おはようさえも言えないの
(thank you title ヘンリエッタ)



 雲ひとつない晴天。窓辺から外の様子を伺うとそよ風が吹いているのか木々の葉はゆるやかに揺れている。
 コンラートは穏やかで静かな早朝を目にしてうっすらと笑みを浮かべた。
 ――ようやく、帰ってきた。彼……ユーリのもとへと。
 長い廊下を歩くコンラートの脳裏にはユーリのすがた。それから剣先を向けた日のことが鮮明に巡っている。――もう、顔を見合せることはあっても二度と笑顔を交えることなく憎まれて一生と終えるのだと思っていたのに。人生というのはわからないものだ。
 今日は、再びユーリの隣で生きることを許されたはじめての朝。
 目的の場所である魔王陛下の自室に着き、コンラートは見張り番のふたりにあいさつをすると部屋のドアをノックし扉を隔て「陛下」と呼びかけてみた。が、応答はない。
 おそらく部屋の主であるユーリは寝ているのだろう。昨晩、彼を部屋まで送ったとき『まえみたいに起こしにきてね』と言われたがどうしたものか。と、コンラートが考えていると見張り番をしているひとりが話しかけてきた。
「閣下、ユーリ陛下はドアに鍵を掛けておりません。コンラート閣下がいらっしゃったら、自分が寝ていても入室するよう陛下から承っております。どうぞ、なかにお入りください」
 王からの伝言をうけた見張り番はどこか泣きそうな顔を混じる笑みを浮かべて述べる。コンラートはそれに返事をするかわりに頷く。
 ユーリを裏切るということは、ユーリだけではなく、眞魔国への裏切りに値する。たとえ王であるユーリが赦してくれたとしても、コンラートをよく思わない者は多くいるだろう。なのに、どうして自分の周りはこうもあたたかいひとばかりなのだろうか。「ありがとう」と見張り番に言おうとしてコンラートはくちを噤む。兵はユーリからの伝言以上のことはなにも言わなかったがふたりとも俯いているすがたが彼らの思いを述べているような気がし、言わずともこちらの気持ちが伝わっていたように思えたからだ。
 ドアノブに手を掛け、コンラートは微苦笑する。
 ――情けない。
 ノブに触れた手が己の手が震えていたのだ。
「陛下、入りますよ」
 ゆっくりと部屋に足を踏み入れる。部屋はカーテンで閉めきられているためかぼんやりと薄暗い。だがカーテンの狭間から朝日が差し込み、こぼれ落ちた一筋の光が部屋の主が眠る寝台に白い線を引いていた。
「ユーリ、」
 カーテンを開け放ち、もう一度声をかけてみたが、やはり彼はまだ夢のなかだ。
 規則正しい寝息をたてるユーリの顔立ちは見ないうちにずいぶんと大人びてみえた。
 コンラートはそっとユーリの枕元に立つと以前のように彼を起こそうと手をのばし、止まる。
 ――できない。
 ユーリの肩を揺することができない。
 のばした手を引き、そのままコンラートは自らの口元を覆った。
 そんな自分が馬鹿だと思う。
 けれどもいま彼に触れて、声をかけてしまうと泣いてしまうと直感したのだ。
 うねりこみあげてくる感情を必死に抑えるために唇を噛みしめる。
 そうしてコンラートは実感するのだ。
 自分にとってシブヤユーリという少年がいかに大切な存在であるのか。そして、自分の心を占めていたのか。
 たった一言「おはよう」とさえ声をかけることができない。
 ユーリとの決別を覚悟したあの日の自分に嘘はない。彼の裏切り、傷をつけ、泣かせることになろうともそれがユーリの夢を叶えることに一歩でも近づくことができるなら本望だとさえ思った。
 けれども、心のどこかでいつだって望んでいたのだ。
 また隣を歩めたらと、そんな朝を再び迎えることができたらと。
 ユーリのためなら、自分はどうなろうと構わない。彼と過ごしたあたたかな日々があればその思い出だけで生きていけるなんて自分は自分を過信していたのだ。
 コンラート・ウェラーという人間はどこにでもいる弱い人間なのだと痛感する。
 眠っているユーリの瞼がふるり、と揺れた。
 もうすぐ彼が起きる。起きたときこんな情けない顔をしていてはいけない。ユーリが「まえのように起こして」と言っていたではないか。
 寝息をたてていた少年の口から覚醒を告げる小さなうめきが聞こえた。もうまもなく閉じていた瞳が開き漆黒の瞳が自分を映すだろう。
 コンラートは己を叱咤し、深呼吸をする。
 声を震わすことなく愛しい少年の名を呼べるように。

END

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