secondLove?2



 女性は初めて処女を捧げた男を、もしくは初体験のことを覚えているらしい。
 それが事実であるかは定かでははないが、自分も同じように覚えていることがある。
 それは遠藤をオカズに初めて自慰をした日のこと。大学一年生になっても未だに忘れられないでいる。
 あれは中学校二年の夏休みだった。何月何日とそこまで記憶にないが、その日どのような経緯えお経て好意にいたったのかは、覚えている。
 自分は文系が得意で、遠藤は理系が得意。お互いの得意不得意が正反対であることを利用して夏休みの宿題を消化してしてしまおうと考え、あの日は遠藤を自宅へ招いて勉強会を開いたのだ。
 ――その日は午前中から部屋で勉強をしたり、集中力が切れたらどちらともなくおしゃべりをしてだらだらと過ごしていた。そうして、時間は過ぎて昼飯はキッチンの棚にストックしてあったそうめんを増田が茹でて二人で食べた。
「増田の作るそうめんはうまい」とか「いいお嫁さんになるぞ」とかただそうめんを茹でただけなのに、遠藤は自分をすごく褒めてくれたのを覚えている。「こんなの料理のうちに入らない」と言っても遠藤からすればすごいことだったのだろう。遠藤はまったくと言って料理をしないからだ。「お腹が減った」と呟けば誰かしら菓子や飯を奢ってくれていたから料理をできなくても仕方ないのかもしれない。「うまい、うまい」とちょっと多めに茹でてしまったそうめんを自分の分まできれいに平らげた。
 空腹が満たされ、腹いっぱいになればつぎに訪れるのは睡魔。
 案の定、満腹中枢を刺激された遠藤は「眠い」とぼやいて増田の自室でごろり、と横になった。
「食べてすぐに寝ると牛になるぞ」
 呆れながら注意したが、遠藤は聞く耳など持たず勉強中、尻にひいていたクッションをまくら代わりにしてあくびをする。
「食べたあとに十五分から三十分くらい仮眠したほうが集中力高まるらしいぜ。テレビでやってた」
 すでに半分意識が飛んでいるのか、最後のほうは呂律がまわっていない。そんな遠藤の姿に呆れはしたものの、飯を食ってすぐに勉強することなく起きていてもおしゃべりをしていただろう。増田は遠藤が寝ている間にキッチンへ向かい後片付けを済ませることにし、洗いものが済んで戻ってみれば仮眠ではなく本格的に昼寝をしている遠藤の姿があった。
「遠藤、遠藤ってば。もう十五分は過ぎてるぞ」
 熟睡モードに入った遠藤はこうなるとちょっとやそっとじゃ起きることがない。一応、寝息を立てる遠藤の肩を揺ってみたがやはり起きる気配はない。遠藤は肩を揺すられやや眉根を顰めて寝返りを打った。
「んー……」
 寝がえりを打った遠藤に増田はからだを硬直させる。遠藤が突然寝返りを打ったことに驚いたわけではない。その拍子に見えた遠藤の首筋に一点の赤いものにたいしてだ。
 キスマークだ。
 遠藤に可愛い彼女がいるのは知っている。たまに彼が彼女とどこか遠出に出かけると言ってその土産をもらったこともあるし、三人でご飯を食べに出かけたこともある。もう小学生ではないのだから、恋人といえば手を握ったり、デートをするだけではないことは知っていたが、こうして赤い痕を目にすると言い知れぬ思いが湧きあがってくる。
 裏切られたような、絶望したようなそんな気分に。
 二人の関係がどこまで進んでいるかはわからない。ただ、いまわかるということは自分が泣いているという事実だけだ。
「……えんちゃん」
 濡れる頬を袖で拭い、もう一度声をかける。今度はつんつんと遠藤の頬を指で突いた。起こすのはではなく、本当に熟睡しているかどうかたしかめるために。
「えんちゃん、ごめんな……」
 増田は頬を突いて人差し指を滑らすように動かして、唇、首筋、そして鎖骨についたキスマークをなぞった。
「……だけど、えんちゃんも悪いんだよ」
 言って、いや、遠藤は悪くないとわかっている。自分が悪い。責任転嫁をして自分が行う行為を正当化したいだけだ。
