優しすぎる思い出だから



「陛下、朝ですよ」
「う……、ん」
 カーテンの開かれる音と、男の声にユーリは目を擦り、瞼を開けた。
 朝日が眩しい。思わず顔をしかめると、男は微苦笑する。
「よく眠れましたか? 陛下」
「……まあまあかな」
 寝れないわけではない。けれども、熟睡と呼べる睡眠はしていない。日常に支障が出ないほどの睡眠をとった。
 気分は、あまりよくない。
 しかし、どうにもならないのをユーリは知っている。不自然な動作にならないよう、男を視界に入れないようクローゼットへと向かい日課である朝のロードワークの準備をする。運動着を取り出して寝巻きに着替え……それから。
 それから。
「陛下、ロードワークへの準備は整いましたか?」
 恐怖が、足のつま先から頭へとのぼる。思わず、声が震えそうになるのをユーリは下唇を噛んで唾液とともに飲み下し、主の合図を待つ護衛へと振り返る。そこにあるのは普段と変わらない笑み。
「おう! 準備できた。行こうぜ、コンラッド」
「はい」
 日常を壊してはならない。彼、コンラッドはいつもと変わらないのだから、それを崩壊してはならないと脳が命令する。
 さあ、今日も平穏になにもない日常にするにはあの言葉を口にしろ、と。
 変えてはならない。しかし、ユーリはそれを口にするのが恐ろしかった。けれども、言わなければならない。自分に言い聞かせる。
 大丈夫、昨日も言えたのだ。今日も言えるはずだ。笑え、もしくは拗ねた少年の顔を作り、日常を作りだす言葉を彼に言わなければ。
 部屋の扉を開け待つ、コンラッドにユーリは言う。
「コンラッド!」
「なんです?」
「陛下って言うな、名づけ親のくせに」
 ここで目をそらしてはならない。自分の想いを気付かれてしまう可能性がある。ユーリは、コンラッドの返事を願うように待った。はやく、自分を安心させてほしい。
「ああ、ついくせで。行きましょうか……ユーリ」
 コンラッドからすれば、普段と変わらない受け答えだろう。しかし、ユーリにとっては自分の胸にとある花の種が落ちたその日からコンラッドとのこのやりとりが苦痛でしかたなかった。口にするたびに喉に無数の針が刺さるような感覚を覚える。
 自分は嘘を吐くのが苦手だ。
 彼の真似をしたからと言っても、それは偽りでしかなく、本物に敵うわけがない。本物からみれば、この笑顔も声音の違いを見透かされてしまうような気がした。そうして、いつか彼が陛下と訂正をせず、自分の名を呼ばなくなる日がこなくなるのが怖かった。
 そのことを望んでいるはずにも関わらず。矛盾している。
 あたり前であった日常がだんだんとユーリのなかで崩れ、苦痛をもたらす。なにも考えずに、言えた言葉。いまではそれらが重く、口にすることさえ少なくなってしまった。
 ユーリはコンラッドの横を通り過ぎて廊下を走る。後ろから「危ないですよ」と言われても足を止めることはできなかった。
 通り過ぎたときに鼻をかすめた甘い香りに涙がこぼれそうになる。が、きっといまの自分はこぼれそうになったと思うだけで、実際には水分が頬を伝うことなどないだろう。涙というものがユーリのなかで死んでしまったのだから。そして、泣けないほうが胸が痛くなることを輓近になって知った。
 このままの調子でいけば、そう近くない未来に自分の理想としている関係が実現するだろう。
 これで、いいのだ。
 ユーリは自分に言い聞かせる。花が枯れてしまえば、痛みもひく。それまでの、辛抱。
 と、思うのにユーリの脳はぐるぐると彼との優しい思い出を回想する。彼から香る匂いはこれではない、と。
 未だ煮え切らない己の感情にユーリは吐き気を覚えた。


この男は、どんな女性と一夜を過ごしているのか、考えると心の奥が熱くなって自分が醜くなっていくのがユーリは嫌でたまらなかった。
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