『いらっしゃい、美術室へ』
 少し大きめな白衣とさらりと揺れる漆黒の髪。そしてやわらかくこちらに向けられた瞳と、青いキャンパス。
 それらがコンラートを一瞬に魅了した。
 とくん、と高く跳ねた鼓動。
 切なさと愛おしさが自分の胸のなかで生まれた瞬間をはじめて感じた。あれはきっと『初恋』で『一目ぼれ』というものだったのだろう。
 あのときの衝動はいまのこの胸に焼き付いて離れない。

 ――開け放たれた窓からは終始、夏の象徴ともいえるセミが鳴き続けている。そしてかすかに室内には扇風機から羽音。
 雑音があふれて、けっして静かだとはいえないのになぜ夏休み校舎にひとけがないというだけで静寂だと感じてしまうんだろう。
 コンラートはキャンバスに視線を向ける青年を斜め後ろ側から見ながら物思いにふけるが、相変わらず彼は気づかない。
 彼は夏場、日焼け止めを億劫で塗らないらしい。もちろん日傘もつかないようなので外出を繰り返せば必然と彼の肌は日に焼ける。けれど、襟元まで伸びた髪はうなじを焼かないのだろう。キャンバスに集中してやや猫背になった彼のうなじは日中の光の反射もあってか白く、透きとおってみえた。
 校舎全体が日陰になっているので、外よりは幾分快適な教室ではあるが、涼しいとはいえない気温。彼のうなじにはうっすら汗がにじんでいて、それがやけにコンラートの目に艶めかしくに映る。
「――……」
「ん、コンラッドなにか言った?」
 こちらを振り向くこともせずに彼が言う。
「ええ。ユーリはきれいだな、と」
「……は?」
「かわいいなって」
「カワイクネーヨ」
 怪訝そうな表情でようやくユーリは振り返った。平均的男性よりもやや大きな目元と色づいた唇は年齢よりおさなくみえる。そんなことを言えば、彼は起るのが目に見えているのであえてコンラートは口をつぐむ。
「へんなこと言ってないで、さっさとコンラートも絵を描けよ」
「へんなことって……ひどいなあ」
 本当のことなのに。ユーリは毎回言うたび顔を顰める。
 この先輩は知らないのだ。自分にどれだけの魅力があるのかを。だから、そんなことを言う。
 大学で秀でて注目されるひとではないものの、ふとした瞬間、目で追ってしまうような魅力が彼にはある。例えるならそれはふわり、とすれ違いで香るどこのメーカーかもわからない、でもいい香り。香水のような、そんな雰囲気が漂うようになったのはたぶん、付き合うようになってからではないかと思う。
 ユーリは気づいていないだろうけれど、同学年の男女問わず時折ユーリのことを話しているのを耳にする。ユーリは定期的に大会とはべつに大学にある図書館の一角に絵を献上している。四季によって掲げられる絵のしたには彼の名前があり、それを目にするひとが言うのだ。
『これって三年生の渋谷先輩の絵だよね。キレイだよね』
『絵っていうとすぐに女子がイメージされちゃうけどさ、男の人が描くっていうの聞くとなんか知的っていうか、格好いい』
『わかるかも。実際、渋谷先輩もイケメンだしね。格好いいっていうかどちらかというとかわいい系な感じ』
『でも最近、渋谷先輩って色っぽいイメージない? 噂では彼女いるらしいよ』
 大学内では付き合っていることを隠している。言ってもいいのだけれど、同性愛が認められていない日本でそんなことを言えば彼の将来に関わる。
 ユーリを手放すつもりはないが、それでも自分のせいで彼の夢を壊したくはない。ユーリはこの夏が終われば就職に向けて本格的に就職活動に専念するだろう。もし、付き合っていることがばれてそれが内申書などに響くことにでもなれば自分は自分を許せなくなる。
 とはいえ、ユーリの噂を耳にするたび優越感と同時に嫉妬を覚えてしまう。
 ――ユーリと付き合っているのは俺だ。
 と言ってしまいたくなる。とくに男子生徒の下品な話にユーリが話題にあげられるとその口を塞いでやりたくなってしまう。
 ユーリは、そんな器の小さい自分を知らない。
 こんなに執着心を持っていることを知らない。