「やさしい、えんちゃんが悪い」
 遠藤は悪くない。
 でも、遠藤が悪い。人付き合いが悪くて、言いたいことが口にできない自分の手をいつも引っ張ってくれて『それでいい』と誰より自分を甘やかしてくれた遠藤が悪い。こんなにやさしくて格好いい男がいつも傍にいて――好きにならないわけがないじゃないか。
「……好きだよ、えんちゃん」
 本人には絶対に言えない、言わないと決めていたこの気持ち。どうかいまだけは告げることを許してほしい。
 遠藤はノーマルで、自分はゲイ。絶対に遠藤は自分のことを好きにならない。このキスマークがなによりの証拠。
 そっと鎖骨にあるキスマークに口唇をそっと押しつけわずかに吸ってみる。弱く吸ったので痕に残るわけがないが、錯覚かさきほどよりキスマークが濃い色に変化したように見えた。
 増田はゆっくり遠藤の近くに座り足を開いて下半身――陰部へと手をのばした。そこは布越しでもわかるほどに熱を帯びている。熱を帯びた陰部を緩く手のひらで撫でつけながら想像する。
 普段、自分の手を握る遠藤の手が彼女の肢体にどのように触れていたのか。
 明るいトーンで冗談ばかりを口にする遠藤は彼女とふたりきりのときどんな愛の言葉を囁くのか。彼女を抱きながらどのようないやらしいセリフを耳元で囁いているのか。
 遠藤の彼女に自分を投影しながら撫でつけていた陰部はそのうちに下着だけではなくズボンを押し上げるほどに肥大していくものを慰める。快感からくる荒い息や喘ぎ声を殺しながらズボンと下着をわずかに引き降ろして直に愛撫を施したものに触れてみれば陰茎は完全に勃起をしていた。陰茎の先端からは情けないほど先走りをこぼして与えられた性的快感に喜んでいた。愛撫をすれば正常とも言える反応に笑いたくなった。そして思い知らされる。
 どんなにたかぶっても、自分で慰めることしかできない。自分の目の前にいる男が同じように勃起をし、自慰をすることがあってもそのとき彼が想像するのは自分ではないことを。
 冷え切っていく気持ちとは裏腹に遠藤に欲情をしている己の陰茎をひたすら愛撫して――増田は虚しい熱を吐きだした。ずっと遠藤を見つめながら自慰をした手のひらは罪悪感で濡れていた。

「――……しょっぱい」
 なんてしょっぱい思い出なのか。忘れたいのにいまだに覚えている自分の記憶力が忌々しい。
「ん? そのサケの塩焼きそんなにしょっぱいの?」
 心のなかで呟いたつもりだったのだが、どうやらため息とともにこぼれおちていたらしい。問われ、増田は我にかえった。
「あ、うん。ちょっと塩まぶしすぎたみたい」
 言うと、声をかけた友人――安本は「どれどれ」と増田の弁当に箸をのばして食べかけのサケの塩焼きを一口摘まんだ。
「僕はいい塩梅だと思うけど。食べないんならそのサケもらっていい?」
「どうぞ」
 ふと思いだした思春期のしょっぱすぎる思い出にすっかり食欲は失せてしまった。
「オレもう腹いっぱいだからなんなら、オレの弁当食べるか?」
 言って弁当箱を安本の前にスライドさせると安本はぱっと目を輝かせて「それじゃあ、お言葉に甘えて!」と弁当を受け取り、嬉しそうにおかずを頬張りはじめた。
「……うまそうに食べるよな」
「だっておいしいもん! 増田の弁当って彩りもいいし、いままで何回かつまみ食いしたけどそのたびにうまいなって惚れぼれしてたし」
 きれいな顔立ちをしているのに、これぞ男、と思わず言ってしまいたくなるような豪快な食べっぷりに増田は苦笑する。
 安本英二(やすもとえいじ)とは、大学で知り合った。一学期のまだ新たな環境に慣れないなかでの講義のなか遅れて教室に入り、自分の隣に安本が座ったのがきっかけだった。淡い桃色がかった髪色は奇抜で多くの人が安本を見る。日本人には合わないだろうはずのその髪色は不思議なことに安本にとても似合っている。それは安本の顔立ちが整っているからだろう。決して女の子に見えるわけではないのに、愛くるしさときれいを兼ね備えた安本は現在アルバイトと言って読者モデルとしても活動している。性格も明るく、気さくで男女問わず安本は好意を寄せられてもいる。
