いとしいひと。




 嬉しいような、切ないような気持ちが終始うずうずと胸を締め付ける。
 外は、北風吹いているのか葉もない木々がカサカサと落ち葉を巻き上げていて、警備の兵は寒いのかほんのりと鼻が赤く染まっていた。その光景をユーリは長廊下をゆったりと歩きながら窓越しにおつかれさまと声をかけた。
「指で窓に触れないでください。手が冷えてしまいます」
「過保護」
「なんとでもおっしゃってください」
 硝子に触れていたユーリの手をコンラッドは手にとって優しく撫ぜる。その手はほんのり温かくて少しかさついていた。
「今度こっちにハンドクリーム持ってこようか。コンラッドの手ちょっとかさかさ」
 言えば、彼はそのお言葉で十分ですと、ユーリの手を引いて再び歩み始めた。
「こっちにもハンドクリームのようなものはありますよ。でも自分は軍人ですし、こう見えても自分は面倒くさがりですからね、つけてもすぐに忘れてしまいそうですから」
「ふうん、でもさ」
 あれから何年経っただろう。自分の手を見つめながらユーリは数を数えてみる。もう二十年は経った。こちらで月日を過ごすと一年なんてあっという間に過ぎてしまう。勿論、ぼうっと一日を過ごしていたわけではない。一日、一日が大事で気がついたらこんなにも月日が経っていた。
「……でも、前より戦争や差別そういうものがなくなってきたよな。そのうちコンラッドや兵のみんなが戦場を赴くんじゃなくて、もっと民のみんなと交流するような日本でいう警察官、というより交番のお巡りさんみたいな柔らかい世界になるといいよね。この手にハンドクリームがぬれるような優しい世界に」
「……ええ」
 隣で優しくコンラッドが笑う。午前中の執務が終了して、今日の午後からは休みだ。スケジュール状では。そのことを少し考えて、また少し楽しい気持ちが渦巻いてやはり同じくらい寂しい気持ちが胸を北風のように冷やしていくのをユーリはコンラッドの手を握りながら思った。
「ユーリ!」
 軽やかな足音ときれいなソプラノの声が聞こえて振り返ると愛しいひとがこちらに駆け寄ってきた。優しい香りが鼻を掠める。ぎゅう、そんな音がしそうなほど柔らかく自分を抱きしめる。愛しいおんなのこ。いや、もうすぐひとりの大人になるのだから、女性と言ったほうが正しいのだろう。
「おかえり! グレタ」
「ただいま、お父様。うふふ、お父様の匂いがするわ」
 出会ったころはスーツケースにすっぽり入ってしまうほど小さな子で、自分の背中まで手だって届かなかったおんなのこは今、自分と同じくらいに背があってぐるりと腕を回して包容できるほど成長した。言葉使いもより女性らしく、大人らしくなった。……ほんの少しだけ寂しいと思うのは贅沢なのだろうか。
 腰まで伸びたウェーブのかかる柔らかな髪を撫でつけると自分の胸に押し付けていた顔をあげて苦笑いをみせた。
「ユーリ。また変なこと考えていたでしょう? 例えば、大きくなったなあ、とか」
 さすがは我が娘といったところか。よく分かっているようだ。
「……そうだね。昔はスーツケースに入れてグレタと温泉旅行に行ったのになあ、と思っていたよ。今じゃこんなに大きくなって入りきらないね」
 冗談を言えば、ヒルドヤードのことを彼女も思いだしたのかくすくすと笑う。
「いま思えばユーリがやったことってすごいわ。あんなの誘拐よ。でも……本当にお父様と出会えてよかったわ。私は誰よりもきっと幸福な女なの」
 いい過ぎなんじゃないかと笑えば、グレタは真面目な顔で「本当のことよ」と答えた。自分の腕にグレタは腕を絡ませてそのまま歩きはじめた。頭のいい子のことだ。どこに向かうのかはもう分かっているのだろう。
 寒いはずの廊下を過ぎて現れた回廊からは冷たい風がびゅうびゅうと吹き荒れていて思わず肩が震える。それでも彼女が寄りそう腕は温かくてとても幸せな気持ちが寒さを和らげているように思えた。
 この長い回廊を渡りきればすぐに自室。そのころには自分の鼻も真っ赤になっているのだろうか。
「―……もうすぐ成人の儀がくるのね」
 なんの脈絡もなく、グレタは小さく呟いた。脈絡もないが、その言葉はユーリもここ最近ずっと思っていたことでどこかで、彼女がこの話題に触れるのを知っていた。ユーリはその呟きと同じくらい風音に掻き消えるほどの声音で「そうだね」と頷く。また、微かに胸が喜びと寂しさで震える。
「私、もうすぐ大人になるんだわ」
 腕を掴む手が少し強くなる。
「うん」その手を優しく包みながら「大人になるんだね」とユーリが相槌を打てばグレタは一瞬目を見開いてそれから長い回廊を渡りきる間誰も話をしなかった。目があったコンラッドだけは「お父さん、頑張って」と言っているようだったけれど。


