憧れの人がいた。
彼とはもう5年目の付き合いになる。
彼の名前は潮江文次郎といった。
「潮江先輩」
「なんだ」
「眠たいです」
「帳簿はまだあるぞ」
ぱちぱちとそろばんを弾く音が部屋に響き渡る。田村以下後輩は部屋に返した。今日で徹夜三日目。いい加減に寝たい。
このそろばんの音が子守唄に聞こえてきた。ああ駄目だ、俺このままじゃ確実に寝る。
「先輩、そういえば『ばれんたいん』って知ってますか?」
寝ないように俺は先輩に話し相手になってもらうことにした。先輩はこっちを見てくれないがいつも付き合ってくれる。
ギンギンしてるけど優しいんだ。
「知らんな」
「南蛮の方で行われている行事です。お慕いしている方に贈り物をするという」
そんな行事があるのか、と先輩は相槌を打つ。
あるんですよ、はい。
それで俺は愚かにも貴方に何か贈り物をしたいとか考えているんですよ。
けれど何を贈っていいのかわからないし、南蛮では何が主流なのかも知らないんです。
そんなことよりも、まず渡す勇気が出ないと思う。
「んで、苗字は誰かに贈り物をする予定でもあるのか」
「へ?」
「そうではないのか?だから話をしたんじゃ…」
うわ、この人は本当にどうして。
図星をつかれた俺は顔を背けて帳簿に向ける。こんな話しなきゃよかった。
どうせ渡すことはできないって諦めはある。そんな勇気は無い。けれど、けれど渡してしまいたい気持ちもある。そして好きなんだって言ってしまいたい。
「苗字?」
「…なんでもないです」
ああもう無理!
諦める、やめますやめます!
渡したからってどうってわけないし、俺なんか無理ムリ!
こんなこと考えてるなんて、俺は乙女か!
「ほれ」
「はい?」
そう言って机の上に置かれたのはあたたかそうな湯気を立てた…なんだこれ。
何ですかコレ、と俺は先輩を見た。
先輩は顔を背けて帳簿を閉じた。
「南蛮の方では『ちょこれいと』というものを贈るそうだ。知っていたか?」
「いえ、知りませんでした…」
この黒いものが『ちょこれいと』というもの…苦そうだ。
しかしあたたかそうである。ちょうど冷え込んできたし…少し口にしてみた。
う、苦い…。
「……それは俺からお前への『ばれんたいん』の贈り物だ」
「はい?」「お前が何もしないから、俺が先に渡してやる」
ええと、先輩は何を言っているんだろう。
この『ちょこれいと』は先輩から俺への『ばれんたいん』の贈り物らしい。
ということは、先輩は俺を…。
「っええ!?」
「ばかたれ。声がでかい」
「え、ちょ、うえ?」
ほどけて溶ける
さっきまでの諦めていた気持ちがこんなにもあっさり消えてしまうなんて。
本当、この人は何なんだろう。
「お前が考えていることはわかりやすい」
なんて、そんな。
ばれんたいんのことを知っていたのを隠していたのもそうだけど
卑怯だと思うんだ。