失言 「あんたなんか大っ嫌いだ!」 ついさっきまで、穏やかな雰囲気だったのにどうしてこんなことになったのだろう。 コンラートは、自室の床に落ちて粉々になったティーカップを拾いあげながら小さく息を吐く。 もうもとに戻らないカップ。飲むことがかなわない紅茶。 ユーリがカップを選んで自分に淹れてくれた紅茶。一口しか飲むことができなかった。 今日は、一日ユーリの仕事が休みでその貴重な休みを彼は自分と過ごしたいと言ってくれた。それだけでもうれしいのに、ユーリは自分のために紅茶を淹れたいと申し出てくれた。 そうして始まった自室でのふたりだけのお茶会。いつも自分が淹れていたのを見ていたのだろう。ユーリはときおり戸惑いながらも自分が淹れる手順で紅茶を入れる。カップをお湯で十分温め、茶葉を丁寧に蒸して香りのいい紅茶が差し出され、それを口をつけたところまではよかった。 紅茶は本当に美味しくて、少々緊張している視線をこちらに向ける彼に「美味しいですよ」と感想を述べた瞬間、空気に亀裂が生じた。 ユーリの顔から笑顔が消え、表情がなくなったかと思うとコンラートの手に持っていたティーカップが彼の手によって叩き落とされ床へと叩きつけられる。陶器が割れる音が室内に響く。 ユーリ、と問いかけたい言葉は彼の怒りに満ちた声でかき消された。 「なんで、あんたは……っ!」 怒っているというよりは、泣きそうな表情と言ったほうが正しいのかもしれない。 肩を震わせて、ユーリはコンラートを睨んでいた。向けられる鋭い視線にコンラートの喉が鳴る。 「なんでコンラッドはいつもいつもそんなこと言うんだよっ!」 彼の言っている意味がコンラートにはまったくわからなかった。素直に美味しい、と言っただけなのに、一体何がユーリの逆鱗に触れたのだろう。 コンラートが慌てて弁解するも、ユーリは一切を聞き入れてくれなかった。そんなことじゃない、あんたはなにもわかっていない、と繰り返すだけで。 では、何がいけなかったのですか、と尋ねればさらにユーリの怒りを買うことになった。冷静になってあのときのことを考えれば、たしかに考えもせずにすぐに相手に答えを欲する行為はよくなかったと思う。けれども、コンラートからしてみれば怒りを買うような発言をした覚えはないし、それ以上に彼を怒らせたということが自分の焦りを生み冷静な対処をすることができなかった。しまいには、部屋を出ようとしたユーリを追いかけようとした際「理由もわからないのに謝るな! ついてくるな!」とまで言われてしまい、のばした手は宙をさまよった。 回想すればするほど、ユーリの考えていることがわからなくなり、自分の発言のどこに失言があったのか考えても見つけることのできない自身が情けない。 今頃、ユーリは自室で泣いているのかもしれない。想像すると、胸が痛くなる。 こんなはずではなかったのに。 ティーカップの破片を拾い終えて残るのは、紅茶の水たまり。コンラートはそこに指を滑らせて、舐める。 あんなに美味しかった紅茶は、なんの味もしなかった。 「――へえ。それでそんな情けない顔して、城内をうろついてたの?」 夜の帝王という名もかたなしだね。と、眼鏡のフレームを指で押さえながら少年はコンラートにせせら笑う。 「……猊下」 ユーリ陛下の親友であり、双黒を持つ少年。猊下と呼ばれる村田健は、コンラート返答に「だって、本当のことじゃないか」と返した。 「きみもそう思うでしょ。ヨザック」 「ええ、猊下の仰るとおりで」 猊下のティーカップにお茶を注ぎ足しながら、グリエ・ヨザックも同意の言葉を口にする。 「あんたはいつも余計な言葉が過ぎるんですよ、隊長」 コンラートはユーリの怒りを買った原因を考えながら割れたティーカップを厨房へと運ぶ途中の回廊でテラスで中庭のテラスで優雅なお茶会をしている猊下に声を掛けられたのだ。無視するわけにも行かずにふたりの場所に赴けば、なにやら楽しそうに猊下は笑い「渋谷とけんかでもしたの?」と尋ねられ、いまに至る。 「僕でよかったら相談に乗るよ」と言った少年の表情はまるで新しいおもちゃを見つけたような顔をしていて、正直話したくはなかった。けれどもそういう訳にもいかないのも重々承知している。 コンラートが、渋々話をすれば猊下は「やっぱりきみは馬鹿だね」と言った。 「ウェラー卿はいつだってそうだ。渋谷がきみに寄せる行為を無下にするんだ。誰のために紅茶を淹れてくれたのかわかってるの?」 ユーリのときと同様、猊下の仰る意味がわからずコンラートは眉根を寄せる。すると、猊下は視線をヨザックへ向けて「ヨザックは誰に対して紅茶を淹れているんだい?」と質問を投げた。 