 そうして、ユーリとグレタは自室でコンラッドの用意してくれた紅茶に口をつける。
 今日はハーブティ。「地球のローズヒップティーに似ているね」と聞くと同じようなものだったらしい。ツェリ様が育てた薔薇から精製されたという。気分を落ち付かせる作用があるようで、いま自分や彼女が必要としているものをちゃんと理解しているようだった。
「ねえ、ユーリ。どうして成人の儀なんて作ったの? それは必要なことなのかしら」
 不安そうにグレタは紅茶を見つめながらユーリに問う。いま、グレタのなかで蟠る気持ちが自分にも十分理解が出来る。あのとき自分もこうだったのだろうと懐かしい気持ちを抱きながらグレタを見つめていれば、ユーリのカップに紅茶を注ぎ足すコンラッドが口を開いた。
「……魔族の間では、十六歳でグレタが今控えているような通過儀式があるよ。この先の人生を決める儀式がね。俺はそのとき魔族か人間側生きるか決めたんだ」
「でもその先なんてわからないわ。私、自分がどうなりたいのか分からないのに、いきなり責任を持った大人になんてなれる気がしないの。ひとりの大人として認められるのはとても嬉しいことよ。けれど、不安のほうが大きい」
 みんな同じようなものだよ、とユーリは言う。誰もみな同じだ。
「別にいいんじゃないかな。成人式で思い描いた先の未来なんて忠実じゃなくたっていいんだ。その日を境にグレタが急に大人になるわけじゃない。次の日だってきっと同じような日常が続いていくんだっておれは思うよ」
 自分も成人を迎えたあの日、彼女と同じ気持ちを抱えていたのだろう。いや、おれだけじゃない、きっと皆同じ気持ちを輝かしい笑顔の裏側に隠して。
「考えすぎちゃだめだよ、グレタ。ほら、エーフェ特製の焼き菓子を食べて、元気を出して? ……大人だから、何かを失うわけじゃないんだ。与えるでもない。グレタはグレタのままで、大人になったから急に親を頼っちゃいけないことはないし、全てに責任を持つ必要もない。それは、ゆっくり自分に身に付くものさ。あせらなくていいんだ。間違ったら絶対誰かが教えてくれる。怒ってくれる。それは変わらない。ただ、成人の日を期に、きみのなかで今のような気持ちが芽生えればいいとおれは思う。新たな目標を持てばいいと思う。それは難しいことじゃないし、恐れることではない。いつも皆がついている。グレタは大人になる。けれど、おれからすればずっとずっと、可愛い渋谷有利の子供さ」
「ユーリ……」
 彼女が自分の名を呼ぶそれがに愛しい。
 ユーリは少し身を乗り出して、グレタの髪を撫でた。
「おれだって寂しい。グレタと同じくらいに寂しい。ずっとおれも成人の儀を迎えるグレタこと考えていた。でも、おれとグレタの絆は変わらない。そうだろう、ジュニア?」
「うん!」
 ぽろり、グレタの目から涙が零れ落ちる。それは彼女の意志とは関係のないものであったらしい。テーブルに落ちたそれに気がつくと慌てたように目を擦るが、ユーリはグレタの手を握る。代わりにコンラッドがすぐにハンカチを取り出してグレタの手に乗せれば、彼女は苦笑した。
「もう! コンラッドったら、まるでわかったような顔して私に渡すのね。少し悔しいわ」
「それは、すまないね」少しも悪びれず様子もなく微笑む。先ほど自分が窓ガラスを触っていたときと同じように。愛おしそうに微笑んでいる。
