覚悟はないし、責任もない。だが、遊びではない。 ただ、未練があるだけで、なにも望んではいない。 自分は、彼を愛する資格はないのだから、願ってはならない。彼を不幸にしてはいけない。 わかっている。わかっては、いる。しかし、この性質のまえでは想いはただのいい訳にしかすぎない。 コンラートは執務室、主の後ろの壁に寄りかかりながら笑んだ。ひとり、ひそやかに。 背中を屈め、必死に山のようにそびえる書類。一枚、一枚に目を通して頭を抱えている。時折、悩ましげに呻いているからおそらく読めない箇所でもあるのだろう。 「なにか不明な点でもありましたか?」 そっと主の耳に顔を寄せて尋ねれば、「ここがわからない」と文面を指さした。どんな女でもこのような仕草を見せると顔を赤らめるのだが、彼は至って普通で残念な気持ちとともに安心する。これが、主従関係にある境界線なのだと。 「ああ、ここはですね……」 机に常備されている辞書を手に取り、彼に教えていると長兄の視線が自分に向けられる。近すぎると言いたいのだろう。見なくても、グウェンダルの眉間に新たに皺が一本刻まれているのがわかる。 コンラートはそれに気付かぬふりをした。 「なんだ。そう書いてあったんだ。ずいぶん遠回しな書き方してあんのな」 「王に出す書類ですからね。無駄に丁寧な文章をみな作成しまいがちなんですよ」 「ふーん。もっと、フレンドリーでいいのに」 と、口を尖らせる主に思わず苦笑する。グウェンダルはフレンドリーの意味を知らずともそれが親しみやすいさまを表現していることは悟ったのか「それでは、王としての示しがつかないだろう」と呆れたように指摘した。 「……そりゃ、そうなんだけどさ。……っ痛!」 署名を書き終えて、書類を片付けようとした際に、誤って紙で手を切ったのだろう。彼の人差し指のさきから血が滲む。 「これは痛そうだ。治療室へ行きましょう」 「そんな大げさな」 「……大事な書類に血が付いたら、どうするんだ?」 「ハイ、スミマセンデシタ」 グウェンダルの鋭い眼光に恐縮したのか、彼は肩をすくませこちらに助けを求めるように瞳を仰ぐ。彼が自分を信頼、甘えを寄せている証拠だ。決して破壊してはいけないもの。 自分は、主を守るために存在するのだから。 境界線を違えてはいけない。 「……休憩だ。行ってこい」 「グウェンダルの許可も下りましたし、行きましょう。陛下」 傷のある手をとれば、一瞬戸惑うように主の瞳が揺れた。 「どうかしましたか?」 「……いや。なんでも、ない。陛下っていうな、名づけ親」 主は、それだけを言うとコンラートから顔をそむけた。 ああ、そうか。いまは休憩なのだ。彼の望むべき言葉を与えなければいけない。 「つい、癖で。ユーリ」 もう二度と、ユーリの心を傷つけていけない。この尊き漆黒の太陽を陰らせては。 理解している。 けれど、心のなかでそんな自分を嘲笑するもうひとりの自分がいる。『本当のところは違うだろう?』と嗤う自分が。ああ、まったくうるさい。しかし、これこそが真実だ。 コンラートは、回廊の窓に目をやる。暖かな日差し。そこから見える平和な世界。それらをすべて完膚なきまでに破壊したくなる衝動に駆られる。ユーリが守ろうとするものすべてを、破砕させたいと。 ユーリをもう一度、壊してしまいたい。 反逆者として、対立したときのように、自分だけを見るように。ぐちゃぐちゃに。 この性質は死んでも治らないだろう。 ユーリが自分を愛することなど、ありえない。自身のもつ欲望はいつも手に入れたものを不幸にする。 「コンラッド、どうしたの? 外なんて見て」 「いいえ、なんでもないですよ。今日はいい天気ですね」 「うん。あとでキャッチボールしようぜ」 屈託のない無邪気な笑顔。 どんなことをしても、護りたい。自分が死ぬことになっても。 また壊してしまいたい。再起不能になるくらいに。 寄り添う矛盾。 『きみ、死んだほうがいいよ』 猊下の言葉を思い出して、嗤いが込み上げる。 本当に、自分は死んだほうがいいと思う。 「コンラッド?」 「なんでもないです」 こんな想いを、あなたは知らなくていい。 誠に性悪で不誠実な男で申し訳ありません。 thank you:怪奇 |