彼の癖。

 誰にだって、癖はある。
 ほとんどの癖は当人の無自覚で直すのには意識を持ち直す気力がなければ、直すことは難しい。
 たとえば、箸を舐める癖や、書類などを手にしたとき自分の指を舐めて湿らせてから紙の枚数を数えたりする癖、鉛筆の持ち方。それらは自身の癖が、多くの他者に対して不愉快になる行為であれば、そのつど大人になるまでに親や親しいひとが悪い癖だと教え大抵のひとは悪い癖だと自覚し、癖を直すことができる。
 けれど、癖にも様々なものがある。その癖が当人の才能を開花させることもあれば、新たなきっかけを作ること鍵となる場合もある。けれどそうものは希少な癖だ。
 多くのひとが持つ癖はそのようなものではなく、そのひと自身の魅力を引き出すもの。それはいいことだ。
 だが、その魅力を引き出す癖にコンラートは頭を悩ましている。
 執務室の壁に寄りかかり、頭を抱えながら必死に書類に目を通しサインをする主の横顔を見てコンラートは小さくため息を吐いた。
 ……本日、六回目だ。
 主、ユーリの癖は季節が冷えて空気が乾燥してくると現れる。とくに今年は急激に冷えてきたのもあってか、昨年はあまり見られなかったその癖が頻繁に見られるようになってきた。分厚い古書に目を通している王佐ギュンターや、その癖をみるほど暇ではない王の摂政を務めているグウェンダルには彼の癖を知られてはいない。しかし、魅力ある彼の癖はふとした瞬間に現れるので本当に厄介だ。
 ユーリの癖を、ギュンターやグウェンダルに知られるまえにどうにかこの癖を治してもらわないといけないな、と少し考え事をしていると低い声がコンラートの名を呼ぶ。
「……コンラート」
 グウェンダルだ。眉間のしわがひとつ増えている。視線を合わせれば「集中力が疎かだぞ」と窘めているようだ。
「はいはい。申し訳ありませんでした、グウェンダル」
「……うむ」
 肩を竦めて、コンラートが言うとグウェンダルは未だ不満そうな表情を見せていたが、納得してくれたようだ。
「……コンラッド?」
「いえ、なんでもないですよ。陛下」
 自信のあったポーカーフォイスもまだまだのようだ。



