午前二時の匂い。


 夜もふけて都会にざわめく数々の音もゆっくりと静けさを取り戻す午前二時。それをマンションの窓辺から眺める。静けさを取り戻してもまだ、灯りはついていて星は見えない。今日は一段と帰りが遅い。欠伸まで出る。けれど、まだ寝る気はない。二度めの欠伸を噛み殺したとき、チャイムが響いた。
 彼が帰ってきた。そう思いすぐさま窓辺から離れて玄関に向かい、扉を開ければとろりと溶けた目をした彼が嬉しそうな表情を浮かべている。
「ただいま、ユーリ」
「おかえりなさい、コンラッド」
 朝にはしっかりと着用したスーツもよれて、ネクタイも緩んでいる。コンラッドの鞄を受け取り、室内に招き入れれば、後ろからついてくるコンラッドにソファーの前で強く背中を押された。思わず、ソファーに崩れるとそのまま仰向けにされ、腕を取られる。
 普段優しい彼がこんな強引なことをするなんて珍しい。分かり切っていたことだが「酔っているんだろ」と咎めるように言えば、 答えを口にするかわりに鼻を甘噛みされる。あぐあぐと。直接鼻に酒の匂いがついて歪めるも彼はやめようとしない。
「コンラッド、お酒臭いからやめて」
「……ん、いやです。ユーリは美味しいね」 
 ああ、完全にお酒に酔っているようだ。
 お酒の匂いはあまりすきじゃない。特に残業した帰りの電車。座席に座れるのは嬉しいけど、席に余裕があるほどではない。座れるだけまし……そう思い着席するも混じり合う酒気には思わず顔が歪んでしまう。
 まあ、ついさっき帰宅した彼と同様につき合いで飲みか合わしたりするのだろうから露骨に嫌な顔もそのような思いも抱いてはいけないのはわかっているのだけれど……。
 あぐあぐとまだ犬のようにじゃれる彼の髪を撫でつける。見た目よりもずっと柔らかい髪。するとそこからは普段の彼の匂いがして思わずほっと安堵の息がこぼれた。
 コンラッドの匂いだ。大好きな彼の匂い。
「……熱い」
 酒で体温が上がっているのだろう。緩んだネクタイの結び目に指を差し込むとゆるゆると首を動かしてそれを解いていく。すでに襟元のボタンは外れていて素肌が見える。
その仕草がとても艶めいていて、ユーリの鼓動がひとつ大きく鳴った。「はあ……」と誘うように吐息を掛けられると堪らない。
 思わず顔を背けてしまうと。くつり、と馬乗りになっている男が喉奥で笑う音がした。
 なんだか恥ずかしくなって急激に顔の体温が上がる。
「ねえ、欲情しました?」
「……っ!」
 突然耳元で囁かれた甘い声音に思考がついていかず、「あ、あ」と吃音しか開閉する口からは出てこなかった。それをコンラッドは満足そうに笑う。今度は声を立てて。
自分が動揺していることを見透かされているみたいで悔しくなる。
「……お酒臭いあんたは嫌い。酔ってるあんたも嫌い」
 わざと棘のある言葉で牽制する。酔った彼は普段よりも強気で自分に逃げ場を作ってくれない。少し傲慢なコンラッドが嫌いなわけじゃない。ただ、自分の気もしらないで笑みを浮かべるのを見ているとだんだんと腹立だしい気持ちが胸の辺りからじわりと滲みでるのを感じる。……全く、自分がどんな想いをしていたのか知らないのだろう。
「もうやだ」
 コンラッドどいてよ。
 辛くなって顔を伏せて言う。今、自分がどんな表情を浮かべているのか分かる。怒っているくせに、悲しくて泣きそうでそれを下唇を噛んでやり過ごしている自分の顔はきっと醜いに違いない。そんな顔を見られたくなくて俯く。けれど、いつもより傲慢な男はそれを許してくれず、大きな手でいとも簡単にユーリの顎を掬った。
 どうせ、また意地の悪い笑みを浮かべて笑っているのだろうと思っていたのだが、目に映ったコンラッドの表情は自分の思い描いて異なるものであった。
「……怒ってる? ごめんね、ユーリ」
