しい子猫と隠しごと


 大きい三角のふたつの耳がぴこぴこ。長い黒尾が付け根のほうからゆらゆら。
 可愛らしい眉は額にきゅっと寄ってなんだか自慢の可愛い黒猫子猫のユーリは難しい顔をしている。
「大丈夫?」
「だいじょーぶっ」
 尋ねれば、子猫は俺に顔を見せず、ひたすらにそれとにらめっこしている。丸い眼鏡の嫌に賢いにもらった子猫特別用の算数ドリルと。いま、ユーリが格闘しているのは文章問題。言葉のなかにちょっとしたひっかけがあり、それに頭を悩ませている模様。一日にかならず一ページ分勉強をする。俺は手を出したくなる衝動を夕食後のコーヒーを飲みながら見守る。
 子猫は頑張り屋さんで、ひたすらにまっすぐで、わからないところがあってもすべて自分で一度は解答を埋めて、答え合わせで間違えたらアドバイスをもらうと自分のなかでルールを決めているようだった。なので、それがどんなにもどかしいと思うものの俺は手を出すことができないのだ。
「うー……ん。う? こうかな?」
 小さな手のひらを使い指を折り曲げたり広げたりを繰り返しながら、やっとのことで最後の問題の答えを埋める。
 と、解答に書く数字を間違えたのか紙に書いた文字を消そうとしたとき、ころり、とテーブルから消しゴムが落ちる。
「あっ!」
 消しゴムはとなりに座っていた自分のほうへと転がって、それを拾い上げた途端、ユーリは慌てたように声をあげた。
「こんらっど、だめ! とっちゃだめ!」
「え?」
 拾い上げた消しゴムはもう自分の指にある。俺はユーリの声に驚いて、思わず落としそうになってしまった。すると、使い古された消しゴムは小さく角が丸みをおび、消しゴムのカバーが外れて、床に落ちる。
「こんらっど、みちゃだめなの!」
 見ちゃだめ? カバーのとれた白い消しゴムには、えんぴつでなにかが書かれている。落書きしたのを見られたくなかったのだろうか。小さくてもう書かれたものはほとんど消えかかっているが、消しゴムに書かれたそれを見た瞬間、息を飲んだ。
「……俺の名前?」
「うううっ、みちゃだめっていったのに……っ」
 もとより、顰められていたユーリの眉が下がり、泣きそうな顔で俺を見上げる。意味がわからなくて困惑しながらも、子猫の頭を撫ぜながら問う。
「見てごめんね。でもどうして、消しゴムに俺の名前を書いたの?」
「……な、なんでもないのっ」
 言いたくないらしい。しかし、気になるものは気になる。何度か尋ねるものの、ユーリは頑なに理由を教えてくれようとはせず、ふるふると首を横に振ったり「ごめんなさい」と口にする。
「なんでもないなら教えてほしいな。ごめんねって謝らなくていいんだよ。ねえ、お願い教えて? 俺はユーリのことならなんでも知っていたいんだ。隠しごとされるのはさびしいよ」
 子猫を責めているわけではない。けれど、最後のほうは自分の気持ちが声音ににじみ出てしまい、どこか責めているような口調だと自分でもわかり、自己嫌悪する。
 本当に俺は心が狭い男だ。
 子猫の些細な隠しごとさえ、気になってしかたがないなんて。
 ユーリが下唇を噛む姿に、これ以上の詮索はいけないと「もう、いいよ」と言いかけたとき、子猫の声がそれに重なった。
「こんらっどにゆーりのことすきになってほしかったから……っけしごむにこんらっどのなまえかいた、のっ」
「それはどういう……」
「てれびでみたの。おまじない。すきなひとのなまえをけしごむにかいて、だれにもみつからないようにぜんぶつかったらじぶんのことすきになってくれるって、だから、だからかいたの……っ! でも、こんらっどにみつかっちゃったっ」
 子猫の声は最後には涙声になっていて、大きな黒い瞳からは涙がぼろりと頬を濡らした。その涙を子猫は慌てて拭い、俺はユーリを自分の胸へと引き寄せた。
 消しゴムはユーリと過ごすようになってからずっと使われていたものだ。いつからおまじないをしていたのだろう。いつから、好きになってほしいと思ってくれていたのだろう。どれだけ年を重ねようと、好きを口にしようとも、好きであればあるほど、不安になる。その気持ちをきっとこの小さな猫は胸に隠しながら、自分のとなりでおまじないを続けていたのだ。
 胸にとめどない、愛おしさが募る。
「大丈夫だよ。おまじないなんてしなくても、俺はもうユーリのことが大好きなんだ。ずっとまえから、出会ったその日から好き。そしていままでのおまじないが俺がきみを好きな気持ちをもっと強くしてくれた。これ以上続けられたら……泣いちゃうよ」
「な、く? かなしいの?」
 ユーリが不安そうに俺の頬を撫でる。その手に自分の手を重ね、子猫の手のひらにキスをした。
「嬉しくても涙は出るんだよ。ユーリもそれは知っているでしょう?」
 いま、俺はきっと情けない顔をしているに違いない。この子にしか見れられない恥ずかしい顔を。
「……こんらっど、ほんとに?」
「俺はユーリにうそなんてつかないよ。ユーリは特別なんだ。愛してる」
「ゆーりも、ゆーりもすき! だいすきっ」
「うん。ちゃんと知ってるよ」

 愛しい子猫と隠しごと

 小さな黒猫子猫はたくさんの強力な魔法を持っている。
 自分を好きになれなかった俺が、自分が自分でよかったと思える、好きになれる言葉の魔法を。
 俺は、手のひらにある消しゴムを握りしめた。


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