 もちろん、増田も安本を好いているし大学内ではいちばん行動を共にしている仲だ。けれど時折、そんな安本といる自分が嫌になるときもある。
 増田はちらり、と食堂内を見渡して目にしたものにさらに気分を降下させた。ちらほらとこちらの様子を窺っている生徒の目がこちらに注がれているのだ。見てはこそこそと何か話している。何か、なんて考えずとも増田には検討がおおよそついていた。おそらくは人気者である安本の隣に平凡な顔をした自分のことで影口を叩いているのだろう。こんなこと思うのは自意識過剰だと言われそうだが実際、中高で遠藤とふたりでいる際、ああして会話している人たちに聞き耳を立てればいまこうして自分が感じていた感想を述べていた。
 ……もうこれ以上格好悪く惨めな過去を思い出したくはない。
 そう思い、増田はこの場を立ち去ろうと考えたが、自分の弁当箱はいま安本の手にあるのを思い出して立ち上がろうとして引いた椅子をもとに戻してそっとまたため息を吐いた。
「増田、気分でも悪いの?」
「いや……べつに」
「さっきからため息ばっかり吐いてるけど、そんなにためいきを吐いてるとしあわせがにげちゃうぞ」
 だからため息を吐いちゃだめだぞ! と、行儀悪く箸のさきをこちらに向ける安本に「ひとに箸先を向けるのもだめだからな」と増田は窘める。
「……安本はオレと一緒にいて気分悪くないわけ?」
「は、なんで?」
「だってお前って顔面偏差値高いじゃん。オレみたいな平凡な顔をしている奴といると趣味が悪いって言われるぞ」
 と、そう口にしてから増田はトゲのある言い方をしてしまったな、と後悔する。勝手にむかしのことを思い出して、その苛立ちを安本にぶつけてしまうなんて八つ当たりもいいとこだ。しかし安本は増田の失言に気づいていないのかきょとんと小首をかしげて「増田こそ何言ってんの。増田も顔面偏差値高いじゃん」とさらり爆弾を投下した。
「……はあ?」
「増田って美人系だよね。こそこそああしてこっちを見て話してるのも僕らがキラキラしてて近づけないんだよ。っていうか僕が居心地いいから増田と一緒にいるんだよ」
 内緒話なんて気にしてたらキリないし、ああいうのはほっとけばいいんだよ。と安本は言い、空になった弁当箱をこちらに差し出す。
「飯、めっちゃうまかった! ごちそうさま! ……あ、弁当箱は洗って返したほうがいいよね」
「いや、いいよ。それに安本は持ち帰ったら、そのまま弁当箱持ってくるの忘れそうだし」
 なんだよそれ、と口唇を尖らせて反論する安本から増田は弁当箱を受け取ると保冷バックにしまう。
「あー僕も増田とルームシェアしたーい! こんな美味しい飯を作ってくれる増田とルームシェアしてる奴が心底うらやましいよ」
 お世辞ではなく、素直にそんなことを言ってくれる安本に増田はツキン、と胸の奥が痛むのを感じた。
「……オレの飯が毎日食えるとしたら、安本はまっすぐ家にに帰ってくるの?」
 よせばいいのに、と心のなかの自分が冗談を口にした自分を咎めた。
「帰る、帰る! 遊びにも行かずにまっすぐに家に帰っちゃうよ!」
「そう……」
「え? もしかして、ルームシェアしてくれるか検討してくれるわけ?」
 バカだ。こうして自分を傷つけているのが、心底愚かだと思う。
「まさか。冗談だよ、冗談。っていうかオレ、レポート提出してくるから先に行くわ」
 聞きたかった言葉を――本当は遠藤から聞きたいと思っている言葉を安本に言わせて自分を傷つけるなんて。自分の性格の悪さに吐き気がする。そして、失恋相手とルームシェアをしている自分の未練がましさに。
 ……夏休み。好きな相手を目の前にしながらした初めての自慰。あの夏の午後の部屋から未だに自分は抜け出せないでいる。

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