■ 03


「……ウェラーさん、すみません。おれちゃんと聞いてなかったみたいで。もう一回、言ってもらえます?」
 キスシーンとか濡れ場とかリップボイスを聞き過ぎて耳と頭がおかしくなってしまったようだ。心なしか若干自分の口端が引きつっている。
「キスをしませんか、と提案したんです」
「……はあ」
 おかしい。おれの聞き間違えではなかったらしい。
「もしかしていまからコールガールを、呼べということですか?」
「まさか。そんな時間はないですし。と、いうかユーリくんそういうお店の番号を知っているですか?」
 恋愛経験がなく、金欠なおれ知ってるはずがない。「いや……知らないですけど。でも、ウェラーさんそういう意味で言ったんじゃないんですか?」
 キスしませんか、というのは実践でということだろうと思ったのだが解釈を間違えたのか。おれはウェラーさんの意図が読めずに首をかしげる。
 ――するり。と、ウェラーさんの手がおれの顎にかかった。
「え、」
「俺とキスしてみません?」
 耳元で囁かれてさきほどとは比べものにならないほど背中に震えが走る。反射的にまた耳をおさえたくなるが、距離が近すぎて手をあげられない。急速に頬が、いや、からだ全体が熱くなるのを感じた。「またまた冗談を」とか言いたいのにとつぜんのことで声が出ない。ぱくぱく金魚みたいに開閉することしかできなくてかなりまぬけだ。
 ウェラーさんはそんなおれをよそにからだをもっと近づけてきてもう数センチで鼻さきがくっついてしまいそうな距離にまでいる。かなりのどアップ。
「……だめ?」
「い、いや……だめっていうか。なんでウェラーさんとキスをしなきゃいけないんですかっ」
 おれは失礼だとはおもいつつ、ウェラーさんとの距離を離すために彼の胸元を押してうつむきながら不自然に笑う。
「いまのユーリくんは演技とリアルを割り切るのがむずかしそうなのでいっそ、リアルで演じたほうがいいのではと思いまして。言い方は悪いですけど、付け焼刃ってやつですよ」
「でも! ウェラーさんにそこまでしてもらうのは悪いです! それにおれ男だし」
「いま俺たちが撮っているのも男同士なんですから、男にキスされたほうが『ベル』の気持ちも掴めるんじゃないでしょうか」
 それはそうかもしれないが、キスをするのはちょっと抵抗がある。どうにかしてとりあえずこの状況というか体勢から逃れないと……と、身じろぎをしたとたんに肘がテーブルにあたり置いていた紙コップをたおし白湯がテーブルを流れ、床に落ちてしまった。しかも流れる方向が悪く、ウェラーさんのズボンを濡らしてしまいあわててふきんを手にする。
「ああっ、すみませんズボンが……っ」
「平気ですよ。お湯だし、すぐに乾くと思いますので。……それよりもまず、」
 そこではなしが途切れ――おれはくちを塞がれていた。ウェラーさんの唇によって。
「気持ち悪かったらやめますから、すぐに言ってください」
 一度、口唇が離れ一言告げられたかと思うとおれは返事をすることもできず腰を引きよせられ状況がのみこめないまま、ふたたびキスをされる。
 口唇を啄ばむようにされて、どうしたらいいのかわからず息をとめ、ウェラーさんの服を掴む。キスなんてそれこそ赤ちゃんのときにお母さんにされたという記憶にないものだけだ。いたたまれなくて目を閉じる。口唇が触れ合うたび、そのやわらかさ胸もあたまもいっぱいになってしまう。
 ちゅっ、と音のするキスを何度も受けているうちに、息が苦しくなりくちを開けるとするり、とウェラーさんの舌が口内に入りこんできて驚きのあまりにからだが跳ねる。
「鼻で息をするんです。そうすると楽になりますよ」
 もう混乱しすぎていっぱいいっぱいのおれは、言われたとおり鼻で息を吸う。そのあいだにもウェラーさんの舌は歯列や頬の内側、上あごをなぞりときおり舌を絡ませてきて、だんだんと思考が鈍くなっていく。
「ユーリくん、気持ち悪い?」
 気持ち悪くないから困っている。男同士なのに、恋愛感情をウェラーさんに持っていないのに……嫌じゃないから返事に困る。口内に溢れる唾液が吸われて、からだじゅうにざわざわが駆け巡る。
 キス、というのは好きじゃなくてもこんなに気持ちがいいものなのか。
 後頭部に手をまわされて――気がつけばおれもウェラーさんの舌に自分のものを絡ませていた。えっちな雰囲気と気持ちよさになんでこんなことになったのか忘れてかけていたとき、不意にズボンに入れていた携帯が音を立てて震え出し我にかえる。
「ああ、あともうすこしで約束の三十分ですね」
 それをきっかけに口唇が離れるとなんでもないようにウェラーさんは腕時計で時間を確認して言う。
「キスをされてるときの『ベル』の気持ちいまのですこしは参考になったかと思うのですが、どうでした?」
 なんでもないように言われておれは呆気にとられた。自分が、ほかのひとよりも恋愛経験がないからなのだろうか。キスひとつで(キスひとつと言っても舌まで入れられてしまったけど)動揺するのは、過剰反応しすぎ……なのか?
