傷兵の口付け



「泣かないでください」
「うるさい! あんたが悪いんだっ!」
 何度優しい声であやしても愛しい恋人は泣きやまない。わかっている。自分のせいだと。泣いてる彼が本当に愛しくて、俺は何度も彼の髪を撫でつけた。
「ごめんね。でも、これが俺の役目なんだ」
「そんな役目なんていらないって何度言ったらわかるんだよ、この馬鹿っ! 笑ってんじゃねえよ! そんな目で見てんじゃねえよ! 殴るぞ、馬鹿野郎!」
「それは、嫌だなあ……。ユーリ、泣かないでください。俺は泣き顔よりも、笑った顔が好きだよ」
「好きとか、嫌いとかの問題じゃない……っ! 笑ったところであんたの血が止まるのか! 本当にコンラッドは馬鹿だ、おれが死にそうになる。胸が苦しい。あんたのせいで息が出来ない……っ!」
 嗚咽が詰まる音がする。傷を負っているのは自分なのに、ユーリのほうがよっぽど痛々しくて、口端に浮かんだ笑みが苦笑いに変わる。泣きやんで欲しくて、彼を引き寄せてみたいけれど、ユーリは余計に泣いた。こういうとき、どうしようもない俺は何度も「ごめんね」とか「すみませんでした」としか言えない。
「謝ってすむなら、怪我するな……っ」
「ごめんね」
「だから、謝るなって! つか、おれのせいだよな。ごめん、帰るタイミング間違えたんだ」



* * *



 ユーリが定期テストを終えて、久々にこちらに帰還した。今回、現れた先は、城下町から少し離れた場所にぽつんとある美しい湖。水面からこぽこぽ小さな水泡が生まれて、それがだんだんと大きくなる。それをみるのが俺はとても好きだ。
 彼が現れる、生まれる瞬間。
 間もなく彼が水面から現れる瞬間はいつも、胸が躍る。水泡が大きくなり、透き通る水から黒髪が見えて、ついに彼が現れた。
「コンラッド、ただいま!」
「お帰りなさい、陛下」
「陛下って言うな、名づけ親!」
「すみません、つい癖で。……改めまして、お帰りなさい。ユーリ」
 いつもと変わらない会話。名前を呼べば、彼はとても嬉しそうに笑って、こちらに近づいてくる。それから、きょろきょろと周りを見渡すと、「ここはどこ」と言った。その言葉にまたつい笑みが浮かんでしまう。彼が、景色よりなにより先に自分を見てくれたことが嬉しいのだ。故意ではなく、無意識に自分を先に見てくれたことが嬉しい。
 場所を説明しながら、彼の頬を優しく拭き、それから丁寧に水滴の落ちる髪をタオルで包む。
「血盟城から少し離れているところでね、ここからですと約一時間ほどはかかるでしょうか。着替えは用意してありますが、濡れた服が少し乾くまでここで休憩を取ってから向かいましょう。一応、軽食は用意してありますが、食べますか?」
「食べる! ちょうど小腹が空いてたところだったから、助かる」
 では、あの小陰で休みましょう。と髪を拭き終えて愛馬のノーカンティとともにすぐそばの小陰に誘う。心地の良い風が吹いていて、ユーリは気持ちよさそうに目を閉じた。何気ないこの時間でさえ、愛おしいと思う自分は相当、ユーリを愛しているのだろうと思う。
 濡れた服を木枝に干して、着替えをさせようと衣服を手渡したとき、妙な雰囲気を感じた。
 今思えば、後悔するほかない。もう少し、気を引き締めていればよかったと思う。血盟城に戻ったら、訓練をしなければ。悲しそうに泣く彼を見たくはないから。
「ユーリ!」
「え、な……っ」
 ひゅん! と風を切る音がして、脱衣途中のユーリを自分のほうへ引き寄せた。彼の頭部が自分の胸にあたった瞬間とドスッ! と木に狂器が刺さったのはほぼ同時であった。ユーリも慌ててそちらへ目を向ける。気に刺さっていたのは弓矢だ。元より大きな彼の瞳がさらに大きく見開かれる。
 弓の形状からして、狩猟目的ではなく、人を狩る目的のものだと判断できた。王都全体的にすれば、眞魔国は高い安全性のある国だが、まだその安全性は絶対的ではないことくらい分かっていたことなのに。おそらく、野盗だろう。規制をした今、眞魔国の近くに現れるということは、相当力のある盗賊だ。
「ここは、危険だ! すみません、俺がもう少し早く気がついていれば……っ!」
 木枝に干した服を素早く掴んで彼の頭のうえに被せる。まだ状況が上手く飲み込めていないユーリを抱き抱えると、すぐさま手綱を引いた。いまは逃げたほうがいい。姿も見えない相手とやり合ったところで、ユーリを危険に晒すだけだ。
 馬が嘶き、かけ出す。ノーカンティはそこら馬よりも持久力も脚力も圧倒的に違う。ここを抜けることが出来れば追うことはできないだろう。
「出来るだけ身を屈めて、ノーカンティに抱きつくような姿勢をとっていてください。またどこから弓が放たれるかわからないっ!」
「わ、わかった……っ」
 言われた通りにユーリは身を屈め、そのうえにおおい被さるように俺は馬を走らせる。馬の嘶きが賊たちの耳にも聞こえたのだろう。森林の様々なところから弓矢と雄叫びが聞こえる。かなりのやり手だ。フェイクの弓と適格な弓が巧みに進路を妨害する。相手の数が把握できない。おそらく十人ほどだとは思うが、それでもそれはただの予測に過ぎない。だが、ここを抜けることさえできれば今はいいのだ。一刻も早く彼を安全なところへ避難させたい。その思いで、手綱をさらに強く引く。スピードが上がった瞬間、彼に被せていた服がはらりと空に舞い上がった。ユーリが落としたのではない。弓が服を貫通したのだ。胸を掴まれるような気持ちになったが幸いにもそれはユーリには当たっていなかった。しかし、それに安堵している場合ではなかった。驚いたのはユーリだけではない。ノーカンティが一瞬走ることに躊躇いを見せた。次の瞬間、矢が馬の足を掠めた。
 大きな音を立てたかと思うと馬はバランスを崩して、自分たちを振り下ろす。
「うわっ!」
「ユーリっ」
 馬の下敷きになりそうになったユーリを抱きとめたが、彼の顔は苦痛にゆがんでいた。
「ごめん、コンラッド。……こんなときに足ひねったみたい」
「謝らないでください。あなたのせいじゃない」
 投げ飛ばされたために、愛馬に括りつけた荷物が草のなかへ消えてしまい応急処置もできないことが歯がゆい。ノーカンティはよろめきながらも立ちあがると弱々しく鳴いた。
 わかっている、きみのせいじゃないさ。
 怪我を負いながらも主を置いて逃げなかっただけでもすごいことだ。馬のからだを撫でつければ、まだ走れると言いたげに鳴く。頼もしい馬だ。
 ユーリを先に馬に乗せる。未だに弓の雨はやまない。だが、もうすぐ先に光が見える。あそこが出口だ。