* * *



「なあ、コンラッド」
「なんです?」
 無事今日も何事なく平和な一日が終わりを告げようとしている、そんな夜更け。ユーリはコンラートの自室を訪れていた。風呂上がりの温かくなったからだが冷えないようにと出したホットミルクをちびちびと飲みながら、ユーリはふと思いついたように口を開いた。
「悩みごとっていうほどじゃないけど、最近コンラッドなにか考えごとしてない?」
「どうしてそう思うんですか?」
「……思うんですか? って質問を質問で返すなよ。聞いてるのはおれなの。勘だよ、勘。なんとなくってやつ。大概あんた関連の勘はおれ外さないから、気になっただけだよ」
 たぶん昼間グウェンダルがあんたを呼んだのも、そういうぼんやりとした顔をしてたからだろ、とユーリはなんでもなさそうに言葉を続けた。
 知られたくはない、と思っていた彼にもすでに自分が考え事をここ最近していたのがばれていたらしい。
 ……まいったな。
 コンラートは嘆息すると、言おうか言いまいか少しだけ考えて言うことに決めた。自分が気になるユーリの癖をいつか言おうと決めていたのだからここで話を逸らしたとことでのちのち話すことには変わりないのだから。言ったところでユーリは呆れ顔をしてコンラートのことを考えすぎだよ言うのが容易に想像できてちょっと複雑な心境ではあるが。
「ユーリの癖について、ですよ」
「……おれの癖?」
 ユーリが小首を傾げるとまたその癖が現れる。
「それです」
「それってなんだよ?」
「唇を舌で舐める癖。……空気がかさついて無意識に乾いた唇を潤そうとしているから現れているような癖ですが、少し目にあまるんですよ」
 言えば、ユーリは訝しげな瞳をコンラートに向けた。
「はしたないってこと?」「いえ、そういわけではなくて……」
 いざ、本題を口にしようとすると躊躇うものがある。
「ここまで言ったんだから、ちゃんと最後まで言えよな。ひとから見て、そんなに悪い癖だったらリップクリームを使うとかしておれも直す努力するし」
「リップクリーム、いい提案ですね。別に見て不快になる癖ではありませんが、その仕草がちょっと色っぽ過ぎるんですよ」
「……はあ?」
 ええ、そういう表情を浮かべると思いましたよ。
 コンラートは苦笑いを見せる。
 このひとはひとの長所などを見つけたりすることにはたけているが、自分のことになるとその能力は一切、力を発揮しないのだ。無自覚でいるがうえにタチが悪い。理解しているとはいえ、やはりどうにも煮え切らない気分になる。
「色っぽいって自分には似合わない言葉だと思っているようですが、他人から見ればそうではないんですよ。最近、ユーリは少年から青年になる不安定な成長期に心もからだも入りましたら、可愛らしいという表現よりも綺麗、美しくなられたからその癖が一段と一目を引くんです」
 言うと、ユーリは「美しくなった言われるよりも、格好よくなったの方が嬉しいんだけどな」と唇を尖らせる。コンラートは「もちろん、男前で格好いいのも変わりませんよ」と返答した。
「そういうのって惚れた欲目ってやつじゃなくて?」
 ユーリは言って自分の口にした「惚れた欲目」という部分で微かに頬を赤らめた。こういう初心なところは相変わらずで可愛らしい。
「もちろん、惚れた欲目もあります。ですがそれを置いても、舌で唇を舐める癖はひとを魅了していますよ。今日の午後の休憩にお茶出しをしたときも下女が頬を赤らめていましたから。それに、最近ユーリ陛下は一段と美しくなられたと城内のそこかしこで耳にします」
 無意識に舌で唇を舐める仕草。一時的なものであるが、それをすると唇は潤いを取り戻し、そして唇に赤味がさして妖艶な色気がするのだ。どこか物欲しいような仕草にも見えて中性的な顔立ちをしている彼の魅力をより一層引き出す。ユーリは「考え過ぎだよ」と言ったが、コンラートは素直に頷くことができなかった。
「コンラッド」
「はい?」
「おまえ、ちょっとここにしゃがめ」
 小ぶりのローテーブルにユーリはマグカップを置くと、自身が座っている木製チェアーのしたを指でさす。コンラートはそれに従うと床に膝をついた。
「えい!」
「ちょっと、なにするんですか!」
 途端に髪に手を差し込まれてくしゃくしゃと弄られてコンラートは思わず声をあげる。
「また顔がへたれてるもんだからつい、ね。自覚ないけど、わかった。唇舐める癖は直すように努力するよ。おれの癖が出たときは言ってくれな。……ってなんだよ。そのきょとんとした顔は。それじゃだめなのかよ」
「いえ、そういうことではなくて……」
 まさか、ユーリが素直に自分の言葉を聞き入れてくれるなんて思わなかったのだ。以前の彼なら考えすぎ、と話を流してしまっていたから。
「心外だな。おれだって、あんたのこと考えてるんだよ。コンラッドあんまり我儘言わないし、なによりおれはこう見えても好きなやつの言うことはちゃんとできる限りで聞いてあげようって思ってるんだから」
「……俺は、幸せ者ですね」
 誰もが恋い焦がれて止まないひとに我儘を聞いてもらえるなんて。
 コンラートが言うとユーリは髪に差し込んでいた手を頬に滑らせて微苦笑した。
「そんなおれは、人気者じゃないよ。少なくても『渋谷有利』は誰もが欲しいと望んでくれるような大物じゃない。ただの渋谷有利っていう人間を好きになってくれたのはきっとあんただけだ。大袈裟なんだよ」
「あなたが気がつかないだけですよ」
 首を横に振り添えられた手に自分の手をコンラートは重ねた。
 どんな些細な癖も誰かを魅了してしまうのではないかと不安になってしまう、器の小さな自分。弱い心をユーリは優しく癒してくれる。
「おれだって相当コンラッドに理不尽な我儘言ってるんだから、これぐらいの我儘聞かなきゃわりに合わないだろ」
 コンラートはひとまわりもふたまわりも年下の主の膝に甘えるように頭をのせて温かな温もりに幸福を感じながら目を閉じる。
「でもさ、おれ忘れっぽいからリップクリームとかこっちに持ってくるの忘れそうなんだよな。こっちに代用品とかある?」
「そうですね……母上やギーゼラなら知っているかもしれませんね。俺が知っている限りでは一番使用されているのは、はちみつかと」
 しかし、はちみつは塗ってからしばしの間、唇を地球でいうラップのようなもので覆っていなければならないと説明すればユーリは「めんどうだな」と小さくため息をついた。
「明日、午後からお仕事お休みでしょう? そのとき、城下町におりてみましょう。なにかあると思いますよ。どの時代の女性も美容とファッションは気に掛けますからね」
 言えば「さすがは夜の帝王。わかってらっしゃる」とシニカルな笑みをユーリは浮かべた。
「そういうんじゃないですよ。あのような恋多き母親を持てば、否応なくそう感じるんです」
「ああ、ツェリ様はそうだね。……ま、癖直しは明日からってことで。今日までは大目にみてくれよ。あんたしかいないんだし」
「いいですね、それ」
 なにが? と尋ねた小さな唇にコンラートは自分のもので掠めるように触れる。ホットミルクを飲んでいたからか、ほんのり甘い香りが鼻腔を擽った。
「あなたの癖、俺だけが知ってる癖になったら嬉しいなって思ったんですよ。今日のところはキスで代用しましょう。ユーリの唇が渇くのを防ぐためにずっとキスをするんです」
 言った途端にユーリが肩を震わせて笑い声を立てた。
「それじゃ、いつも通りじゃん。と、いうか唇が腫れぼったくなりそうだし、どうせそれだけじゃ済まないんだろ」
「もちろん、そのさきもさせていただきますよ」
 改めて膝を折り、騎士にでもなったつもりでユーリの手の甲にキスをする。すると今度はわざとらしくユーリは舌で唇を舐めた。最近、彼はひとを誘うのが上手くなったと思う。
「……いけないひとだ」
 立ち上がり、最初は触れるようなキスをし掛けて、かさつくユーリの下唇を潤すように己の舌でなぞる。だんだんと深くなるキス。互いの体温と息があがる。「午前中からお仕事お休みしないといけないことになりそう」と笑うユーリにコンラートもつられるようにして笑った。
「あなたの癖が魅力的だから、仕方ありませんよ」
 コンラートは取ってつけたように何度目かの同じ言葉を口にして、ユーリを抱き上げると寝台へと運んだ。


END
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