忘れられた花 ひとの目を気にすることもなくコンラッドがユーリの手を引いて長い廊下を歩いていく。 仕事中の下女や兵が振り向いても、コンラッドはまったく気にしないようだった。 ユーリもコンラッドも無言のまま城内を歩きーー花園にたどり着く。 花園の奥には温室がある。そこへ連れて行かれやっとコンラッドはユーリの手をはなした。 このような状況でなければさまざな植物に囲まれた花園と温室のすばらしさにユーリは感嘆の声を漏らしていただろう。いまは、ただひたすらに居心地が悪くて花の香りに胸焼けがしそうだ。 「母親のかわりにここを管理している庭師がいるんです。俺はあるものを作りたくてここにきていました。それが今日完成したんです」 「……あるもの?」 「あなたには、言わないつもりでしたけど」 コンラッドは言って、困ったように眉根をさげ「ちょっとここで待っていてください」とひとり、温室の奥へと消えて行った。 ――あなたには、言わないつもりでした。 だれにだって言いたくないことはある。それを無理に尋ねてしまった。何度目の後悔かわからない。罪悪感のようなものが胸のなかでざわつく。 「ユーリ、」 名を呼ばれてふさぎ込んでいた視線をコンラッドのほうへと向けた。なにか後ろ手に持っているらしい。目のまえまでくると、後ろ手に持っていたものをユーリにみせた。 「……ドライ、フラワー?」 記憶を回想していくが、ドライフラワーの花束に身に覚えがないそれを待たずして、コンラッドが口を開いた。 「俺が一番大切なひとにもらった花たちですよ」 コンラッドの声音がやわらかなものに変わる。なんと返事をしたらいいのかわからなくて曖昧な笑みを浮かべた。笑いたくなんてないのに、どうして笑えるのだろう。 大切なひと、というのはスザナ・ジュリアのことか。彼女は花をよく愛でていた。彼女は、だれもが尊敬する真の大人の姿だ。もし彼女が全盲ではなく男性であったなら彼女が眞魔を統べる魔王だったのかもしれない。亡くなったいまでも彼女はみんなの心に住んでいる。 「ユーリに覚えていないのが当たり前なんです。言ったでしょう、あなたに言うつもりはなかったと」 彼のことだ。彼女に対して恋愛感情がないことが本当だとしても、自分よりも彼女に特別な感情を抱いているのかもしれない。 コンラッドは自分をとおしてスザナ・ジュリアの面影探していたりするのだろうか。だから、さきほど「あなたは変わった」といったのだろう。いまの自分の魂は丸いのだろうか。コンラッドが守ろうとした真っ白な魂……恋愛を自分以外としないというのも一種の庇護欲かもしれない。魂を守るという使命の線上に、恋愛をしたいという自分の願いを叶えてくれた。 そう考えると、たしかに自分に言わなくてよかったことだ。 「……ユーリは本当に俺のことばを信じてくれないのですね。さきほどからずっと勘違いしていらっしゃいませんか? この花はあなたがいままで俺にくださったものを集めた花束なんですよ」 「は? うそ」 「こんなときに冗談をいえるほどお気楽なやつじゃありませんよ、俺は。あなたが覚えていなくて当然です。これらはもう一年以上もまえのものばかりですから」 一年以上まえ。彼が離反する依然の自分が彼にあげた花なんて覚えていない。どこかに出かけたときやツェリ様におすそわけしてもらったり、祝い事でもらった花をなんとなくコンラッドに渡したような気がする。言い方は悪いが特別思い入れがあった花たちではない。だから彼の部屋に渡した花が飾られ、花瓶から消えてもなんとも思わなかった。 「あなたにいただいた花。あなたがなんの気なしにくださったのも知っています。だけど、俺にとってユーリにもらったものは特別なんです。……離反したあともずっとこの花たちが気がかりでした。適当枯れさせてはだめになってしまいますからね。それに、裏切り者の俺が作っていたものだ。処分されていてもおかしくなった」 それなのに、残っていたんです。残念なことに数本はだめになってしまいましたが。 と、コンラッドは笑んだ。 全身のちからが抜けそうになる。息ができない。さきほどのキスよりもずっと苦しい。