パブロフの犬1

『人』と呼ばれる生き物はとても賢い、らしい。
 瞳はカメラよりも精度があり、脳は日々学習し、知識を蓄える。
 ……まあ、そこから努力や環境などいろいろなものが影響して個人差はあるが、この脳の性質によってかなり悩まされている。いや、学習能力とあともうひとつ恋人であるウェラー卿コンラート。通称コンラッドと呼ぶ男によって。
『パブロフの犬』というのを知っているだろうか。『パブロフの犬』はいわゆる条件反射と呼ばれるものでイヌにメトロノームを聞かせのちにえさを与える。イヌはえさを食べながら唾を出す。それを繰り返すうちにイヌはメトロノームの音を聞くだけで唾液を出すという実験のことだ。
 いまの自分はそのイヌとおなじく、とある条件によって反射的行動が働いてしまっている。
 そのことに気がついたのはつい最近のことで。気がついてからは、あの条件反射を回避したくてコンラッドとは極力ふたりきりにならないようにしている。
 もしかしたら、コンラッドはこの条件反射について察しているかもしれないと思っていたが、そんなことはなく以前よりも仕事の量を増やし、たんたんとこなしていく自分のことを褒め、気遣ってくれている。
 とはいえ、いつまでも回避できるはずもない。普段であれば『休む暇があるなら仕事をしろ』と小言をいうコンラッドの兄であり、王の摂政を担っているグウェンダルがめずらしく『明日は休養するといい』と告げられてしまった。
 まあ、明日はどうにか理由をつけてコンラッドと過ごさないようにして、問題はいまだ。
 夕方にすべての執務を終え、そのまま夕食を食べたあとコンラッドと彼の部屋でちょうど任務から帰ってきたヨザックと談笑をしていたのだが、途中ヨザックが兵に呼ばれてしまったのだ。それならまだいいのだが、なかなかヨザックが帰ってこない。
「ヨザックどうしたんだろ? グウェンダルに報告漏れでもしたのかな」
 軽食の焼き菓子をつまみながら、有利が尋ねると「さあ、どうでしょうね」とコンラッドが答えたかと思う彼は窓辺に移動し、カーテンをあけた。
「ああ、ヨザックは急用ができたようです。いまは眞王廟で猊下といるとのことです」
 窓のそとには白鳩がいたらしい。コンラッドが鳩の足にくくりつけられた伝報に目をとおしながら言う。
「……よく、白鳩便に気がついたな。おれ、ぜんぜん気がつかなかった」
 関心したようにいうと、コンラッドは苦笑いをしながら「これでも軍人ですからね」と、白鳩をおくりだして窓を閉めた。
 ヨザックがまた戻ってくるだろうとおもい、コンラッドの部屋にいたがこうなるとコンラッドとふたりでいるのがためらわれる。
 ソファーに腰掛けている有利のもとにコンラッドはくると、紅茶をつぎたしながら「明日はどこか、遠出でもしますか?」と尋ねてきた。
「さいきん、隣の国に温泉街ができたそうで、とても評判がいいそうですよ」
 たいへん魅力的なお誘いだが、いまの自分は素直に行きたいとは言えず、なにかいい断りかたはないかと差し出された紅茶を飲みながら考える時間を稼ぐ。
 が、となりに腰掛けた男はそんな有利を横目にみて「それとも俺とは行きたくない?」と言ったので思わずティーカップを握る手が動揺してふるえた。
「……公務に積極的に取り組むのはいいことです。でも、ただまじめに取り組んでいるわけではないですよね。俺とふたりきりになるのを避けている節がいくつかみえる」
「そんなことないって。あんた考えすぎなんじゃないの?」
 故意に呆れ口調で返答するが、妙なところで頑固な男は「それ、俺の目をみて言えますか?」と有利の手からティーカップをとりあげられ、むっとする。
 目を見て、ほんとうのことをごまかすことぐらいはできると有利はコンラッドの目をみたがどういうわけだか「そんなことない」と言うまえに彼の視線に耐えられなくなり、目をそらしてしまった。するとコンラッドが『ああやっぱり』とでもいいそうな冷やかな目線をこちらによこす。
 ああ、くそ!