「もちろん、オレは猊下のために淹れましたよ」 と、即答する。その答えに猊下は「きみは優秀だね」とヨザックを褒めた。言葉を裏返せばコンラートはどうしようもないね、と言っているのがわかる。コンラートは自分とヨザックの違いがわからない。 自分だってそうだ。それくらいわかっている。ユーリは自分のために紅茶を淹れてくれたことくらいは。一体なにが違うのか。 「猊下」「なんだい?」 「……どうか、教えてください。自分とヨザックは一体なにが違うのでしょう」 深々と頭を下げてコンラートは猊下に答えを請う。 猊下が答えを教えてくれるとは思っていない。けれどこれ以上答えがみつからないのにこの場にいても時間の無駄だとコンラートは思った。なら、さっさと自分に見切りをつけて退席をさせてほしい。 猊下はコンラートのほうをみることなく、呆れたように息を吐いた。 「きみは、渋谷のためなら簡単に頭を下げることも厭わないよね。そこまで、渋谷のことを思うのならもっと考えて発言したらいいのに。ウェラー卿、きみは渋谷の想いになんて答えたのかちゃんと考えたのかい?」 「ユーリの淹れた紅茶が美味しいと……」 「違うよ。問題はそこじゃない。重要なのはきみのセリフだよ。ヨザック、きみが借りに僕に紅茶を淹れてもらったとしよう。ヨザックなら、なんて答える?」 問われて、ヨザックは一度コンラートに勝ち誇った笑みを向けたかと思うと一拍間を置いてから口を開いた。 「オレのために紅茶を淹れてくださってありがとうございます。とても美味しいですよ。……ですね」 「上出来だよ、ヨザック。褒美にいつか気が向いたら僕が紅茶を淹れてあげるよ。ま、忘れなかったらだけど」 猊下はヨザックの答えを褒める。 ヨザックの答えを聞いてコンラートはますます意味がわからなくなった。自分と同じではないのか。口端が微かに震える。その些細な顔の表情を猊下は見逃さなかったのか、小首を傾げた。 「え、きみまだわからないの?」 「はあ……」 「隊長、本当に坊ちゃんのこととなるとだめな男なんですね」 そんなことを言われても、わからないものはわからない。コンラートは「自分の答えとどこが違うのでしょうか」としか返事をすることしかできなかった。 「相当重症だね。あー……ここまでくると、渋谷が怒るのもわかるなあ。僕だったら、その顔にあっつい紅茶をぶっかけてるところだよ。あのさ、ウェラー卿。きみとヨザックの違いはヨザックには余計な言葉がないところだ。もう一回自分の言葉を思い出してごらん。まったく同じじゃないだろう」 猊下は苛立った声音を隠すこともせず、いつの間にか飲み干した紅茶を再びヨザックに淹れるように催促すると、ヨザックは「猊下はやさしいですね」と苦笑いを浮かべる。 コンラートは小さく口のなかで自分が言った言葉を転がして「あ」と声を漏らした。 やっと、わかった。 無意識に口にしていた失言を。いまさら理解する。 「わかったかい? 渋谷は僕でもヨザックでもだれでもなく『コンラート・ウェラー』という人間に紅茶を淹れたんだ。でも、紅茶の件だけじゃない。いつも彼がきみに対して無意識とはいえ口にしていたことには違いないんだ。だから、渋谷は怒った。渋谷は自分を大切にしないひとがなにより嫌いなんだよ。ウェラー卿の無意識的な自己嫌悪で彼を傷つけないでくれ」 そうだ。彼は自分のためにしてくれたのだ。わかっている、なんて言っていたが自分はわかっていなかった。 コンラートの胸に猊下の言葉が突き刺さる。猊下ははなしを続けた。 「ウェラー卿は、渋谷がそんな言葉を使ったら怒るよね? もっと自分に自信をもってくださいとかあなただからとか説教たれるんじゃないの? それなのに、自分はああいう言葉を使うなんて最低なんじゃないかな」 「もっともです。……申し訳ありませんでした」 コンラートはもう一度深く礼をした。土下座をしてもいいくらいの言葉をもらい、また、もっと早く気がつくべきだったと下唇を噛む。 「本当だよね。ああ、なんでこんなネガティブな人間が好きなのか渋谷の趣味を疑うよ。だけど、そんな渋谷が僕は大好きだから今回はきみに優しくしてあげたんだ」 「はい。本当にありがとうございます」 「隊長。もっと坊ちゃんを大切にしてあげてくださいよ。それから、さっさと坊ちゃんにも頭を下げてくるべきじゃないんですか」 「今日のヨザックは頭が冴えてるねえ。そうだよ、ウェラー卿に遊んでるひまなんてないよ」 ほら、さっさと行っておいで。 自分で呼び止めたことなど忘れたように猊下は紅茶に目を移して空いている片方の手をひらひらとコンラートに向ける。 コンラートは綺麗にからだを折ると「失礼します」と自室で引きこもっているユーリのもとへと足を向けた。 