銀のトレモロ



 執務中、報告が入った。こちらに陛下が帰還するとのこと。少し慌てたように扉を叩いて姿を現したダガスコスにコンラッドは微苦笑を浮かべた。彼がここにくるまでに何人のメイドや兵がこの情報を耳にしたのだろう。迎えに長廊下を歩いていると幸せそうどこからも陛下についての話が風にのってコンラッドの耳に流れこんできた。
 こちらにきた当初は、喜びの声ではなく陛下の美麗な姿にもの珍しそうに見ては、こそこそとあまり彼について良い印象を持っていたものが少なかったものの、いまでは誰もがユーリ陛下の帰還を待ち望んでいる。そう思うと自然に笑みが浮かんでします。
「……誇り高き我等の麗しの王」
 誰に言うでもなくその言葉をコンラッドは呟いた。それから、見れば誰もが思わず魅入ってしまうような、或いは恥ずかしくなるような笑みを浮かべる。
「そして、俺の最も大切な……」
 そこまで言って、コンラッドは自分の口を手で覆った。
 これは自分だけが知っていればいいことだ。甘い単語を口のなかに飴玉のようにゆっくり転がして、足早に歩く。彼に早く会いたい。皆の陛下ではなく、ユーリただ一人の愛しい人間をこの腕に抱きしめたい。
 公私混同もいいところだ。
 蕩けてしまそうな笑みを唾とともに飲み下すと、再び仕事を顔を貼りつけて、コンラッドは、報告を受けた眞王廟に向かうため、愛馬ノーカンティのいる馬屋へと歩を進めた。


* * *


 ――ぱしゃんっ!
 眞王廟の神聖な中庭の泉から水が溢れて双黒の影が映る。今回はこちらからお呼びしていないのだからおそらく魔力のバランスを安定させるため猊下とともに帰還したのだろう。勢いよく水から彼が顔出してそれからまるで子犬のように体全体から滴る水をぷるぷると動かせば、隣にいた猊下が顔を顰めた。
「……うっわ! 渋谷それやめてくれよ、跳ねるだろう!」
「あ、ごめん、ごめんっ!」
「お帰りなさいませ。陛下、猊下」
 用意していたタオルをコンラッドは二人に渡す。それを受け取り二人は泉の外へと出る。
「ただいま、ウェラー卿。お出迎えありがとう。僕はこのまま、部屋に戻るから、君たちはいつもの通り甘甘なやりとりでもすればいいさ。あ、ヨザックがいたら呼んできて」
「わかりました」
 深く頭を下げると猊下は楽しげにコンラッドの横を通り早々にすぎてしまった。その横で残されたユーリは不思議そうに小首を傾げる。
「なんだよ、あまあまなやりとりって」
「そうですね。陛下」
「だーかーらー、何度も言うけど陛下って呼ぶな! 名づけ親っ!」
「すみません、ついくせで。ユーリ」
 自然な動作でコンラッドは愛しい人からタオルと取ると頭を優しく拭く。
 ……きっと猊下が仰っていた甘甘なやりとりというのは先ほどの会話なのだろう。どうしても緩んでしまう顔をタオルで上手くユーリには見せないように隠した。
 一通り髪が渇くとコンラッドは自分の上着をユーリに着せる。気温が暖かいとはいえ、風邪をひいてしまう恐れがある。言えば、ユーリは過保護と笑いそうだが。ノーカンティのいる眞王廟の外まで彼を誘導しているとコンラッドはユーリの動きに違和感を覚えた。
「……ユーリ、足どうしたんですか?」
 さきほどまで、笑顔で野球の話や地球であった出来事を話していたユーリの顔がぴくりと強張る。目に見える動揺にコンラッドはもう一度問い詰めるように「その左足どうしたのですか」と口にした。
「ユーリ?」
「……うう、あんたってやっぱりお見通しなんだな」
 ふに、と唇を尖らせてユーリはコンラッドを見る。怒られた幼い子供のようだ。その顔をみると一瞬顰めていた顔も、愛らしさに頬が緩んでしまいそうになるがそれでも自分のいないところで怪我をさせられるのは辛い。
 心を鬼にして眉根を一層を深くすると、ユーリは小さく「黙っていてごめんなさい」それから、もじもじしながら「ここから出たらちゃんと言うよ」と言った。情けない話なんだと言うユーリはしばし眞王廟の巫女さんをちらちらみるとやはり思春期の男の子なんだな、と恥ずかしがる王をコンラッドはふっと息をついた。