 コンラッドにそんな顔をされるのも、目をそらしてしまった自分にも腹がたって有利は心のなかで舌打ちをした。
「……俺はあなたが言うように、あなたのことばかり考えている男です。言いたくないことなら無理聞こうとは思いません。しかし、その原因が自分にあるとしたらべつですよ。俺は、あなた――ユーリに嫌われたくない。ユーリに愛される対象でいたい。そのためには自分のいやだと思うところがあればなおしていきたいのです」
 よくもまあ、歯の浮くセリフを恥ずかしげもなくいえる男だ。それはイケメンだから許される特権なのだろうか。思うも、それをちゃかすような雰囲気はいまここにはなく、真剣にそういわれてしまえばこちらもそれなりの態度を示さなければいけないような気がしてくる。
 有利はコンラッドから視線を外したまま「べつにコンラッドがいやってわけじゃない」と呟くように答えた。
「……まあ、あんたも関わってくることだけど、どっちかっていうとおれ自身の問題っていうか」
「関わってるなら、教えてください。……考えたくはないですが、まさか俺と別れたいと思ってはいませんよね?」
 問われて有利はすぐに否定のため首をよこにふる。そこまで深刻に悩んでいるものではないし、考えてもいなかった。
「ないない!」
「なら、いま言わずとも付き合っているならいつかは言わなければ解決しないことじゃありませんか?」
 言われて、有利はハッとする。たしかにコンラッドのいうとおりかもしれない。ここさいきんも極力コンラッドを避けるような行動をしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかない状況にいまおちいっている。
 とはいえ、コンラッドにカミングアウトをするのははずかしい。
 有利が悶々としていると、コンラッドが焦れたのかとん、両肩を手でおされむだな力をいれてなかった有利のからだ重力に逆らうひまもなく、ソファーに沈む。想定外のことに目を見開きあわてて上半身を起こそうとしたが、肩を固定されてしまうと身動きができない。
 そうして、よく状況の整理がつかないあいだにコンラッドの顔がこちらへと近づいてくる。なんで押し倒されたのかはわからずとも、こうして顔の距離を縮められればコンラッドがなにをしようと思っているかわかり有利は思いっきり顔を逸らして――とうとう胸のうちを告白してしまった。
「……っキスされるんのがいやだ!」
 ことばをオブラートに包む余裕もなく、くちからこぼれてしまったセリフに有利はしまった、とコンラッドの表情をみて後悔したが、数秒まえにも時間を遡ることなどできるはずもなく神妙な空気がふたりのあいだにうまれた。
 肩におかれていたコンラッドの手と近づいていた顔がそっと有利から遠ざかっていく。
「あっ、いや! なんていうか、ちがう? そう、ちがうんだ!」
 なにも言わずに無表情なコンラッドにあわてて有利は弁解をはかろうとするが、彼は眉ひとつ動かさずにいやに静かな口調で「なにがちがうのですか?」と有利を見据える。
「キスをされるのがいやということ? それとも『俺にされる』キスがいやだということが?」
 言われて有利は口を噤む。コンラッドの尋ねた二択がどちらも正解であるからだ。しかしだからと言ってコンラッドが嫌いというわけではない。
 自分のなかでいまは整理ができずとも、そのうちどうにかなるんじゃないかと思いコンラッドと距離をとってみたのだ。彼を怒らせたり、悲しませたいわけじゃない。だが、こうなってしまえばそれらはただの理想論でしかない。
 この状況で黙秘を続ける忍耐力もないし、なにかべつの話題をもってコンラッドの意識をちがう方向へ逸らすような話術も有利はもちあわせていない。
 有利は口内で転がる羞恥心を唾液とともに飲みこんでから上半身を起こすとコンラッドから目を逸らしたまま、胸に蟠っていたものをゆっくりと吐きだした。
「……コンラッドのいうようにおれはあんたにキスされるのがいやなんだよ。でもあんたが嫌いってわけじゃないから!」
 今度はストレートに言ってコンラッドを傷つけたくはないとあたまのなかで考えてから言おうとするからか意味のわからないものになってしまう。自分でさえ『なにを言ってるんだ』と脳内でセルフ突っ込みをしているぐらいだ。コンラッドは自分以上に意味がわからないのだろう。当然のごとく「それはどういう意味でしょうか?」と訝しげに眉根をひそめて尋ねてきた。
「どういう意味って……」
 そのままの意味なのだ。うまく説明しようがない。
 もともと自分は、国語が苦手なのだ。通信簿にはいいときでも『普通』でたいていつけられるのは『もうすこしがんばりましょう』の『二』。そんな自分が、適切にことばを選んで説明できるわけがなかった。
