今日から魔王(サタン)!1


 いまは九月。しかし、まだまだ残暑という言葉が似合うほど、とても暑い日が続いている。
 渋谷有利は、日課になっているロードワークを終えて、シャワーを浴びると再び家を出た。
「ゆーちゃん、どこに行くの?」
「明日は河川敷で草野球をやる日なんだけど、昨日の台風でどうなってるのか確かめに行こうと思って」
 昨日の台風は今年一番と言われた台風だ。いはまもう過ぎ去って、からりと晴れているがおそらく川は増水している。それを有利は確かめに行こうと考えていたのだ。
「そうなの。明日には少し引いているとは思うけれど、気をつけて行ってくるのよ。くれぐれも……」
「くれぐれも、川には近づくなっていうんだろう。わかってるよ。行ってくるな、お袋!」
 お気にいりのキャップを被って、言えば不服そうに母親が唸る。
「お袋、じゃなくてママでしょ! ゆーちゃん」
「はいはい。行ってきまーす!」
 今年最大の台風が来たからと言ってとくに自分の日常が変わることなんてない。元気よく家から飛び出した自分をサンサンと輝く太陽が出迎えてくれた。


* * *


 愛用の自転車に乗り、住宅街を過ぎたさきに使用している河川敷はあった。
 せっかく汗を流してきたと言うのに河川敷が見えてことには有利の背中はぐっしょりと汗で濡れていた。こめかみに流れる汗を手の甲で拭いながら、有利は苦い顔を見せた。
「あちゃー。かなり増水してるなあ」
 川の水が増水していたのは、予想していたがそれは、自分が予想したよりもかなり増水していた。河川敷に設置してあるサッカーゴールが少し水に浸かり、川の流れも早い。すっかり、暑さと強い風で街全体は大きな水たまりもなく土もからりと晴れているのに、河川敷だけは台風の爪痕を残すように荒々しい川の流れを生み出している。
「……これじゃあ、明日の草野球は無理だな」
 川の水が引いても、おそらく地面は水を含んでぐちゃぐちゃだろう。やはり、今週の草野球は中止にしなければならない。少々残念そうに有利はため息をひとつ吐いて家に帰り連絡網をまわそうと思考し、再びペダルをこぎ出そうとしたとき、微かに悲鳴が聞こえた。
 ペダルを踏む足が止まる。一瞬、幻聴かもしれないと思ったが、確かに川の濁流の音にまぎれて聞こえる悲鳴。
 ……濁流にまぎれて?
 有利の背中に暑さではない汗が伝う。嫌な予感がする。
 耳を澄まして、有利は河川敷の坂をくだり、必死に自転車を声のあるほうへとこぎ出した。
「たすけて!」
 すると、今度ははっきりとその声が鼓膜を震わせる。そして有利は目にした光景に思わず目を見張った。
 河川敷の橋の下には三台のマウンテンバイクと小学生くらいの男の子ふたりが泣きだしていた。マウンテンバイクの台数と人数が合わない。さらにスピードを上げてその場所に近づくと、自転車を止める時間も惜しくて投げ捨てる。
「どうしたんだ!?」
 なんとなく、予想のつく答えを有利は泣きじゃくる男の子たちに問う。すると、一層声を張り上げてひとりは泣きだし、もうひとりは嗚咽をこぼしながら言葉を紡いだ。
「おにいちゃん、たすけて……っ! たい、ちっが、太一が! か、わに落ちちゃったんだっ! たいちがしんじゃうよおっ!」
 男の子が指を指した先には橋の支柱に必死にしがみついている太一と呼ばれる男の子がいた。
 川に溺れた。……それは、薄薄もしかしたら、と有利も予想していたが、改めて聞かせれるとひゅっと息をのんだ。心音が焦りと恐怖で早くなるのを感じる。
 有利は素早く深呼吸を済ませると口早に泣きじゃくる少年たちに指示ををした。
「……いいか、きみたちはこの坂を昇って誰でもいいから、大人に助けを求めるんだ。近くにコンビニがあるからそこでもいい。川で溺れたことを言って公衆電話で119番に連絡する。それは大人に頼んでも、自分でやってもいい。とにかく早く、だれかに伝えるんだ!」
「わ、わかった!」
 幼いこどもでも、いまは一刻の猶予を争うことを理解しているのだろう。有利のことばに焦るあたまのなか、何度も頷いてすぐに坂を駆け上っていく。
「気をつけていってくるんだぞ!」
 走る少年らの背中に声をかけると、再び有利は支柱にしがみつく太一に声をかけた。
「もうすぐ、助けるから頑張れるか!?」
 もう太一の顔色は衰弱している。けれども、有利のことばに安堵したのか、わずかにその瞳に光が宿った。
「が、んばる……っ!」
 太一の言葉を聞いて、有利は強く頷くと周りを見渡し、なにかを探しはじめた。がんばる、とは言ったものの救急車や応援がくるまで彼の体力が持つかわからない。ひものようなものがあれば、それを投げてからだに括りつけたりできるのだが……。
 台風がきただけで、少しも変わらない日常だと思っていたのに、まさかこんなことが起きるなんて!
 常に整備された河川敷にはゴミひとつない。思わず、有利は舌うちをする。
 自分の目の前で生死の一生を左右する事態が起きているのだ。なのに、自分は少年に励ましの声をかけることしかできない。それがとても歯がゆかった。
 濁流はまったく衰えもみせない。ただ、太一の体力を奪っていく。一体どれくらいたったのか、時間の感覚が麻痺したころ、橋のうえから救急車のサイレンが聞こえた。
「ほら! もう助かるぞ! もう少しだけ頑張るんだ!」
 坂の上からは数人の男性がすごい形相で駆け下りてくる。
 もうすぐ、助かる! 太一もその言葉に安心してしまったのだろう。なにかを言いかけたそのとき、開いた口に多量の水が。
「……ぐ、ぅっ!」 飲みこみきれないほどの水が太一の口内を暴れ回る。それは一瞬のことで、息をままならなくなってしまった太一はついに手を支柱から離してしまった。
「あぶない……っ!」
 それを口にしたのは有利ではなく河川敷を下る男性らであった。
 有利がその声を耳にしたときにはもう、自分は川のなかにいた。
 もう頭でかんがえるよりもさきにからだが動いていた。波は思いのほか速く、自分も流されそうになるが、なんとか太一の手を取ると有利は河川敷に一番近い支柱にしがみついた。自分よりも少し高い位置に太一を支柱に支えると、すぐに救急隊員が現れ、こちらに浮き輪を出す。
 運がいいことにそれは、一度で有利のもとにきた。浮き輪は幅が小さく、なかにはひとりしか入ることができない。浮き輪を太一に括ると有利はその後ろに自分もしがみついた。
「引っ張るぞ!」
 慎重に救急隊員が紐を引っ張る。波にからだが揺らぐも、確実に河川敷へと誘導され浮き輪に救急隊員の手がかかった。周りから盛大な拍手が起こる。太一が救いだされ、有利にもその手が差し出されてたとき、歓喜の声が再び悲鳴に変わった。それが一体なんであるかを有利が確認したときには再び有利が濁流の波に攫われた。
「ああ……っ!」
 からだに強い衝撃が走る。どうやら濁流のなかにいくつか大木が紛れていたらしい。それが運悪く有利に当たったのだ。周りの悲鳴も自らの叫びもいまはもう水のなかへと消えていく。しがみつくものもなく流されていく。
 自分は死んでしまうのか。
 恐ろしいまでの恐怖が襲う。息ができない。
 その恐怖も一瞬だった。もう意識さえ、朦朧としたときぐん、と強く腕を引っ張られた。
 有利の意識はそこでブラックアウトした。


