■ 02


 原作の小説。活字も苦手なおれがボーイズラブなんて読めるかどうかさえ正直不安だったが、小説はかなりよかった。最初はコメディ調でおれが主人公役『ベル』それから相手役を演じるコンラート・ウェラー『リヒャルト』は順調な主従関係で結ばれていたが、物語が進むにつれてすれ違いが生まれ徐々に険悪なものになっていく。互いに淡く恋心を持っているのに言いだせず『ベル』は政略結婚を強要されてしまい……もう最後には号泣してしまっていた。
 原作を読む以前は、喘ぎ声がどうとかエッチなシーンのことばかり考えていた自分がはずかしい。いや、そこが盛り上がるシーンで重要なんだけどそのまえに『ベル』の役作りをどうにかしないといけない。
 そうして――ついに、この日が来てしまった。BLドラマCDの収録日。
 何回も小説と台本を読みなおして、村田にも付き合ってもらったから大丈夫だと思い……たい。
「おはよー、渋谷! 表情かたいけど、やっぱり緊張してる?」
「あったりまえだろ!」
 キャストはおれを含めてさんにん。村田とウェラーさん。
 すこし早目に現場へきて台本を読みなおしている。村田が言っていたようにドラマCDは雑誌の付録で収録される長さは三十分。一話のさわり部分がメインになっていて、濡れ場はなかったけど強がりな王『ベル』に側近の護衛『リヒャルト』が房事の一貫でキスを教えるというのが今回の山場だ。『ベル』の性格はおれの性格とちょっと似ているところがあるからわずかだけど気が楽だ。台本を繰り返し読んでいたので本にはふせんが大量にある。
「おはようございます」
 突然、凛とした声が部屋に響いた。ウェラーさんだ。
「お、おはようございます……っ!」
 ウェラーさんと共演するんだから、来ることはわかっていたのにいざ目の前にすると緊張してしまう。上擦ってしまう声に失敗したな、と思いつつ席を立ちあがりあいさつをすればウェラーさんはおかしそうに笑った。
「おはようございます、ユーリくん。それからムラケンくん。……ユーリくんと共演するのは、はじめてですね。よろしくお願いします」
「よろしく、お願いします」
 やっぱりまじかに見ると格好いい。しかもオーラもすごく出ていてさすがはSINMA事務所の看板声優。
「緊張してますね、大丈夫?」
「大丈夫って、スパルタ教育の首謀者のくせに。ウェラーさん性格悪いなあ」
 村田のことばにおれは、ウェラーさんと村田の顔を交互に見てしまう。すると、ウェラーさんが困ったように眉根をさげた。
「そう言わないでくださいよ。まるで俺が悪者みたいじゃないですか」
 彼の返答からして、提案に関わっていることは間違えではないらしい。ウェラーさんはおれと村田が座っている円卓テーブルに腰をかけると経緯を説明しはじめる。
「SINMA事務所はほかの事務所より設立年数が浅いけど、だからと言って人望がないわけじゃない。むしろみんなの頑張りがあって、負けないくらい人望がある。だから、関係者や作家さんにお願いして有望な新人を育て上げるきっかけに新人を主役にアニメやドラマを制作する企画があるんだ」
「そう……なんですか」
「ええ。その都度首謀というか声優の代表者はかわってきます。今回ユーリくんのお目付け役が俺なんです」
 改めて、よろしくお願いしますね。
 と、爽やかな笑顔で言われて目が潰れそうだ。まじで良い声。声優の雑誌でもよく特集が組まれるほどの大物声優。声でだけではなく、人柄のいい。
「おれ、がんばります!」
「はい。期待していますね。ユーリくん」
 憧れのひとに期待されている。それはお世辞で言ってくれたのかもしれない。でも、それでもいい。いつか向けられたことばが本心からのものに変わればいいなと思う。
 興奮気味に返事をすると、またウェラーさんは笑っておれのあたまを撫でた。
「ユーリくんはかわいいですね」
 男なら『かわいい』よりも『格好いい』と言われるほうがうれしいけど、おそらくウェラーさんはおれの容姿ではなく、先輩が後輩をかわいがるような感じなんだろう。おれが野球部だったときのように。
 ありがとうございます、とおれが返答するととなりから盛大なためいきが聞こえた。ため息の主は村田。
 どうしたのかと思って、そちらに顔を向けると村田があきれ顔をしていた。
「はい、そこ。いちゃいちゃしない。まだ収録は始まってないよ」
「……は?」
 いちゃいちゃってなに? こういうのふつうじゃないのか、と首を傾げると村田は「わからないならいいや」と言い「鈍いなあ」と続けた。
「にぶい?」
「わからないならいいよ。こっちのはなし。ね、ウェラーさん」
 意味ありげに村田がウェラーさんに視線を向ける。向けられたウェラーさん微苦笑を浮かべ「そうですね」と答えた。
「ごめんね、ユーリくん」
「……え、あ、はい?」
 なんで、謝られるんだろう。
 尋ねようとくちを開くとそれに重なるように「そろそろ収録を開始しますよ」とスタッフのことばにかき消されてしまった。

