umbrella |
「うわー……」 収録が終わり、先輩方を見送ったおれは途方にくれた。スタジオの窓から外を見れば、ザアザアと雨が降っている。窓を叩く雨の音と降水量から見て、これは本降りだろう。 「今日は降水量ゼロだって言ってたのに……」 季節は秋になった。昼間は暖かいが夜になると頬に触れる風は冷たくて、雨が降っているともなれば一層気温は低下する。今日の仕事は深夜に終わるということは知っていたので、重ね着ぎをしてきたから大丈夫だろうと思っていたけど、ばかなおれは今日に限ってカバンに常備している折り畳み傘を抜いてきてしまったのだ。 「さむ……っ」 収録をしていた部屋出てエントランスへ向かうと暖房はついているもののそれでも秋の寒さがある。 今日はコンラッドの家に泊まる予定で、できるだけ荷物を減らして行こうと考え、明日の着替えと台本だけで平気だろうと考えたのが甘かった。 傘を買おうにも、ここから一番近いコンビニは最近他の場所に移転してしまった。ずぶ濡れで彼の家に向かうのはきっと迷惑だろうし、なにより風邪を引いて喉を痛めたら、それこそ仕事に支障をきたす。 おれは考えた末、一度自宅に帰ることにした。ここからコンラッドの家に向かうより、自宅のほうが近い。いったん、戻って冷えたからだを温めてから彼の家へと向かおう。 「そうと決まれば、まずはコンラッドに連絡しなきゃな」 呟いて、おれはズボンのポケットから携帯電話を取り出して、小さくため息をついた。 ダッシュで帰って、手早く身支度をすませたとしてもコンラッドの家に到着するのは深夜一時を過ぎるころになるだろう。 ……そんなに遅くなるなら、もうお泊まりはあきらめたほうがいいのかもしれない。 携帯電話のディスプレイに『コンラート・ウェラー』と表示された名前を見つめ、思い悩む。 付き合う以前よりはずっと会う時間は増えたとは思う。けれど、互いに仕事に追われているから会ったとしても一日中一緒にいるというのは滅多になくて。そうして会うたびに名残り惜しい気持ちが増えていく。 だから本当だったら会いたい。お泊まりしてたくさんはなしがしたい。 ……でも、そんなのは恋愛初心者なおれのわがままだ。 おれよりもずっと忙しい彼のことを考えれば、やはり今日は家に帰り、改めて明日あったほうがいいのだと思う。 今日だって約束していた時間はとっくに過ぎていて、その連絡のメールをを入れるのさえ、約束の時間が過ぎてからだ。本当だったら、一緒にどこかのお店で外食しようと計画だって立てていたのに。 連絡したとき、コンラッドは「大丈夫ですよ。お仕事がんばってくださいね」と返信してくれた。そんなやさしい彼にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。 おれは意を決意して、発信ボタンを押す。 あ、でもどうやって切りだそう。 「はい」 「え、あっ、コ、コンラッド」 そう考える間もなくまだワンコールも鳴り終わってもいないのに、すぐに通話になっておれは思わず声が上擦る。 「いま仕事が終わったんですか?」 「う、うん。……ごめん、連絡するのが遅くなって」 「謝らないでください。仕事が長引いてしまったのはあなたのせいではないんですから。しかたのないことですよ」 約束の時間はとっくに破っているのにコンラッドは「今日もおつかれさま」と労いのことばをかけてくれた。受話器越しに聞く彼の声音はすごくやさしくておれは情けなくも鼻の奥がツンとしてしまう。 ……ずっと、コンラッドはおれのこと待っててくれたんだ。 じゃなきゃ、電話をすぐ出てくれるわけがない。 そう思うと余計に心苦しくなる。 やっぱり、コンラッドに会いたい。そう思うも、次第に雨脚は強くなるばかりで、おれは長く息を吐いてどうにか揺らぐ心を落ち着かせた。 「あのさ、コンラッド。おれ……今日、コンラッドの家に行けない」 「どうして?」 まさかおれがそんなことを言うとは思わなかったのか、わずかに彼が驚いたように問う。 「だって、もう夜も遅いし……いまから行っても本当にただ寝るだけになるだろ?」 それじゃほんとうにおれはおじゃまになるだけだ。