Please kiss me.



 特別な合図はない。
 気がつけば当たり前のように、唇が重なっていた。
 コンラッドの部屋で、小さな水音が響く。
「……ん、」
 こうして、彼とこうした行為をするのが自然なものとなったのはいつのことであっただろう。
 こうして、触れあうことに幸福な気持ちを覚えたのはいつのことであっただろう。
 以前は、彼、コンラッドが隣にいるだけで最大の幸福を覚えていたというのに、いまではそれだけでは足りないと思う自分がいる。浅ましいことだと、欲張りだと、心地のいいコンラッドの巧みな舌を受け入れながら思う。
 鼻で呼吸する。風邪でもひかないかぎり、だれもが当たり前に意識をしないで、行う行為。それがこんなに難しいことだなんて、いままで知らなかった。
 気持ちがいいのに苦しくて、生理的な涙が浮かぶ。
 いつの間にか瞑っていた瞼を浮かべてみれば、彼の目と目が合う。どうやら、ずっとこちらを見ていたらしい。一体自分はどのような表情を浮かべていたのか。考えるだけで、恥ずかしくなり自分の頬がカッ、と熱く火照るのがわかった。コンラッドの目元が少し意地悪く細められる。

 ――鼻から、息を吸って。

 コンラッドの心の声が聞こえたような気がする。
 そんなことはわかっている。しかし、できないのだ。意識して鼻で呼吸をする。少しだけ苦しさが和らいだ。
 だんだんとからだから力が抜けていく。腰が重くなって最後には自分のあしでは立てなくなるのだ。からだもそのことを知っているのかユーリの手は無意識にコンラッドの軍服を掴み自らのからだを支える。
 ……やっぱり息が苦しい。そして悔しい。
 ああ、なぜこんなにも自分だけがこんな苦しい想いをしているのか。かち合う彼の瞳は自分のようには濡れていない。それが本当に悔しくて、コンラッドの口内を弄る。けれども、コンラッドは楽しそうに目を細めるだけで、一層自分が翻弄されるだけだ。これが、経験の差というやつなのか。
 飲みきれない唾液が口端から溢れ、下顎を伝う。それでも口内に溢れる唾液をこくん、こくん、とユーリは飲み下した。他人の唾液を飲み込むなんて普通では考えられない。潔癖症でなくとも、考えただけで嫌悪感が体中を這いまわって嫌になるだろうに、どうしてだか、コンラッドのものだけは違うように思えた。
 これは慣れなのか。それとも愛故なのか。自分でもわからない。
 コンラッドも同じように、ユーリの舌を絡めると、強く吸って、唾液を飲み込む。すると、からだじゅうに快感が痺れるように走った。
 キスがこんなに気持ちいいものなんて、彼とするまで知らない。
 セックスと同じくらい気持ちだなんて、自分は知らなかった。
  けれど、それは……。そのさきを考えると悲しくて涙がこぼれ落ちた。
 口を離せば、銀糸がふたりの間に伝う。それをコンラッドは丁寧に舐めあげてから、ユーリの髪を優しく撫でつける。
「……どうして、そんな風に泣くんですか? 俺にキスされるのは嫌い?」
 ユーリが流す涙が、快楽で流しているのではないことをコンラッドはわかっているようだ。眉根を顰めて、悲しそうに笑う。
 コンラッドにそんな顔をさせたかったのではない。首を横に振って、ユーリはそれを否定した。
「ちがうよ」
 その言葉だけで、コンラッドが納得してくれないのはわかっている。
 躊躇いがちにユーリは口をひらく。言わなければ、ずっと彼も気にするだろうし、自分もまたこの蟠りを持っていなければならないから。
「……コンラッドとのキスは本当に好きだ。でも、そう思ってるのは自分だけなのかなって思ったんだ」
 言えば、コンラッドは訝しげな表情をして、少し低い声音で「そんなことあるはずがないでしょう」と言った。彼は、自分の発言に怒ったのかもしれない。話はまだ終わっていない。ユーリは続ける。
「だって、自分ばっかり翻弄されてる気がするし、経験積んでるから気持ちいいと思っても、コンラッドにとっての気持ちいいは、既に知っている気持ちよさなのかもしれないって思ったらなんか悲しくなったというか……わがままだってことはわかってるよ。でも、おれはあんたしか知らないのに」
 ……あんたは違う。
 ぎゅっ、とコンラッドの軍服を強く握りしめてユーリは言った。
 なんて、女々しいことを言っているのか、自分でもわかる。けれど、この想いをうまく昇華できないのだ。
「なにを言っているんですか。俺だって、こんなの初めてに決まっているでしょう。キスが気持ちいいなんて、ユーリじゃなきゃ思いませんよ」
 本当に彼は優しい嘘を吐く。
 だが、それを自分をどれほど傷つけてるなんて思いもしていないだろう。コンラッドの言葉に思わず胸に燻ぶっていた思いが爆発しそうになるのを、長く静かな息を吐いて落ち着かせようとすれば、軍服を握っていた手をやんわりと外されとある場所へと導かれた。
 コンラッドの下肢へと。
「!」
 予想もしていなかったことに目を見張る。
 コンラッドの下肢は熱く、少し張り詰めていた。
「ユーリ、あなただけなんですよ。こうしてキスで俺を翻弄するひとは。……いや、キスだけじゃない。あなたの声を聞くだけでここは熱くなるんです」
 情けない話ですが……と、コンラッドは苦笑して言う。
 触れた熱がとても恥ずかしくて、真面目に答えてくれたことがとても嬉しくて、ユーリは目の前にある愛しい男の胸に顔を埋めた。
「……あんたって本当にずるい」
「あなたも充分ずるいひとですよ。一体俺をどれほどまでに魅了すれば気が済むんですか」
 一体自分はなにをしたのだろうと言うのだろうか。
 コンラッドの言葉が理解できなくてユーリは首を傾げた。
「わからなくてもいいです。ただ、俺があなたを愛している、それだけはわかってください。俺はユーリが言うようにこういう行為について経験はある。けれど、何度も言うようにこうして俺を夢中にさせるのも、囲って欲しいとおもうのも、ただひとりあなただけなんですよ。ユーリ」
 コンラッドは優しくユーリの髪を撫でつけて、つむじに接吻を落とす。
 いつも、彼が一度はキスときには触れる部分だ。それは身長の差も感じるし、自分が彼にとってはまだ幼い子供のように見えるからかもしれない。だが、それ以上に幸福に思える行為だ。彼、以外ここに触れるひとはいないのだから。
「……まあ、過去のことを気にするのはやぼだよね。ごめん、なんか変なこと言った。いま、コンラッドがおれの恋人だから気にすることないことだよな」
「いまだけじゃない、これから先ずっと未来永劫俺はあなたのものですよ、ユーリ。……しかし、俺のキスがうまくて不安になるっていうのは嬉しいな」
 ああ、まったくこの男は恥ずかしいことを言う。
 ユーリはコンラッドの胸に再び顔を埋めて、少し口元を歪めた。コンラッドの言葉が本当だから否定できないのだ。
「そうだよ、あんたのせいだ。だから、おれが不安にならないように、ちゃんとキスを教えてよ」
 いつか、キスも息が吸えるように。
 まるで挑戦状を叩きつけるような顔でユーリは言う。するとコンラッドは破顔して声を立てて笑って、愛おしそうにユーリの下顎を手ですくった。
「ええ、もちろん。何度でもキスをしましょう」

END

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