――世界は今日も相変わらず平穏に回り続けている。 執務室の窓からは日差しが差し込み、鳥のさえずりや、人々のこえもちらほらと有利の耳に入りこむ。 昨日もこんな感じだったと、ぼんやりと思い返しながら机上に山の如く積まれた書類一枚、一枚に目を通す。目を通して、確認し『渋谷有利原宿不利』と情けないサインを記しては記名済みのあるいは再検討の書類の山を新たに作りあげていく。慣れない羽根ペンも一年もすれば慣れてインクのつけすぎで書類を汚すこともなくなり、サインの文字もいくらか整ってさまになってきた。 平和で変わり映えしない世界だが、やはり少しずつ日々は良くも悪くも変化しているのだと知る。 以前は爽やかでそこはかとなく甘いシトラスのような香りを纏った護衛も、いまでは女性の香りを纏わせている。最初のうちは戸惑いもあったが、数日もすれば彼の纏う香りにも免疫がついて感情は麻痺しそれもまた変わりない日常のひとつへと変わりゆく。外から聞こえる声に、凛とした声がとおる。 有利自身に向けられることはない護衛、コンラート・ウェラーの声。彼はいま有利の護衛から外れて新兵の指南へとあたっている。 朝方に戻ってここ数日まともな睡眠も摂っていないというのに覇気のある声には疲労や怠惰な色が微塵も感じられない。それも軍人で鍛え方が違うから、と彼はなんでもないように言ってしまうのだろうか。 ああ、思わず最低だ。という悪態はため息となって口から零れおちていく。 「ユーリ陛下」 と、突然グウェンダルに声をかけられた。もしかして、気がそぞろになったのを気付かれて怒られるのだろうか、と少し身構えたがそうではないようだ。どちらかと言えば声をかけたグウェンダル。そしてギュンターのほうが緊張しているようにみえる。 「どうしたの?」 「……前々から考えていたのですが、ユーリ陛下も今年でもう十七歳になられましたね」 「うん? そうだな」 普段であれば、こんなにも丁寧な話しかたをしないのに。なにか重大なはなしでもあるのだろうか。一度力を抜いた肩に緊張が走る。 一体なんだろう。 言いづらそうに何度か口を開閉したあと、息を吐き真っ直ぐと有利の目を見つめて口を開いた。 「陛下が私の末弟との婚約が破棄になったことは構いません。けれども、有利陛下は王です。よりよいこの国と、信頼を獲得するためには婚約者がいつかは必要となります。……いますぐに誰かと婚約をしてほしいとは思いません。しかし、いずれかは結婚してほしいと思うのが摂政である私や王佐を担うギュンターを含めおそらく国民が願いであります。そのためにユーリ陛下には新たに知識と教養を……つまりは、房事について学んで頂きたいのです」 「房事?」 聞きなれないことばに首を傾げると、グウェンダルは、とてもわかりやすく房事について教えてくれた。 「閨房での営みのことです。男女間の性行為。もしくは同性間での交わりのことですよ」 以前はヴォルフラムが婚約者であったために、房事はなくてもいいと判断されていたのかもしれない。けれど、いまは違うのだ。 「いいよ。おれ王様だもんな。房事受けるよ」 「本当でございますか、ユーリ陛下!」 「本当だよ。っていうか、王の役目なんだろ、ギュンター。そんなに驚くなよ……ほら、書類が机から落ちちゃったじゃん」 ギュンターが動揺から一歩後ろに下がり、机に山のように重ねられた書類が床に散らばった。 「す、すみませんっ! しかしあまりにも」 「あまりにも、おれがこんな簡単に了承するとは思わなかった、だろ? おれだってこどもじゃない。みんなが望むに国にするからにはできるかぎりなんでもするさ」 散らばった書類を集めながら有利は淡々と答える。 自分のことであるはずなのに、まるで他人事のように思えるのが不思議だ。以前であれば、こんなことはおかしいと否定していたし、グウェンダルの発言に顔を羞恥心から顔を赤らめていたはずだ。 いまの自分はなにかが欠落しているのかもしれない。でも、それが魔王として存在するにはどこか欠落していたほうが正しいのだろう。多様な感情は必要ない。最低限の感情で様々な思考に惑わされないように選択をし続ければこの国の未来を不安にさせるだけだ。 「……男性でも女性でも房事を担当してくれるひとはグウェンダルとギュンターに任せるよ」 拾い上げた書類をまた机に重ねて、窓のそとを見る。静かな執務室の雰囲気とは対照的にそとはあいかわらず賑やかな声で溢れていた。 「でも、コンラッドには言わないでくれ。あいつ過保護でうるさいから」 めんどうなことになるのは、ごめんだからね。と、言えばグウェンダルが顔をしかめて「……わかった」と首を一度たてに振っただけだった。 「ありがとう」 有利は、グウェンダルの思いには深入りせずに、ただ一言感謝の言葉を述べた。 さあ、みんなの理想とする魔王として自分はまた一歩先を歩く。 thank you:怪奇 |