背後から声が聞こえる。 「痴話げんかはよそでやってほしいよね」 「まったくです」 コンラートは後ろを振り向かなかった。 「……ユーリ、ここを開けてください」 そうして、足早についた魔王陛下の部屋。その扉のまえにコンラートは立っていた。 扉をノックするが反応はない。だが、彼のいる気配はする。 「遅くなって申し訳ありません。やっと自分の失言に気がつきました。あなたの顔をみてちゃんと謝りたい。だからどうかここを開けてくれませんか」 もう一度、問いかけるようにノックをすれば数秒の間があいたあと小さく扉の向こうから声が聞こえた。 「鍵、あいてる」 開いている、ということは部屋に入ってもいいということだろうか。コンラートは勝手に解釈すると室内に足を踏み入れた。ユーリは、寝台の縁に腰かけてこちらを向いてはくれなかった。「……で?」と、ただ、低い声で一言呟くだけで。 コンラートは彼のまえにひざまずくと「すみませんでした」と謝罪の言葉を口にする。「悪気はなかったんです」と言えば、頭上から小さく息を吸う音がしてそれから苛立った声でユーリは「悪気があったら、もっと怒ってるよ」と静かに返事を返した。 「あんたに悪気はないってわかっててもこんなに苛々するんだから。で、本当にわかったの?」 ユーリの言葉にコンラートは頷き、彼の顔を見上げる。 「俺『なんか』のためにと、言ったこと本当に申し訳ありませんでした」 ――俺なんかのために紅茶を淹れてくださってありがとうございます。とても美味しいですよ。 自分に自信がないわけではなかった。謙遜でもないと思う。が、無意識に自分は言ったのだ。あたりまえのように『俺なんか』と口しすぎで気がつかなかった。なんか、は自分を否定する言葉だ。 「……ユーリは俺に淹れてくれたのに。あのような言葉使用するべきではありませんでしたね」 「あんた、気がつくのが遅いよ……っ」 ユーリの顔が歪み、シーツを叩く。 「コンラッドが俺なんかって使うたびに悪気もそういう気持ちで使ってるわけじゃないってわかってる。でもさ、言われるとやっぱり苛々するし、傷付くんだよ! なんであんたは『俺なんか』って言うんだ。コンラッドはコンラッドでしかないし、おれはあんただから淹れたんだよ。あんただから好きなんだ。自分を否定したり、あんたが好きなおれのことを否定するな……っ」 感情が高揚したのか、ユーリの話している声が途中から涙ぐんだものになっていた。コンラートが彼の目尻に浮かぶ涙を指で拭おうとしたが払いのけられる。 「ごめん、ユーリ」 「うるさい」 謝ることはだれにだってできるんだよ。と、ユーリはコンラートをねめつける。自分のせいで彼に不愉快な思いをさせたことは心苦しく思うのにどうしてこんなにも幸福な気持ちになるのだろう。コンラートは、立ちあがりユーリを抱きしめた。 「今日からは『俺なんか』は使いません」 「……絶対言うなよ。二度めはないからな」 「ええ」 言葉がこんなにもひとを翻弄させるなんて知らなかった。自分の何気ない言葉ひとつでだれかを傷つけることなどないと思っていたから。 「なんで、コンラッド笑ってるんだよ」 抱きしめているから顔はみえないはずなのに、ユーリにはコンラートが笑っていることがわかったようだ。「反省してないの?」と問われてコンラートは首を横にふる。 「いいえ。ちゃんと反省しています。もう二度と言いません。ただ……」 「ただ?」 「あなたが俺をこんなにも好いてくれることがうれしくて」 思わず笑みが零れたんですよ。と、コンラートは愛しいひとの耳元で囁いた。するとユーリはコンラートの背中に手をまわす。 「ちゃんと、好きだってわかれよ」 「はい」 彼の声音とふたりを包む雰囲気が柔らかく明るいものになっていくのがわかる。コンラートがユーリの首筋に顔を埋めていると彼は小さく「おれのほうこそごめんなさい」と小さく呟く。ユーリはまったく悪くないのに。コンラートが「あなたは悪くないです」と言えば彼はそれを否定する。 「あんなに怒ることなかったかも。それにカップ割っちゃったし」 「いいんですよ。今度一緒に城下町で新しいティーカップを買いましょう。そしたら、また俺だけに紅茶を淹れてくれませんか?」 顔を上げて甘えるようにコンラートはユーリの頬にキスを落とすと、彼はきょとんとした顔をみせ、それから声を立てて笑う。 「あんたもちゃっかりしてるよな。いいよ、コンラッドだけに紅茶淹れてやる」 じゃあ、仲直りの印な。とユーリもまたコンラートの額にキスをする。 「ありがとうございます」 コンラートはそれを幸せだと感じて、ユーリにつられるように笑みを溢した。 END |