息が吸いたいのに、笑いがこぼれてしまう。 「そんな顔してると、またキスしますよ?」 「やだよ」 いま一番情けない顔をしている。それをユーリは両手で覆い隠した。 「……俺はどんなあなたも愛おしい。あなたは俺にとってなによりも大切なものだ。俺の世界はあなたがあってこそのものだと知っていると思いましたが……足りなかったようですね」 低い男の声だ。温室には似合わない獣の声。獲物を狩るまえの雰囲気が漂っているのに、どこか甘い。 「ユーリはドライフラワーの花言葉の意味を知っていますか。永遠に愛するという意味があるんです。俺はねずっとこの花束に願いをかけていました。いや、願いというよりも呪いなのかもしれませんね。きれいにドライフラワーの花束が仕上がったら、あなたが一生俺を愛してくれますようにと思いながら作っていたのです。俺はあなたが思うよりもずっと貪欲で執着心や束縛もある恋愛に対して不誠実な男なんですよ」 コンラッドもユーリと同様どうやら頭がおかしいらしい。タカがはずれてしまっている。 「今日あんた、やけにしゃべるな」 「あなたが俺を信用してくれないからですよ。……正直、腹も立ちましたけど、それ以上にいまはとてもうれしいですよ」 言って、コンラッドは顔を手で覆ったままのユーリを引きよせ頭を撫でる。 「いまあなたの感情のコントロールができないのは、俺のせいなのでしょう? 俺の存在があなたのなかを埋めていると思うと、たまらなくうれしい」 本当に恥ずかしげもなく、よく動く口だ。 「……ってことはおれの勘違いってことか?」 顔を覆っていた手を外して彼の胸に顔を押しつける。ときおり、彼から甘い香りがほのかにしていたがそれはこの温室に満ちたものと似ている。外した手をコンラッドが掴んで背中へと導いた。 「俺はあなたのものだ。それを忘れないで」 「おれの?」 「そう、ユーリの」 間をおかずにコンラッドが答える。 ユーリはコンラッドの背中にまわされた自分の手の指先に力をいれて軍服を掴む。 「じゃあ、」 「はい」 「おれは?」 重いことばを口にする。付き合いたてのカップルでもあるまいし、ことばの持つ重さを理解しているというのに。 強い彼の視線を感じて、ユーリはおずおずと顔をあげた。きっと情けない顔をしているに違いないが、顔をあげなければいけないような気がしたのだ。 見上げたコンラッドの顔は、思わず「えっ」と声をもらしてしまうほどに柔和で、目元もまたとてもやさしいものだった。 「あなたはだれのものでもありません。王は、ひとりの者になってはいけないものです。俺の世界がユーリでまわっていてもユーリの世界はユーリでまわるんです」 俺でまわることはない。 頭から水をかけられたような気分だ。 それじゃあ、一生気持ちは平行線のままではないか。 コンラッドの軍服を掴んでいた指先のちからが抜ける。 まったくひとを喜ばせたり絶望させたり……この男は。でも彼のことばはまったくもって正論だ。王は孤独であるべきだ。己にちからがなければ、責任がなければなおさら個人を愛さないほうがいいのかもしれない。だから、中途半端なことはいけないとヴォルフラムとの婚約を破棄にしたことを忘れてしまっていた。とても大事なことであったのに。どうして忘れて、コンラッドと恋人になってしまったんだろう。そしてコンラッドも王であるまえに渋谷有利という個人を愛してくれても、世界の掟には逆らえないのを自分よりしっていたはずだ。 彼の愛情と自分の愛情の違っていたのか。 一瞬でも、ドライフラワーのことで喜んでしまったことユーリは恥じた。 「本当にあなたは可愛らしい」 ……ちゅっ、とユーリの鼻のうえが鳴った。 「そんなくだらないこと思ってません。正直俺は世界になんて興味がありませんから。どれだけ、いまあなたのなかを俺が埋めているのか見たかっただけです。……ユーリは、俺のものですよ。あなたがこのさきだれかを愛しても絶対に渡さない」 「あんたって本当に性悪だ」 「だから言ったじゃありませんか。不誠実な男だと。……それでも俺のこと愛してくれるでしょう」 はっきりとした口調でコンラッドが言う。 