「え、と……」
「休憩時間が終わるまでまだ十分あるし、もうすこしここで落ち着いてから行きましょうか」
「あの! ウェラーさんっ」
「なんでしょう。やっぱり、キスをされるのは演技のためとはいえ嫌でしたか?」
 ウェラーさんは言って、すこし傷ついたような表情で笑む。そんな顔は卑怯だと思う反面本当に、アドバイス以外のなんでもなかったのだと理解してちいさく胸が痛くなった。
「……?」
 胸が痛いってなんだ?
「ユーリくん?」
「あ、いえ……ウェラーさんはああいうことをよくするんですか?」
「ああいうこと……キスのことですか? まさか。するわけないじゃないですか」
 平然と答える彼におれはますますわからなくなる。するわけがない。ということは、こうして実践しなければいけないくらいおれの演技が下手くそだったということなのだろう。そう考えると情けなくて、恥ずかしい。
 もっと練習を積まなきゃ。もう二度と夢をあきらめたくはない。
 おれでなければできない役がきっとこの世界にはあるはずだから。
「……あの、ユーリくん」
 ウェラーさんがなにか言いかけたけど「そろそろお時間ですよ」と、スタッフのひとがドアをノックしたことでタイミングを失ったのか、ウェラーさんは「じゃあ行こうか」と席を立ちおれもおれで聞き返すこともできずスタジオへ向かいながらつぎこそはオーケーがもらえますように、と深呼吸をした。

* * *

『――ハイ、オッケーです!』
 音響監督がマイクを通じて、収録の終わりを告げる。肩からどっと緊張やプレッシャーが落ちた。
「渋谷、おつかれ!」
 村田が背中から抱きついて、労いのことばをかけてくれ、扉の向こうからもスタッフや監督が「おつかれさま」と笑顔で声をかけてくれた。
「最初は大丈夫かな、と正直思ったんですが休憩が終わってからのきみの演技はとてもよかったですよ。これからも頑張ってください」
 自分に向けられた監督のことばにやっと終わったんだとおれはいまさらながら実感する。
「おつかされまでした、ユーリくん」
「……ウェラーさん」
 休憩中のこともあり、ちょっとウェラーさんとは気まずい雰囲気のまま収録が始まってしまったが、彼のいうとおりキスをされてからどうして『ベル』が戸惑うのか、声が漏れてしまうのかやっとわかった気がした。……やっぱり、キスシーン最中の羞恥心は抜けきれなかったけど。ウェラーさんとのキスが最善のものとは言い切れないが、休憩中あの出来事がなければおれはまたNGを出していたと思う。
「ウェラーさん、今日はありがとうございました! おかげで無事収録を終えることができました」
 深くお辞儀をするとウェラーさんは笑って「いえいえ」と首を横に振った。
「俺はアドバイスをしただけです。監督からオーケーが出たのはユーリくんの実力。……それに、休憩中は嫌な思いもさせてしまった。礼を言われるようなことを俺はしていませんから」
 ほんとうにどこまでも紳士なひとだ。やっぱり、演技のためだけにキスなんてしたのだろう。
 無事終わったから思えることかもしれないが、今日は自分の実力のなさを実感できるいい機会だったのだと思う。もちろん、これで終わったわけではない。収録されたものが、CDとして形になり聴いてくれた原作のファンのひと、それから好きな声優のファン。いろいろなひとから楽しんでもらえてはじめて自分の演技が評価される。でも、収録の時点でだめだと言われてしまえば、そこで終わりなのだ。
「……でも、本当に今日は助かりました! すごく勉強になりましたし。……このあとすこしお時間とかありますか?」
 お世話になったのでなにかお礼がしたいんです。と言うと「気にしなくていいのに」とウェラーさんは笑う。
「それに悪い言い方をするけど、今回はSINMA事務所が企画したことでこれをきにあなたはいままでよりも責任ある役を受けることになる。それは、今回以上に多くのひとに迷惑をかけることにもなるでしょう。なのに、毎回お礼なんてしていたらたいへんなことになりますよ」
 ウェラーさんのことばにはっとする。彼の言うとおりだと。今回の件は、はじまりにすぎない。これからさき仕事をするにあたっていろんなひとにおれは迷惑をかけるだろう。彼が言うように毎回お礼ができなくなるかもしれない。だけど……。