 そう有利は開きなおり、ふたたびこみあげてきた羞恥心に気づかないフリをして直接的に言うことにした。
「あーもう! コンラッドのせい! あんたがわるいんだ! 夜の帝王と呼ばれるくらいに恋愛に手慣れてるからかもしんないけど、おれはあんたしか知らないんだぞ!」
 羞恥を吹き飛ばそうとすると無意識に声のボリュームと感情のコンロトールができない自分が恨めしい。冷静になれという心の声となんでここまで言ってわからないのだと苛立ちを覚えているもうひとつの心の声が脳内に響く。冷静になりたいのに、苛立つ感情のほうが大きくて有利は後頭部をかきむしる。
「ユーリ、おちついて」
「おちつこうと思っておれはさいきんあんたと距離をおこうとしてたの! なのに、コンラッドがはなしをふってきたんじゃんか!」
 完全なる八つ当たりだと自分でわかっている。だけど、もう一度吐露してしまうと制御などできなかった。しかも、高ぶる感情に涙腺が刺激されたのか徐々に目の奥があつくなり、喉奥がしびれてくるそれはこどもが駄々をこねているときに似ている。
「コンラッドにキスされると、からだが無意識に反応しちゃうんだよ! あんたが毎回、毎回、え、えっちするまえにキスなんかするからこんなことになったんだ!」
 軽いキスでも、冗談でされるキスもその場かぎりのものだとわかっているし、自分もそこからの発展など望んでいなくてもからだがキスをされれば反応してしまうのだ。まるで『パブロフの犬』だ。
 メトロノームの音を聞けば、えさがもらえると条件反射で唾液をこぼすイヌとおなじで、キスをされるとからだがあつくなる。それはセックスをされるとからだが学習していたのだと気づいてしまったから有利はそんな自分はいやでたまらなかった。
「……ユーリ、それは」
「いい。もう、なにもいうな! 自分で気持ち悪いって自覚してるからなにもいわないでくれ。……引いただろ。あんたはおれのこと素直とか純粋とかきれいなことばで並べ立ててたけど、そんなのぜんぶ夢見てただけだ。ほんとうのおれはキスだけで感じちゃうヘンタイなわけ」
 蟠っていたものを吐きだすとつぎは自虐的なことばがくちにでる。これではなんとかして、コンラッドの誤解を解こうとしたのかわからない。嫌われたくもないし、別れたくもないというならストレートに告げる言い方はほかにもあっただろうに。
 ああもうさんざんだ。
 これを機にコンラッドが本気で自分との付き合いを改めてしまったらどうしよう。
 再びおとずれた静寂に有利は不安を覚えるなかでコンラッドのため息が聞こえ、さらに有利は身をかたくする。
「……ユーリ。俺があなたのことをわかっていなかったというのもありますが、あなたもまた俺のことをわかってらっしゃらない」
 そう言うコンラッドの声があまりにもやさしくて、有利は思わず顔をあげる。と、そこには苦い笑みを浮かべた男がいた。
「え、」
「日本語には、素晴らしいことばがありますね。『男冥利に尽きる』つまりは俺にとっていまのユーリの状態はこれ以上のしあわせはないということなのですよ」
「……は?」
 いまのはなしの流れでしあわせを感じるところなどあっただろか。
 有利が思わず呆けた声をもらせば「やはりわかっていないですね」と、ことさらコンラッドは笑みを深める。
「よく言うでしょう。『相手を自分の色に、好みにしたい』と。いままでくちにはしませんでしたが、俺もあなたがそうなってほしいと願っていましたから」
「え、えと……ってことはつまり?」
 コンラッドのはなしの意図がくみ取れなくて、よりわかりやすい解答と求めれば、彼は非常にわかりやすい返答をして有利は頬を赤らめた。
「俺のキスひとつであなたがメロメロになってくれればいいと思っていたということです。……俺はユーリが思っているようなやさしくて淡白な男ではありませんから」
 コンラッドの手が有利の頬にのび、触れるとやさしく撫でつける。
「好きなひとには好きになってほしいし、夢中になってほしいじゃないですか。ユーリは王という立場を差し引いても充分魅力的なひとだから俺はいつだって不安なんです。だから俺のキスでそうなってくれるならうれしい。……だから、俺をどうか避けないでください」
 言ってコンラッドの顔が再び寄せられる。今度はそれを有利は拒まなかった。
 ただ、こんな簡単に悩みを解決させられたことがくやしいので唇が触れ合う瞬間にぽつり、と悪態をつく。
「もう一回言うけど、おれがこうなったのはあんたのせいなんだからちゃんと責任もてよ」
「もちろん。喜んで責任もちます。あなたが二度と熱を持て余さないくらいに」
 だが、有利の悪態はさらりとコンラッドは受け流されて、いまいちど紡ごうとした悪態は男の口内へと吸い込まれていった。








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