「コンラッドってこんな男だったの?」 「ええ、ずっとこんな男でした。あなたに出会うまでは知らなかったですけど。いま夢があるんです。俺のためにあなたがいて、あなたのために俺がいる。そんな存在になりたい」 甘い花の香りが鼻腔を伝い、脳内に侵入する。 「コンラッド、あんたわかってんの? もうなってんだよ。じゃなきゃこんな情けないおれなんて拝めないぞ」 言うと、コンラッドはとても幸福そうに声を立てて笑って顔の距離を詰めた。 「永遠なんて信じません。でも、俺が生きている限り約束します。あなたをずっと愛してる。この約束だけは違えたりしない」 口唇が触れる。触れて啄ばむようにコンラッドが喋る。 「赤い糸なんて俺たちには必要ないでしょう? あんな細い糸なんていらない。あなたの全部が俺の運命で俺の全部が運命なんですよ。あなたがくれた花をあなたが忘れてしまっても、これだけは忘れさせたりしません」 このようなことを言われて、喜びを覚えてしまうなんてどうかしている。 「俺が信用できなくなれば愛を囁いて、不安を覚えたら炊きしめてどれだけユーリが好きなのかを何度でも教えてあげる。二度と生まれてこなければなんて言わせません」 啄むようなキスが深いものになる。そこに恐怖はもうない。あるのは熱を帯びるからだだけ。 「いまからドライフラワーを部屋に飾ろうと思っているのですが、ユーリにきますか?」 尋ねているくせに、コンラッドの手は自分の腰から離れない。これでは、尋ねる意味なんてないと思う。 ユーリは頷いて差し出されたドライフラワーを受け取った。いつあげたのかわからない、名も忘れてしまった花たち……コンラッドは、いつ貰いどんな花なのかわかっているのだろう。 ドライフラワーになったてもなお、甘い香りを漂わせる花束に顔を寄せてユーリは思った。 コンラッドも自分と同じように、我を忘れるような感情に包まれることがあるのだろうか。 「……なんです?」 「いや、おれのことをずっと好きでいてくれてありがとう」 「お礼をいわれることではありません。ただずっとあなたの気持ちを無視して愛していただけです」 「……食えないやつ」 ユーリが悪態をつくとコンラッドが機嫌よさそうに「ええ」と答えた。 「俺は食べるほうなんです」 そんなこと聞いてるんじゃねえよ。と言いかけて、やめた。ずっとさきほどまで自分は彼に迷惑をかけていた。 ……すこしくらい、いい思いさせてあげよう。 「ま、そうかもな」 腰にまわされたコンラッドの手を取り、その指先にキスをして齧る。キスをする箇所によって意味がある。指先へのキスは賞賛。こんな面倒な男をずっと愛してくれたことに、賞賛を。 「なあ、コンラッド。結果的はこれってケンカみたいなものだったろ。恋人同士がケンカして仲直りするとしたら一番なにがいいと思う?」 目と目が合う。それも、全然怖くなかった。 「それはもちろん、からだを重ねることでしょう。期待していますよ」 「期待は、裏切らないから安心しろよ」 温室を抜け、花園を過ぎれば彼の部屋まで続く廊下がある。廊下にはおそらく、さきほどの場面に出くわしたメイドや兵。うわさを聞いたひとたちがいるのだろう。そこを堂々と歩いてふたりで部屋の扉を開ける。ベッドチェストにドライフラワーを置いて、花の香りに酔いながらシーツを皺だらけにするのだ。忘れられない赤い花を互いのからだに散らせて、赤い糸より強い見えない重い鎖をからだじゅうに巻きつける。 「そういえば、」 コンラッドが、思いだしたように口を開く。 「ユーリがナイフを自分の手に振り上げていたでしょう。あのときどうして間にあったと思います? あなたが俺の部屋にいるような気がしていたんです。これって運命だと思いません?」 と、言った彼にユーリは吹きだすように笑った。 そしてユーリも思い出す。どうしてこの男と恋人になったのか。彼がだれよりも自分のとなりにいなければ、この世界を平和にすることなんてできなかったからだ。 自分の世界はコンラッドという男がいて回っている。 こんなこと口に出して言わないけれど。 言わずとも、彼もそのうち気がつくはずだから。 END |