「ウェラーさんの言うように、この仕事を続ければお礼なんてできなくなったりするかもしれません。だけどおれは、迷惑をかけることがあたりまえだからと感謝をする気持ちを忘れたくありません。もちろん自身のちから……演技で返すのが一番だとは思いますがお世話になったひとにはちゃんとお礼がしたいんです」
「ほんとうに渋谷って情にあついっていうか頑固ものだねえ」
 となりで村田が呆れ口調でいい肩をすくめる。
「ウェラーさん、時間があればですけど僕からもお願いします。渋谷は言い出したら聞かないクチなんで。それに、お互いに言いたいこともあるんじゃないですか? アドバイスとか……休憩中のこととか?」
 最後のほうは、どこか皮肉めいた感じで村田が言いウェラーさんは「やっぱりムラケンくんは鋭いな」と居心地悪そうな表情をして、嘆息をすると「わかりました」とこちらを向く。
「でも、食事にするにはまだはやい時間だし……収録が終わったら行こうと思っていた場所があるのでそこにつきあってくれるかな?」
「は、はい!」
 どこに連れて行かれるんだろう。
 おれは、カバンを肩からさげるとウェラーさんのあとに続いてスタジオをあとにする。
「じゃあ、またな。村田」
「うん、またね。渋谷。気をつけて帰るんだよ」
 ひらひらとこちらに手を振っておれたちを見送る村田に手を振り返して背を向けると村田は鼻歌まじりで歌を歌いはじめていた。
「男は狼なのーよー、気をつけなさーい♪」
 これまた、懐かしい歌を。

* * *

 収録スタジオを出て、ウェラーさんのあとをついて行く。ウェラーさんぐらい大物でイケメンだと顔を晒して歩くのは事務所から注意されるらしい。
「なんだか自意識過剰な感じもするんだけどね」と彼は苦笑していたが、グレーのシンプルなシャツに黒ぶちの眼鏡。それから青のチェックストールでくちもとを隠してネイビーのストローハットで顔を隠しているが、それでも身にまとうオーラが出ているし変装というよりおしゃれなコーディネート止まりだとおれは思う。ちらほらと行きかうひとの視線がウェラーさんに向けられている。
 駅前大通りを談笑しながら歩く。話題はもっぱら仕事のはなし。いままでウェラーさんが演じていた面白かった役とかハプニングとか。ひとあたりがいいと噂で聞いていたが、先輩ということと休憩中のこともあって誘った手前、うまくコミュニケーションがとれるか不安だったけど、ウェラーさんは話上手で聞き上手。いらない心配だったと思うぐらいはなしは弾んだ。
「――あ、ユーリくん。ここ曲がるよ」
 言ってウェラーさんは大通りの途中にあるすこし細い道を指さした。けっこうこの駅前通りは仕事の通勤に使用するけど、ここの路地に足を向けるのははじめてだ。心なしか、ひとけもない路地におれはちょっとだけ息を飲む。
「……ここ、通るんですか?」
「この道を通るの怖い?」
 恋愛経験もないうえに臆病者だと思われるのは嫌でちっぽけなプライドをたてるように「そんなことないですけど」とわずかに尖った口調で答える。
「それならよかった。この道をすこし行ったさきに俺の隠れ家があるんですよ」
「隠れ家?」
「ええ、でも着いてからの秘密です」
 いたずらを考えるこどものようにウェラーさんは人差し指を口にあてて微笑む。おれがやったらこどもっぽいだけの仕草なのに、彼がやるとどこか色気があって心臓が高く跳ね上がった。
 ウェラーさんに誘導されるまま、路地に足を踏み入れると一番奥にお店があった。看板には『Charlotte(シャルロッテ)』と書かれていて、わずかに甘いにおいが漂ってくる。
「ケーキ屋さんですか?」
 店にはショーウィンドウがないし、両開きの入り口の扉は木製で繊細な装飾があしらわれていて、なかを窺い知ることはできない。ドアノブに『open』という文字が掲げられているが、おそらく興味を魅かれても店内に踏み入れるひとはすくない……それぐらいひっそりとしたお店だ。
「ケーキも扱ってるけど、メインは違うんですよ。さ、行きましょう」
 常連なのだろう。ウェラーさんはおくびもせずに店のドアを開ける。まさに、隠れ家そんな感じの雰囲気におれはどきどきしながら彼のあとに続いて店内へと足を踏み入れた。
 カラン、と入店者を告げるベルが鳴る。
「わ……すごい」
 店内はお菓子もケーキもなかった。かわりに数か所ちいさなテーブルと、メインカウンター。そして壁を埋め尽くす色とりどりのちいさな小瓶と缶が並べられている。いつかテレビ番組でみた漢方薬専門店を彷彿させた。
