今僕はここにいて | ナノ

『大切なモノは目にはみえない』
 と、どこかで聞いた。自分もそうだと思っていた。
 愛とか友情。希望。将来。どれもこれも大切でどれも目に見えやしない。
 だけど、いま気がついたことがある。
『目に見えたからこそ、大切なモノだってある』ということを。
 有利は静かに瞼を閉じて、大切なモノを思い出す。
 たとえば、普段からは想像できないような子どもっぽい拗ねた表情。照れて、口元を覆ったあとのかわいい笑顔。それから、困ったように眉根をさげて大型犬のようにしょげたかお。彼の得意とするポーカーフェイスがくずれるのを見るのが好きだった。それらが、脳裏でたくさんぐるぐる浮かんでは消えていく。
 ぜんぶ、見えていた大切なものだった。
 しあわせは、いつもどこにでも溢れている。ただそれがあたりまえになっていて自分はきっとそのしあわせに気がつくことができなかったのだ。
 彼のことはバッテリーで、彼のかおなんて見なくてもわかっていた。
 けれど、いまさら思う。
 わかっていても見ておけばよかった。もう後悔することしかできないけれど、有利は痛切に思う。
 目が見えなくなるなら、焼きつけるほど見ておけばよかったと。
 暗闇が永遠に続くと錯覚しそうなほど、暗くて、ヨザックが自分を助けるために消えた絶望だらけの洞穴から手を差し伸べてくれた彼のは――コンラッドだった。ようやく、彼に出会えた。触れることができた、のに。
「……ユーリ、寝ているんですか?」
 尋ねられて、有利はどうしようか、迷う。
 起きている。けど、起きているからと言ってコンラッドとなにをはなしていいのかわからない。
 焚き火にくべた木々がパチパチと音を立て、びゅうびゅうと吹き荒れる風の音が聞こえる。
 有利はすこしかんがえて、寝たふりをした。
 なんにもわかっていなかったのだと思う。自分もコンラッドもなんでもわかるなんて言ったけれど、なにもわかってはいなかったのだ。
 コンラッドがどうしてシマロンへ行ったのか、わからなかったし、コンラッドはなぜいま自分が寝たふりをしているのかわからない。
 もしかしたら、自分が寝ているふりさえ気がついていなのかもしれない。
 でなければ、こうして敵である彼が自分を寒さからまもるように背中から抱きしめたりはしないだろうから。
「ユーリ、ユーリ……」
 ちいさくちいさく名を呼ばれる。名前のあとにただ『陛下』がつかないだけでどうして自分はこんなに胸が騒いでしまうのだろう。
 肩越し、布越しに伝わる体温と重さ。ずっと待ち望んだひとがいまここにいる。彼はおそらく泣きそうなかおをしているのだろう。もしかしたら、目尻には涙が浮かんでいるかもしれない。
 以前彼の放ったことばを思い出す。コンラッドにとって自分は『理想の王様』ではなかったのだろう。だからこそ、刃を向けられた。もしかしたら出会ったから幻滅されつづけられていたのかもしれない。
 そう、コンラッドが離れてからは考えていたけれど、いまはどうでもよくなった。
 コンラッドがなにを考えているか、わからない。理解をしたところで彼がふたたび、自分のとなりにいてくれるかなんてわからない。
 だけど、もういい。
 ヨザックを助けられなかった自分をコンラッドは、抱き締めて太陽の匂いのする胸のなかで泣かせてくれた。こうしていま、名前を呼んでくれ、抱き締めてくれる。その事実があれば、もう彼がとなりにいなくても歩いていけるような気がするのだ。
 ただの強がりなのかもしれないが、絶望して立ち止まるだけより強がりでも歩けるほうがいい。
 でも、やはりさびしいと思う。
 有利は抱きすくめる男に気づかれぬよううっすら瞼をあけた。
 見えるのは、白く濁る世界。ぼんやりと焚き火の炎が揺らめき、それを囲む人影が見える。でも、だれがだれだかわからない。
 これは罪だ。
 だれも彼も、自分の責任ではないというが、どれもこれも自分の責任。
 責任として、目を奪われただけのはなし。
 役に立たない目を奪われただけの。
 その罰は、あまんじて、受けなければならない。
 受け入れる――けど。
 悔しさ、悲しさも、後悔もしている。
 いま肩越しにある彼の眼尻を迷わず手を伸ばせないのが悔しい。彼は、迷うことなく腕で泣かせてくれたのに、自分にはそれができないことが悲しい。
 もう、彼のかおを想像することができない。
 もっと、もっと、かおを見ておけばよかった。
 目は見えないけれどあと数時間もすれば明日がやってきて、朝になることは知っている。
 ここで、絶望している時間はないのだ。大切なモノは失った。でも、失ったからこそ得たものだって必ずある。それが、一体なにであるかいまはわからないが、いつか見つかるはずだから。
 朝になったら、歩き出そう。
 強がりでも、無力でも、渋谷有利。第二十七代魔王だから、立ち止まることは許されない。
 有利はふたたび目を閉じる。太陽の匂いを吸い込みながら。ゆっくりと、いま感じられる大切なモノを噛みしめて。

今僕はここにいて心臓は鼓動を刻んでいて血液は体を這いずり回っていて酸素は鼻から口へ通っていて何より君に抱きしめられている

(絶望するには、まだはやい。目が見えなくても大切なモノを失っても、全部失ったわけじゃない。おれは、いま、生きている。それだけで充分だ。)




箱マ五章と六章の間の妄想




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