 ヒュインッ!

 鋭い音が再び聞こえる。正面からだ。向かってくるのが分かる。それは自分に向けられたものではなく、馬にやっとのことで跨ったばかりのユーリへと。剣も近くへと放り出されたがそんなものを手に取る時間はない。また、彼を地面に落としたら足に負担がかかる。どうすればいいのか、考えるよりも先に体は動いていた。
 自分では上出来だと思う。
「コンラッドっ!」
「……ッ! 大丈夫ですよ、これくらい。なんてことはありません」
「でも、肩、に、ゆみ、が……っ!」
「死にませんよ。急所じゃないから。また、走りますよ。舌噛むかもしれませんからなるべく口は閉じて置いてくださいね」
 力強い弓は、体を貫通していた。でも、これくらいのことで気を失うわけにも、叫ぶ暇もない。軍服に血が滲んでいくのが分かる。かなりの出血だ。でも大丈夫。俺はこんなところで死んだりしない。
「走れ!」
 思い切り手綱を引く。ノーカンティはよろけながらも出口へ向かって力強く走りだした。



 ―――そうして、やっとの思いで眞魔国へとたどり着いた。血盟城までの急な坂を怪我を負ったノーカンティで登るのには負担がかかる。近くの顔見知りの宿に身を置いてすぐさま、白鳩便を出す。元ルッテンベルク騎士団の数少ない同胞が担う宿屋だ。自分の傷を見た瞬間、驚きに目を見張っていたが、すぐさまユーリと俺に応急処置を施してくれた。すぐにでも、弓を抜いてしまいたいが万全の医療が整っていない状況で抜けばどうなるのか、俺も主人も分かっていた。貫通した弓の先だけを折り、座る。借りた部屋全体が血なまぐさい。そんな俺を見てユーリは泣いてばかりだ。
 そして今に至る。
「……おれが、あんなところから帰って来なきゃ、足なんか挫いてなきゃ、こ、こんなことにはならなかったのに……っ!」
「あなたのせいじゃない。大丈夫、俺は死なない」
「でも、血が……っ!」
「生きていれば、流れるものだ。もうすぐ、治療班も来る。だから、もう俺に魔力を使用するのはおやめください。あなたの体が危険になる」
「うるさい、うるさい! おれは止めないからなっ! へなちょこでもなんでも、おれはできることがあるならやるんだ! 見ているだけなんて、それこそ拷問だ」
 おれはあんたを助けたい!
 悲痛に歪む顔でユーリは魔力を注ぐ。……きっと、ユーリはこれが自分でなくとも、こうして傷つく者がいれば、全力で護ろうとするのだろう。どうしようもなく優しすぎる主に思わず苦笑いを浮かべる。
「だから笑ってんじゃねえよ! 言っとくがな、おれは、おれは! あんただから、コンラッドだから助けたいんだっ! みんなは大切だけど、コンラッドは特別ってことお願いだから分かってくれよ……っ!」
「ユーリ……」
「あんたは特別なんだ。……コンラッドがいないと、息、できない……っ!」
「ありがとう、ユーリ。大丈夫、俺はあなたを置いてもうどこにも行きませんから」
 そう、死があろうと関係ない。
 俺はもうこの人を一人置いてどこにも行かないと決めたのだ。
「だからもう、泣かないで。……お願い、ユーリ」
 微かに痺れる手で、涙で濡れたユーリの頬を拭い愛しさを込めてキスをした。

END

- ナノ -