か言いたげに唇を開いたが、それを拒絶する様にイドは背中を向けて教室を去る。視線を絡ませただけで、二人は言葉を交わすどころか軽い会釈さえしなかった。

(…ほんとどういうことだよ…)

ベルナールは二人の一緒に居る時間が減っていることを薄々察していたが、まさか此処まで仲が破綻しているとは思ってなかった。明らかにイドはコルテスを避けている。イドの元気が無かったのは、これが原因で間違えなさそうだった。コルテスは今にも落としそうな教科書をぎゅっと抱え直し、ただぼんやりと一点を見つめていた。

「あれ、あたしがあげたやつだ…」

「え?」

「あのロザリオ。イドの誕生日の時に、あたしがあげたんだ」

そう言って、無造作にスカートのポケットに手を突っ込む。取り出されたそれは、先程イドが拾い上げた十字架と同じ形をしていた。

「…嬉しい。まだ持っていてくれたんだ」

捨てられたと思ってた、と蚊の鳴くような声でコルテスは紡いだ。すがるものがそれしかないと言いたげに、大切そうに自分のロザリオを指が白くなるほど握り締める。泣きそうに水が張った黒曜石は、歓びと哀しみに揺れ動いていた。ベルナールは彼女をどうしてやれば良いかについて、酷く戸惑った。コルテスの心境を知っているからこそ、先程の状況は当事者ではない彼の心臓を煩いほど高ならせている。イドに声を掛けるべきではなかったと、ベルナールは後悔した。

「コルテス」

低い声が左側から響く。促されるようにコルテスが顔を上げると、彼女よりも身長が頭ひとつ分高い男子高校生が見下ろしていた。背が高いからか、アルバラード程ではないが随分威圧感がある印象を受ける。彼は髪を明るい茶色に染めていて、肩幅も広くがっしりとしていた。ベルナールはその顔を見て、女子高生の噂話に彼の名前も上がっていたことを思い出した。そして、コルテスが彼氏と別れた途端に狙ったように何回か声を掛けていることも。顔も整っていてスポーツマンな彼は、校内でそこそこ人気だった。コルテスと並ぶとまさに美男美女という感じだ。本当に見境ない女だよね、と彼女たちが嫉妬に捕らわれ最後に紡いだ言葉を脳裏で繰り返す。

「お前さ、今日部活無いだろ。一緒に帰らない?」

ほら来た。ベルナールは心の中で笑った。彼が飼っている下心が、言葉と共にちらほらと姿を見せている。ベルナールは、コルテスはこの申し出をにべもなく断ると信じていた。しかし彼女は何か覚悟を決めたように唇を引き締め、ロザリオを持った手を固く握りしめていた。瞳だけが困惑に揺らいでいる。ベルナールはそれを見て咄嗟に手を伸ばした。彼女の腕を引き、自分の方へ体重を傾ける。

「ごめん、私が先約だから」

そう男を睨み付け、未だに狼狽えているコルテスを無理矢理引っ張って教室を出ていった。




「…なんで断らなかったんです」

廊下に出て、更衣室の前でベルナールはコルテスを睨んだ。チャイムが追い掛けるように鳴り響く。コルテスは間抜けに教科書を抱えたまま、自嘲気味に笑った。

「寂しいからって言ったら、軽蔑するか?」

「…もっとましな言い訳を考えてきてください」

「本当だよ。誰でも良いから引き寄せて、イドの視線があたしに向くように仕向けたい」

「それが本当なら、貴方は救いようのない馬鹿です」

「真正面から言うお前も相当だね」

乾いた笑い声を漏らしてコルテスは紡ぐ。女子高生の陰口よりは気持ち良いものでしょうよとベルナールは吐き捨てたくなった。イドから避けていると思っていたが、その原因を作ったのはコルテスだ。それも行き当たりばったりではなく、結果を見越して物を言っているのだからたちが悪い。ベルナールは溜め息をついた。

「とりあえず私は教室に戻りますよ…。貴方のせいで完全に遅刻扱いですよ。責任取ってくださいね。貴方はその間抜けに付けたキスマークを取る為に保健室にでも行ってれば良いです。ついでに冷水も頭から被ってきたら少しはましになるんじゃないですか?」

「ベルナール」

彼の毒舌も慣れたように一蹴して、コルテスは苦笑した。

「お前のお兄さん今日家居る?」

「…夜には居ますけど、それが?」

「お前が先約なんだろ。下校ついでにお持ち帰りしてくれよ」

訝しげに眉をしかめたベルナールに、コルテスは悪戯を思い付いた子供のように笑う。意図が分からずに首を傾げても、彼女は何も応えようとしなかった。


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