しいきみのために


 考えたこともなかった。自分がこんなことをやるなんて。黒猫子猫のユーリをベッドに寝かしつけた後、俺は準備をするために静かにリビングへと移動するとパソコンの電源を入れて、週末に向けての書籍とノウハウを出来るだけ習得するためにネット内を錯綜する。まだ、週末まで時間があるというのにもう胸は緊張でいっぱいだ。そうだ、成長すれば、体を自然と大きくなる。と、言うことは髪が伸びることも当たり前なのだ。

 今週の日曜日、俺は初めてユーリの髪を散髪する。

 失敗はしたくない。



 ことの始まりは、いつものお出迎えだった。
 春になり、より活発的に動くようになった子猫は冬よりも少しばかり早く扉が開くと同時に駆け寄ってきた。
「こんらっど、おかえりー!」
 ててて、と軽やかな音を立てて笑顔で迎えられると頬が嬉しくて緩んでしまう。いつもと同じように玄関にしゃがみ元気のある包容の体制受け入れる体制をとる。可愛い黒猫もその様子をみて駆ける足を強くした途端、
「――っあぅ!」
「ユーリ!」
 駆け出した瞬間にはもう遅い。ユーリは足を滑らせてしたたかに床に体を叩きつけた。
「大丈夫!? どこが痛い?」
「んん、おひざがちょっとひりひりするけど……ゆーりはつよいこだからないたりしないよ」
 心配させまいと言っているのか健気な子猫は自力で立ち上がると、大きな瞳に涙の膜を貼りながらもはんなりと笑みを見せた。そのとき気がついたのだ。前であればユーリのその大きな瞳が上手く見えないことに。突発的に子猫の元へと走り出したために、脱ぎ忘れた靴を玄関に投げると、そのままユーリ抱きあげてリビングにあるソファーへと向かう。幸い、足は挫いていなかったようだ。しかし、打ちつけてしまった膝は赤く数日痣になってしまいそうではあるが。
「……髪が伸びて、あまり視界がよくないみたいだね」
 一緒にいて、以前よりは髪は伸びたな、と思うことはあったがさして気にしたことはなかった。艶やかな前髪をかきわけなければ、いけないほど伸びていたと言うのに。
「あんまり、きれいな黒髪だから切れなかったっていうのもあるんだけど……」
 でも今回の転倒は髪の長さもあるのだと思う。
「ユーリ髪を少し切ろうか?」
「かみのけ?」
 これ? と自分の前髪を一房とって子猫は首を傾げた。その一房にキスを落として俺はそうだよと頷く。
「近所に散髪してくれるところがあったと思うから、そこで髪を切ろう。……ん、どうしたの? ユーリ。髪切るの嫌? 怖い?」
 わずか瞳が曇ったように見えて、問うてみればユーリはふるふると首を振り、ぎゅっと抱きついてくる。
「そういうのじゃないけど……あのね、こんらっどがゆーりのかみのけきっちゃだめなの?」
 きっと駄目と言えば、わかったとこの子は頷くのだろう。でも、出来るならば自分に切ってほしいと願うささやかな願いを無下になどできるはずがない。おそらく怖いのだろう。初めてのことだ。知らないひとに囲まれて髪を切られるのは子猫にとっても相当ストレスが溜まるかもしれない。だから、俺はすぐに答えた。あと数日で切る綺麗な髪を名残惜しげに撫でながら。
「……わかった。ユーリの髪の毛は俺が切ろうね」

* * *

 いよいよ迎えた日曜日。バスタオルをユーリの首に巻いて、テーブルの上には沢山の資料と本。手には櫛と幼児の鋏を手にする。なんでもないように椅子に座る子猫とは反対に、俺はかなり緊張していた。生まれてこのかた誰かの髪に鋏を入れるなんて初めてだ。

「……じゃあ、始めるよ」
「うん!」
 ちょき、ちょき、ちょき……と、一房を人さし指と中指で挟み慎重に丈を合わせると刃を入れる。ぱらぱらと髪がバスタオルに落ちていく。それを目で確認して、これだけユーリが成長したかと思うとなんだか誇らしげな気持ちなった。
 そうして、切り終えるとあったばかりの頃のような髪型に整っていた。切る以前よりも瞳が大きく映えて幼く見える。わしゃわしゃとたっぷりシャンプーの泡を泡立てて頭に残った髪の毛を洗い流すと、ユーリは眠そうに目を擦った。
「眠い?」
「コンラッドにかみいじられるときもちよかったあー……」
「それはよかった」
 なかなか、うまくいった髪の毛に自分も御満悦だ。そして、緊張がなくなると自分もなんだか、眠気が微かにわく。
「じゃあ、お昼寝しようか」
 こうして、初めてのことが当たり前になるといい。子猫に出来ることがまた増えてまた今日幸せが胸に落ちた。

END

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髪の毛切るためにかなりイメトレしたであろう次男。