言うと、すこし間があったあとコンラッドはおれの名を呼ぶ。悲しそうに。 「ユーリ、そんな悲しいことを言わないで。俺は迷惑だなんて思っていないんですから。寝るだけでもいいんです。あなたとすこしでもいいから長く一緒にいたいだけなんです。……そう思っているのは俺だけですか?」 「そんなことないっ!」 コンラッドのセリフにおれは自分でも驚くほど否定の声をあげ、ここがまだ施設内ことを思い出して、すぐさま声のボリュームをさげて辺りを見渡す。……よかった、だれもいない。 「……おれだって、会いたい、よ」 「なら、問題ないじゃないですか」 「そうだけど、おれ、今日傘を忘れちゃって……」 問題はそれだけではないことをおれはコンラッドに説明する。それから、そうなればコンラッドの家に向かうのがまた遅くなることも。 「こういうわけだから、早くても三十分以上はかかると思うんだ。……それでも、いいの?」 いまは二十三時半過ぎ。だからどんな急いでも日を跨いでしまうことになる。それを遠まわしに告げると向こう側でくすり、と笑う声が聴こえた。 「……コンラッド?」 なにを笑ってるの、と問うよりもさきに彼は「まだ、エントランスにいるんですか?」と尋ね「そうだけど」と答えればさらに楽しそうな声音ではなしを続ける。 「ユーリ、外に出てください」 「あ、うん」 もしかしたら、雨が止んでるのか。言われたとおりにおれはエントランスを出てみると、雨は気持ち弱まっているように思えたがそれでも傘がなければずぶ濡れになる雨が降り続いている。 「……出てみたけど、まだ雨降ってるよ?」 彼はなにを言いたかったのか。わからず聞き返せば「そうですね」と笑い声を含んだ返事が返ってきた。――今度は受話器越しではなく、クリアに。 「……え、」 「一緒に帰りましょう」 びっくりして振り返れば、壁に寄り掛かっているコンラッドの姿があった。 「お疲れさま」 戸惑うおれをよそにコンラッドは通話を切り、ジャケットのポケットにしまいながら彼はこちらに近づいてきた。 なんで、とちいさく呟けば目元を細めて彼は平然と答えた。 「もちろん、あなたを迎えに。……さ、行きましょうか」 そうしてなにも言えないままのおれを手を引いて彼はさしている傘のなかに招き入れる。 「相合傘って夢だったんです」 どれぐらい待ってたのなんて、聞けるわけがない。おれの手に触れたコンラッドの手はとても冷えていて、長い間待っていたことはすぐにわかった。本来のおれだったらきっと恥ずかしくて相合傘なんて無理だと拒否していただろう咎めることばも出てこない。 会いたいと思っていたのがおれだけじゃなく、彼もほんとうに会いたかったのだと実感できたそれがすごくうれしくて、男のくせにまるで少女漫画の主人公のようにおれはいまきゅんとしてしまっているから。 付き合うようになってまだ半年も経っていないのに、どんどん彼が好きでどうしようもなくなる。 恋愛初心者でも、わかる。ここで彼に向けることばは「ごめんなさい」じゃないこと。 おれは、傘の柄を持つコンラッドの手におずおずと自分の手を重ねる。触れた彼の手はやっぱり冷たかった。 「ユーリ?」 普段はあまり恋人らしいことが恥ずかしくてできないのをコンラッドは知っている。とくにひとがいるかもしれない環境ではしない。 困惑した声色のコンラッドが普段より幼くみえておれは思わず笑ってしまう。 「コンラッドの手、冷たい。……迎えにきてくれてありがとう」 小さくて雨音にかき消されてしまいそうな声の大きさに彼に聞こえているかどうか、やや不安だったものの、ちゃんとコンラッドには聞こえていたらしい。 恥ずかしくてコンラッドの表情を伺い知ることはできなかったが、それでも彼がうれしそうにほほ笑んでくれたのがおれにはわかった。 「ユーリの手はあたたかいですね」 これ以上はもう甘いことばなんて言えないけど、そのかわりに手を重ねてきゅっとすこし強く彼の手を握る。言えないぶん、触れる体温からどうか自分の気持ちが伝わりますようにと。 ……それと相合傘、実は自分も憧れだったことも、秘密にしておこう。 END - - - - - - - - - - 遅咲きの青春を堪能中のふたり |