その願いはゲッセマネに消えて




 シャワー浴びたほうがいい?
 と、部屋に入り、有利が尋ねれば歓楽街で知り合った男は首を横に振って「いらないよ」と答え背後から抱き締める。
 うなじに男の口唇が撫ぜるように行き来するのをぼんやりと感じながら有利は室内を見渡した。どこのホテルに行こうかと問われ「適当でいい」と答え、連れられたラブホテルは本当に適当な場所であった。
 いまどきのラブホテルはキレイで下手すればビジネスホテルよりも快適だとどこかで聞いたことがあるが、ここは一昔前のラブホテル、そんな雰囲気がある。照明は薄暗く、ダブルベットに敷かれたシーツは端にフリルがついていて天井には大きな鏡。天井に鏡がついているというのは都市伝説かと思っていた。
 背後から抱き締められながら、ベッドへと向かう。使い振るされたダブルベッドは座っただけでやけに大きくスプリング音がする。古いからなのかはたまたそういう思考なのかはわからないが、ただこのベッドで何人もが抱き合っているのだろうなと有利は思った。
 その何人かのなかにはただ純粋に愛し合うのではなくて、自分と同じような心境でいたひともいるのかもしれない。そう考えるとわずかに安堵をした。自分だけが逃げているのではない。その事実に。
 ユーリが仰向けに寝転ぶと男が覆い被さる。
「ね、きみ。名前なんていうの?」
 言われて自分の名を口しようとして有利はやめる。
「……べつに名前なんて知らなくていいだろ。一回きりなんだし」
 そもそも名前なんてただの記号に過ぎない。
 名前が必要になるときなどたかが知れている。そういうことを王様になってから気がついた。どこの王様なのかわかるための印であって、それ以上ななにも望まれてなどいない。
 だから皆、自分を『陛下』や『王』と呼ぶのだ。
 自分個人を見ているのではなく、自分が持っている肩書きこそがなにより重要視されている。
 名前なんて聞かなくていいだろ、と有利が言うと男は「そうかもね」と小さく笑った。
「楽しければ、名前なんて必要ないよね。どうせ、セックスはじめたら喘ぐのに精いっぱいなのかもしれないし」
 下品な冗談はまったく笑えない。それでも、有利は取り繕うような笑みを浮かべて男の口唇を親指でなぞった。
「……それぐらいおれを夢中にさせてみせてよ」
 恋をするまえは、房字を行うまでは、キスましてやセックスは好きなひととするものだと思っていたが、いまになるとあれはただの夢物語だと実感する。好きではない相手と寝ることにこんなにも躊躇いないなんて思いもしなかった。
 有利は男の首に腕をまわして、そっと口唇をあわせた。
「……っん、」
 それを合図に男の手が自分のシャツのなかに潜りこんで手の平で撫でつけ、胸板にあるふたつの突起を片方ずつ柔らかくはじく。
「ね、もっと、して」
「……きみって思ったより淫乱なんだね」
 卑猥な言葉を投げかけれ、それを肯定するように有利はこくり、と頷いた。
 もっとはやく、もうならさなくてもいいから男のモノに貫かれたかった。そうしてもう二度と『キレイ』や『純粋』という言葉を向けられることのない奴になりたい。
 あの男に――コンラッドが、理想とする自分を全部ぶち壊したかった。
 スプリングがまだ前戯であるというのにギシギシと軋む。――と。
 ドンドンッ!
 ドアを乱暴に叩く音がして、キスと愛撫それからスプリングが止む。
 一体どうしたのだろう。と思う暇もなく、ドアが毛破られ自分を組み敷いていた男が頭上から姿を消した。
「なん、」
「あなたは一体なにをやっているんですかっ!」
 意味がわからない。わかるはずもない。
 突然向けられた怒声に有利は大きく目を見開き、見知らぬ男の代わりに視界に映る男を茫然と見つめた。
 ……なんで、いるの?
 目の前の男はいままで見たこともないほど顔を歪め、思考の追いつかない自分の手首を掴み、強引に引き寄せ――抱きしめられた。
「ユーリ……っ」
 胸に顔を押し付けられ、知っている匂いが鼻腔をかすめ、名を呼ばれてようやく有利の停止していた思考が再起動した。
「こん、ら……ど?」




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