「……なんだか、泣いたらすっきりしたわ。やっぱりユーリに言ってよかった。悩んでいたのがばかばかしくなるくらい。私ね、ずっと不安だったの。大人になることが。だって、一人の足で立たなきゃいけないと思っていたから。……そしたらみんなとの間に距離ができそうで。みんな愛おしいわ。けれど、私は人間でみんな魔族でしょう? いずれ私の外見はユーリやコンラッドを超すわ。悲しい。怒られることだと分かるけれど言わせてちょうだい。私は、絶対お父様たちより早く年を取って死ぬの。大人になるということはそういうことよ」
 鼻を啜りながらグレタは言う。それにつられてユーリも目頭が熱くなる。
「ずっと一緒に居たいのに。大人になったら、やることがたくさんあってここにも来れなくなってもっと離れて、いつの間にかおばあちゃんになって死んじゃうの。仕方ないことだわ。これは決まっていることだもの。だけど、だから、ずっと私は先のことを考えたくなかったし、一時は皆を恨んだわ。私はずっと子供でいたかった。でも、それは違うのね。私はずっとお父様の子供なのね」
「もちろん」
 たくさんグレタに言いたいことはあった。けれど、これ以上ユーリも口を開くことはできなかった。彼女が思う未来は悲しいほど真実で、到底それをフォローできるような言葉思いつかなかったのだ。
「大好きよ、愛しているわ。ユーリ。誰よりも、何よりも。一人の女として、あなたを愛してる。お嫁に行っても、ずっと愛してる。だから何年、何十年私がいなくなった世界で生きても、私のことを忘れないで」
「……馬鹿な子だね」
 どうしようもなくなって、ユーリは荒々しく席を立つとグレタを力いっぱい抱きしめた。胸に埋めるグレタの涙がユーリの左胸を濡らす。それは、自分の心臓を濡らしているような錯覚を覚えた。
 きっとお互い出会えたことに後悔などしてはいないだろう。けれど、この想いはどうにもならないほど胸を締め付けた。
 愛おしい人を強く抱きしめる。いまはそれだけしか出来ない。
「愛してるよ、グレタ。これから先もずっと。未来は悲しいことばかりじゃない。もっとたくさん一緒に過ごしていこう」
 気がつけばグレタと一緒になって泣いていた。

 二人とも涙が空っぽになるほど泣くとなんだか肩の荷が下りたように笑った。
「もう、大丈夫。お父様が一緒に泣いてくれたから私はもう、何も怖くないわ。……成人の儀に告げる目標も決まった。私、お父様が誇れるような自立した女になるわ。一国の王女になる。そして、この世界を革命しようとするユーリの助けになるの。私の輝ける目標よ」
「……ありがとう」
 先ほど泣いていたとは思えないほどきらきらと輝く瞳でグレタは言う。その立ち直りのはやさは自分に似ているようでユーリは苦笑しながら頷けば、コンラッドが笑みを深くして、自分を見つめていた。そうして小さく口元だけ動かして言う。「素敵なお父さんだ」と。それにユーリは微かに首を左右に振る。
 まだまだ、自分も一人前な大人になんてなれていないな、と。だけど、せめて彼女が誇れる大人になっていきたいとユーリは今日二つ目の目標を胸に、成人の日に笑顔で目標を告げる彼女を思い描きながらグレタに少し早い祝福のキスを頬に落とした。



 愛おしいひとよ、あなたの未来が幸福でありますように。

 
END
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