 
「……それで、どうして怪我をなさったのですか?」
「うー……やっぱ言わなきゃだめ?」
「約束でしょう」
 言えば、正義感の強いユーリは喉元で唸る。やはり『約束』という言葉には弱いらしい。小さな声で「こっちに来る前はできそうだったのにいざとなったら恥ずかしいものがあるなあ……」と呟く。
「できそうって一体なんの話ですか?」
「あ、いやいやこっちの話っ! ……そうだよな、約束したんだから、ちゃんと話すよ。だけど、絶対笑うなよ。本当に恥ずかしいんだから」
 約束だぞっ! と釘を刺すユーリがすでに可愛らしくて笑みが浮かんでしまいそうになるのをなんとか耐えて、コンラッドは「了解しました」と頷いた。ここで機嫌を損ねてしまうと拗ねてなにも話してくれないかもしれない。
「こっちだと、おれが地球帰ってどれぐらい?」
「そうですね、二週間ほどです」
「やっぱそうだよなあ、こっちじゃそれぐらいしか経ってないんだよな……」
 言って、ユーリは少しやるせない顔をして話を続ける。
「……地球だとさ、もう二か月は経ってるんだよ。もうさー自分の思考回路乙女なんかじゃないかってぐらいずっとあんたのばっか考えてて。すぐ行けるって言えば行けるけど、おれも村田もそれなり色々あるしさ、行けなくて……気持ちに整理つけようと思ったんだけど、おれ馬鹿だからさ、そんなのできなくて、体育の授業心ここにあらずって感じでやってたら、バスケの授業はオウンゴールは決めたり、足挫いちゃったり……っだから笑うなって!」
「笑ってませんよ」
「うそだ、おれにはわかるんだからな!」
 真っ赤な顔して怒るユーリが愛しくてとうとうコンラッドは我慢しきれずに笑い声をたてた。まさか、怪我をした理由が自分を考えて、なんて。嬉しくて笑みがこぼれても仕方がないではないか。案の定、ユーリはコンラッドをねめつけた。「そう拗ねないでください」と言えば胸板を叩かれる。
「もー、だから嫌だったんだよ。話すの」
「怪我したあなたが悪いんですよ」
「うっさい! コンラッド、約束破った罰だ。ちょっと屈め!」
 人差し指をこちらに向け、唇とがらせるユーリにコンラッドは素直に従う。頭でも叩かれるのだろうか。少し体を屈めたまま、自分のほうへ招き寄せるよう手をひらひらさせるユーリのほうへ近づくと気を抜いたせいでもあるがいきなり軍服の襟元を掴まれ、次の瞬間には。
「……っ!」
「二か月ほどあんたが足りなかったんだっ! おれのせいじゃないんだからなっ!」
 ちょっと勢いのついたキスをされた。
 ユーリの頬の赤味が自分に移ったようだ。ああ、もう何十年と生きてきて相手の行動につられるように頬を染めるなんて、まるで自分は思春期の少年でもあるまいし。情けない顔を覆うタイミングを見失ってところにユーリと目が合うと彼はとても楽しそうに笑った。
「いまのあんた、きっとおれと同じ顔してんだな」
 本当は言いたいことがたくさんあった。怪我しないでください、血盟城に帰ったらギーゼラに見てもらい部屋で安精にしていてくださいとか。色々、怒るまでとはいかないものの注意をしようと思っていたのだ。
 けれど、こんな可愛いことをされてそんなことを言えるほど自分はできた男ではないから理性よりも先に本能的に彼を抱きしめていた。
「ああ、本当に可愛くて困るんですが、どうしてくれるんです?」
「そう思うのはモノ好きなあんたくらいだよ。なあ、おれがこっちに呼び出しできてないってことはそんなに仕事溜まってないんだろ?」
「まあ、そうですね」
「じゃあ、いいアイディアがあるんだけど……」
 ユーリよりコンラッドに体を密着させて耳元で囁く。二週間と会えなかった体が熱っぽいような声音に背中がぞくぞく快楽を含んだ刺激が走ったのがわかる。
「ヒルドヤードで二泊三日の二人旅行いいですね。グウェンダルには俺から伝えておきます。とりあえず、一度血盟城に戻って、足を見てもらってから荷物をまとめましょう」
「やったね!」
「あ、それから俺からも……」
 今度は自分から口付けをする。優しくそれでいて、少し刺激のあるキスを。たっぷり愛しさを込めて。
「二か月あなたが会えなかった寂しさを俺が責任もって埋めます」
 言えば、ユーリはさらに頬を赤く染めながらも小さく頷いた。

END

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