* * *


 フーッ、フーッ! とからだのなかから音がする。ぼやける思考で空気が送り込まれているのだとわかった。と、いきなり強い吐き気に襲われて有利は目を覚ました。
「……っご、ぼごほ!」
 勢いよく口から水がこぼれ出す。そして背中をいたわるように擦られた。
 有利の視界に地面が映る。
 ……自分は助かったのか。
 なおも口から多量の水を吐き出しながら、有利が意識をすると頭上から声がした。
「――まったく、あなたは馬鹿ですか」
 呆れているような、それでいて怒りを殺すような男性の声だ。未だ、視界がはっきりしないなかそちらを見れば、ダークブラウンの髪が目に入った。からだに力が入らず、男性にされるがまま、からだを抱きこまれた。
「……あなたには悪いですが、あの少年はあなたが飛びこまなくとも生きる運命にありました。あの子の寿命はいまではないのです。どうして、飛びこんだんですか……」
 寿命? 生きる運命?
 彼の言っていることがよく理解できない。けれど、自分が怒られていることだけは理解できた。まだ、反論するほどの体力もない有利はぼんやりとした声で自分の思いを口にする。
「あんたの言っている意味よくわかんないけど、仕方ないだろ。からだが勝手に動いてたんだ。……でも、よかった。あの子は無事で」
 自分よりも太一のほうが正直心配だった。救急隊員に助けられたときの映像が脳裏に浮かんで自然と有利の顔に笑みが浮かべば、男性はため息をこぼす。
「本当にあなたってひとは……」
「あんたも助けてくれてありがとう」
 相手の言葉を遮って、有利はお礼の述べた。
 本当にあのとき死ぬかもしれないと思った。いや、もしかしたら一瞬は死んでいたのかもしれない。
 ひとの温もりを感じて、安心しきった精神とからだからは自然と涙がこぼれ出した。
「泣かないでください。……ああ、膝から少し血が出ていますね」
 見れば、確かにかすり傷程度ではあったが右ひざから血が出ている。「ちょっと、待ってくださいね」と男性は有利の膝に自分の手を宛がった。その瞬間、有利は目を見張った。そこだけが青白い光に包まれ、彼が手を離したときには血も、傷痕もなかったのだ。
 驚きに一気に意識を取り戻す。
「あんたは……っ!?」
「俺の名はコンラート・ウェラー。あなたに憑く死神ですよ」
 優しく目元を細める茶色の瞳には銀色の星が散っている。
「し、にがみ……?」
 予想だにしない彼の言葉に有利は再び意識を遠のかせた。





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