 眉尻を下げて頼りのない彼の表情に、先ほどとはうってかって覇気のない声音。
「おれが怒っている、怒ってないの前に。わからないで謝られても困る」
 仕事で疲れた彼に、優しい言葉を掛けるべきだと頭では思うのだか、まだまだ心はそこまで大人になれなくて気がついたときには自分の思いが口に出ていた。
 それでいて、こういうときに限って素直に謝罪の言葉が出てこない。……嫌なところだけ大人になったものだ。
 優しい彼はそんな自分を優しく抱きしめてくれる。コンラッドの胸元はさほど酒臭くなかった。
「俺が帰ってくるまで、起きて待っていてくれてありがとう。それから、調子にのってすみません。あなたの顔をみたら嬉しくて……つい、甘えたくなってしまいました」
「顔なんて毎日合わせてるじゃん。一緒に住んでいるんだから」
「一緒に住んでいるからあなたの顔を見なくていいなんて思ったことありませんよ。今日だって接待をしている最中もユーリのことを思い出しては早く帰りたくて仕方がなかった。……電車に揺られながら寂しい気持ちが渦巻いて泣きそうにまでなっていたんですよ?」
 自分を抱きしめる肩が揺れる。コンラッドの顔は見えないがそれでも、今度こそこの男がどのような表情を浮かべているのが分かる。それが愛おしくて彼の背中に手を回した。
「……変な態度とってごめん。おれも寂しかった。なのにコンラッドはなんだか上機嫌だからおれだけがこんなことを、寂しいと感じてるのかって思ったら、なんだかもやもやしちゃって。すごく、嫌だったんだ。……お酒の力だってわかってるんだけど、本当にごめん」
 今度は素直に謝ることができた。まだ、一言多いけれど。
「……ユーリ」
 安堵した息の音がする。それに甘えるように胸に頬を擦りつけた。
「お酒の匂い、嫌いなんでしょう? そんな可愛らしいことをするとせっかくお風呂に入ったでしょうに、匂いが移ってしまうよ」
「そんなのおれの鼻をあぐあぐしたときから今更な話だろう。……それに、コンラッドのならお酒の匂い、許せちゃうかも」
 そう答える自分の声音がやけに甘いことに苦笑する。
 彼の匂いなら許せるなんて、なんて現金なやつなのだろう。思うが、それが正直な感想だった。酔ってほとり、と溶けた瞳も笑顔も色香も見ることが嫌いじゃなのだ。そうでなければ、胸を弾ませることも怒りを覚えてしまうこともないのだから。
「……じゃあ、キスしてもいい?」
 身体を離した彼が問う。少しだけ強気な色を瞳に戻して。夜の灯りにほんのり照らされた瞳にはきらきらと銀色を星が散っていて、そこに都会の星をかき集めたようにみえる。そんなことを思う自分も少なからず酒の匂いで酔ってしまったのかもしれない。
 答えを口にする代わりに、彼に向って手を伸ばした。すると、再びコンラッドの顔が近づいて薄い唇が自分のものと重なる。触れるそれは思いのほか温度が低く火照った自分には心地がよかった。下唇を彼の舌がなぞり、小さく口を開けば割って自分のものを絡まる。静かな部屋に淫蕩な水音が響く。それがいやらしくて優しい。離せば、唾液が糸を引いた。
「やっぱり、お酒臭い」
 気恥かしくてまた悪態をつけば、照れかくしだということを分かっている男は笑った。
 お酒はあまり好きじゃない。お酒の匂いも好きじゃない。けれど彼が纏えばそれだって愛おしい。待っている時間はそれこそ寂しかったが、いま目の前に彼がいるならそれでいい。今日もいつもと同じように一緒に一緒に寝るのだ。
 酒に酔ったふりをして、コンラッドの鼻を甘噛みする。
 
 お仕事お疲れさま。

 まるで獣のように鼻を擦り合いながら、愛しい人にもう一度、労いの言葉をかけた。


END
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