「このお店は、オーガニックハーブティの専門店なんですよ。職業上喉を大切にしないといけないし、飲むものは制限されるからね。よくここで茶葉を買いにくるんです」
 声優は声が命だ。乳酸飲料や炭酸それ以外にも飲むことを制限されているものはやまのようにあって、しかたないとは思いながらもけっこうストレスがたまったりする。
「ハーブティっていろいろあるんですね。おれ、ハーブティって詳しくないこともあってあんまり飲んだことないです」
 ウェラーさんが棚に並べられる小瓶や缶を吟味していくつか手に取るのをおれは横目にはなす。輸入品なのかラベルには英語で名前が明記されている。
「ユーリくんはふだんなにを飲んでいるんですか?」
「おれは、だいたい水飲んでます。ヘタに飲み物を買うと失敗しそうなんで」
「そうなんですか。では、たまにはハーブティを飲んでみません? ここのはおいしいしおすすめなんですよ。あと、ホットケーキ」
 そういうと、ちかくのテーブルのイスをひき座るように指示をされる。これじゃあなんだか、おれがお礼をするというより、されている感じじゃないかといまさら慌てるがウェラーさんはテーブルの呼び鈴を鳴らしてしまう。
 すると、店の奥からひとが出てきておれは思わず固まった。
 お店だからひとがいるのはあたりまえなんだけど、予想だにしない人物が出てきたんだ。
「……注文はなんだ?」
 あらわれたのは、ウェラーさんよりも長身のがたい男のひと。機嫌が悪いのか眉間にしわが寄っている。
「ご……ゴットファーザー……」
 こころのなかで呟いたつもりだったのだが、無意識に思いがくちに出てしまってすぐにおれは自分のくちを手で塞ぐ。
「……」
 目を逸らしたが、無言で睨まれた気がする。どうしようおれ東京湾に沈められるかも。あたまのなかでゴットファーザーのテーマ曲が流れながら軽くパニックになっているとウェラーさんが冷戦のような雰囲気を吹き飛ばすように声をたてて笑った。
「ウェ、ウェラーさんっ!」
 ちょっとは空気を読めよ! とおれは笑いを制止しようと声をかけるが彼のツボにはいったらしい。お腹を押さえながらひとしきり笑ったあと「いい例えだね」とオーダーをとる男のひとの眉間のしわがまたひとつ増えたことも構わずにおれに言い、ウェラーさんは男のひとに顔を向ける。
「だからまえに言ったじゃないですか、グウェン。接客は笑顔でしないとお客さんに怖がられるって」
「……余計なお世話だ、コンラート。私は忙しい。さっさと注文をしてくれ」
「はいはい。じゃあ、ジャスミンとレモンバーム。それからホットケーキをひとつお願いします」
 メニュー表に目をとおすこともなくウェラーさんは注文する。ゴットファーザーの映画にでてきそうな男のひとは仏頂面のまま注文した品をメモするとぱたん、とバインダーを閉じた。
「すみません、勝手にユーリくんの注文しちゃったけどほかに飲みたいものとか食べたいものありました?」
 そわそわしているおれを見て何か注文したいものがあったのかと思ったらしい。
「いや、おれよくハーブティーのこととかよくわからないのでむしろ頼んでいただけて助かります。……その、プライベートのことなんで聞いたらいけないことかもしれませんが、ウェラーさんのこの方はお知り合いなんですか?」
 友達というにはすこし年が離れすぎている気がするし、でも見た目で判断してはいけないとは思うが友達でなければあんな風にくだけて喋ったりできない気がする。ひとりはさわやか好成年。もう一方はマフィア並の威圧感を持った男性なのだ。ふたりに共通の趣味があるようにも思えなくて、おれはおずおずと尋ねた。
「ああ、俺とグウェンダルは知り合いというか兄弟なんです」
「えっ……ええ!」
 さらり、とウェラーさんの言った爆弾発言におれは思わずふたりの顔を交互に見てしまう。
「……冗談、ですよね?」
「冗談ではありませんよ。フォンヴォルテール・グウェンダルは俺の兄です。ね、お兄さん」
 にっこりと笑うウェラーさんとは裏腹に渋面のままゴットファーザーもといグウェンダルさんは「ああ」と頷いた。
「に、似てねえ……」
 またおれの悪い癖が出てしまった。思ったことがついくちに出てしまう。案の定、
「余計なお世話だ、小僧」
 と、睨まれておれは恐怖でからだをすくませたのだった。

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