 口唇をとがらせていたユーリが再びこちらに背を向けると、コンラートはそっと椅子から立ち上がりユーリをうしろから抱き締めた。
「なにすんだよ。びっくりしただ……ぅわ!」
 うなじに口唇を押しつけ、べろり、と舐めあげればユーリのからだがびくり、とはねた。
「……しょっぱいですね」
「そりゃ、この部屋涼しくねえもん! ってか舐めんな! 離れろ!」
 まさかこんなことをされるとは予想もしていなかったのだろう。ユーリのうなじを舐めあげ、しょっぱいと感想を漏らせば耳朶を真っ赤にして暴れだす。が、コンラートは拘束の手を緩めようとはしなかった。
「いやです」
「ど、どうしたんだよ、コンラッド!」
 どうしたのか、そんなの自分が知りたかった。
 付き合いだせば気持ちも穏やかになっていくものだと思っていたのに、日が経てば経つほど愛おしくなって、胸がせつなさをましていくのだ。
「ユーリ……」
 名を呼ぶ声はたしかに自分のものなのに、自分の声じゃないみたいだ。まるで、かまってもらえない犬みたいだ。
「コンラッド、犬みたいだ」
 ユーリも同じことを思ったようで、呆れたように呟いた。
「……あなたの犬だったら、それでもいいかな」
 犬だと言われて本来なら怒るところなのだろうが、彼の犬なら、もっと愛されるのならそうなってもいいと思う自分がいる。
「ったく、ほんとにどうしちゃったんだよ。コンラッド……」
 なぜだろう。夏は――夏休みは、騒がしいはずなのに、ふとした瞬間とても静かで、寂しい気持ちになる。夜空を彩る花火のあとみたいな感覚が胸に生まれるのだ。
「さあ、自分でもわかりません。でも、ユーリからキスしてくれたらなおるかも」
「ばかなこと言ってんなよ」
 わかっている。自分もバカなことを言っていることくらい。それでも、この突然生まれた寂しさを消すことができないでいる。
 ユーリは男気があってシャイで、彼からキスしてくれたのなんてベッドで抱き合って理性が飛んでいたときの数回だ。してくれないとはわかっていても、これ以上情けない自分を見せたくはなくて、コンラートはわざとそうって茶化してみせた――が。
「……っ! ユーリ、」
 羽交い締めしていた右腕を掴み、その手にちゅ、と小さく音をたてるキスをした。
 それだけで、鼓動がひとつ高く跳ねあがる。
「……あと、一時間だけまって。学校だけはまじ、む、むりだから」
 キスをした手のひらを己の頬に滑らせて、囁くような音量でユーリが呟いた。
「はい、わかりました。まってます」
「あんたもちゃんと描けよ。そのスケッチブック夏休み中に全部埋めてなかったら怒るからな」
「はい」
 手渡されたスケッチブックは美術部に入ってから初めて出された課題。もちろん、見せる相手は部長であるユーリただひとり。
「ほんとに描いてんの?」
「ええ。描いてますよ。楽しみにしていてくださいね
。俺は、一時間後を楽しみにしていますから」
「……楽しみにせんでいい!」
 ユーリはまだ知らない。スケッチブックに描かれた絵はすべて愛しい美術部部長兼恋人で埋まることを。
 コンラートは夏休み明けに手渡す瞬間を想像して、くすり、と笑う。
 ……きっと、ユーリは顔を真っ赤にして怒るのだろう。そのときはこの真っ赤になった耳朶だけじゃなくかわいい顔もしっかり正面からみなければ。
 夏休み明けといまから一時間後のことを想像する。
 自分がこんなに単純な男だとはしらなかった。
 手のひらにキスをされるだけで、すこしユーリと話しただけで、寂しさも手当たり次第に向けていた嫉妬も不快感もすべて晴れてしまう。
 コンラートはユーリのつむじにキスをひとつ落としてさきほどまで座っていた椅子へと向かう。描きかけのスケッチブックの絵の続きをするために。
「……ったく、かわいいのはあんただっつーの」
「ユーリ、いまなにか言いました?」
「いや、なんでも。ほら、さっさと戻って絵ぇ描け」



とどのつまりはそういうことです

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