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||| エラン・ケレスと妹 2

※6話時点での執筆




「ナマエ・ケレス。検査の時間よ、出てきなさい」

沢山の涙がわたしの喉を詰まらせるころ。明かりもつけない薄暗い部屋の中、開いた扉の向こうから光が入り込んできた。
「ベルメリア……」
扉の前に立つ人の名を呼んで、わたしは涙を拭った。まだ上手に息ができなくて、頭の中がぼんやりする。ゆっくりとベッドから降りて足をつけた床は、まるで氷の上のように冷たくて硬い。
「何か言われたの?」
疲れた声。部屋の中を歩くわたしに、ベルメリアはいつものように困った顔をしていた。
「何も、何もない。何もないの……」
だから大丈夫。そう続けようとして、言葉に詰まる。喉元まで溢れてきた寂しさが口をついて出そうになったから、今度こそ両手で口を塞いだ。
「……何もなかった」
奥歯をぎゅっと噛んで、言葉を飲み込む。お兄さまが会いにきてくださったのは、わたしのわがままをベルメリアが伝えてくれたから。だから、ここでわがままを言ったらまたお兄さまに迷惑がかかるかもしれない。
夢は夢のまま。わたしに許されるのは、遠くでお兄さまを応援することだけ。アスティカシアから遠く離れたこの場所で、画面越しにお兄さまの活躍を見るだけでわたしは十分幸せだ。それで満足しなければいけない。
「目は擦らないで」
差し出されたハンカチを受け取って、大きく息を吸い込んでから冷たい部屋を抜け出した。

「……会いたくなかった?」
「ううん……会えて嬉しかった」
「とてもそうは見えないわね」
検査室まで続く明るい廊下を歩きながら、ぽつぽつと言葉を交わす。廊下には人の影も気配もない。いつものように、二人分の足音と、壁の裏で走る機械や配管の静かな駆動音だけがどこまでも続いている。
この場所に来てから、いや、思い出せる限りわたしは一度も、お兄さまとベルメリア以外の人間と顔を合わせたことがない。お父さまとお母さまの顔も声も知っている。けれど、それら全ては画面越しの情報にすぎないもの。
わたしは、ナマエ・ケレス。ペイル・テクノロジーズ本社に住んでいる7歳。自分の名前も、居場所も、姿形も知ってる。お兄さまもベルメリアもわたしをナマエと呼んでくれる。
けどそれなら、わたしがいつも夢に見る場所は一体どこなんだろう。隣にいるあたたかい人は、絵本を読んでくれる人は一体誰?
わたしには知らないことが沢山ある。それを知るために本を読むことも、外を知ることも許可されている。けど、わたしは世界を何も知らない。家族に会えない理由も、外に出してもらえない理由も何も分からない。
「ねえ、ベルメリア。わたし、また夢を──」
わたしの言葉と同時に、ベルメリアが足を止める。つられて顔を上げると、目の前に、初めて人の影が見えた。

「お、いたいた」
聞き覚えのある声に息を呑む。
少し長い前髪を揺らして、こちらへ歩み寄ってくる。長い足で廊下を叩いて、同じ色をした瞳がまっすぐにわたしを見て。一歩一歩、まるで隕石みたいな速度で。手と手が触れあってしまうほどの距離に、お兄さまがいる。
「エラン様……!」
「あーあ、腫れて真っ赤じゃないか。かわいそうに」
お兄さまの右手がわたしの顔に触れる。手を広げて、親指が目尻をなぞる。まるで大切なものに触れるような、でも跡をつけるような少し強い力で。手袋をつけていない、手で?
「おにい、さま?」
「どうしてここに?戻られたのでは……」
「忘れ物だよ。顔だけでも見たいって言ったんだろ」
お兄さまの両手が私の顎を持ち上げる。私の手より大きくて硬い手が、わたしの輪郭をなぞる。頭をなぞるように撫でて、わたしに沢山の寂しさを残してあっという間に離れてしまう。
「その件は既に4号に対応させました。不安定な彼女に過度な刺激を与えられては困ります」
「その安定が崩れたのはアイツのせいだろ?兄が可愛い妹に会いに行って何が悪い」
「ですから……!」
二人の会話が、どこか遠くのことのように感じる。目の前が真っ白なのに、なぜかお兄さまの姿だけがはっきりと見える。
4号って、なに?わたしは不安定なの?お兄さまはどうして戻ってきたの?あんなに怒ったお顔をしていたお兄さまは、どうして笑っているの?
「お兄さま、どうして……?」
聞いちゃだめだ。声に出したら、お兄さまの迷惑になる。噤まなきゃ。塞がなきゃ。夢は夢のままで終わらせないと、自分が苦しいだけなのに。なのに、わたしの両手は痺れたみたいに動てくれない。
「ん?そうだな……ナマエとお話をしに戻ってきたんだ」
「おはなし、してくれるの?どうして……?」
「ご褒美だよ。いい子にしてたナマエへの」
ああ、お兄さまが笑っている。見たこともない顔で。

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