* * *

『はい、ストップ! ユーリさん、ちょっと声がかたいかな。恥じらう感じはすごくいいんだけど、喘ぎ声は浮いてる感じがする。もうすこし甘い感じに……』
「は、はい……すみません」
 音響監督から指示を受け、同じことを言われてもう数十回になる。新人育成だからと言ってもさすがにこれはやばい。音響監督の声にもわずかに苛立ちと呆れが滲みでているのがわかった。
『ムラケンさん『ベル』役をやってもらえますか? ウェラーさんとのキスシーン。これを聴いてユーリさんは雰囲気を感じとるようにしてください』
「わかりました……」
 本当に自分が情けなくなる。足をひっぱってしまうかもしれないとは思っていたけど、こんなにもみんなに迷惑をかけてしまうなんて。役作りを一生懸命した結果か途中までは指摘があってもここまで撮りなおしはしていなかった。
 だけど、山場にくるとNGの荒らし。もう申し訳なさでいっぱいになり思わず涙が出そうになるが、泣いているひまなんてない。
 おれは下唇を噛んでちいさく返事を返し、椅子に座る。
「ユーリくん、めげないで。きみが頑張ってることはちゃんとわかってるから」
「そうだよ、渋谷。それに、スパルタ教育っぽくなってきただろ?」
 ふたりに肩をぽんと叩かれて、また涙が出そうになってしまうがこれがおれの『実力』なのだ。
『それでは、始めますよー』
 アフレコがスタートする。瞬間、場の空気がガラリと変わった。
『……ベル様、キスをしたことがございますか?』
 吐息混じりでウェラーさん演じる『リヒャルト』が『ベル』に囁く。
『う、うるさい! あんたに教える必要なんてないだろ!』
 村田が演じる『ベル』が恥ずかしそうに声を荒げてる。だけど、恥ずかしさだけではなく淡く恋心を声音に滲んでいる。
『まあ、仰らなくてもよろしいですが。今日から私がベル様の房事を務めさせていただきますので、あなたのキスがどれほどのものか……知る権利があります』
 ここでおれが何度もNGを出しているキスシーン。おれは実力の格差を痛感させられる。
 実際にキスをしていないのに、本当にキスしているような雰囲気と互いに身分を忘れたかのようにキスがだんだん深くなる。それは一分、二分。だけど、山場だとわかる。背筋が思わずぞくぞくするそんなワンシーン。
『はい、ありがとうございます。ムラケンさん、とてもよかったですよ。でもアドリブも入れたでしょう?』
 音響監督がすこし笑いを含んで言う。
「あ、ばれました?」
『でも、可愛らしかったです。ユーリさん、参考になったかと思います。ムラケンさんの手本にとは言いましたが、ユーリさんはユーリさんの演技で『ベル』を演じてくださいね』
「はい」
 わかってる。村田は村田の思う『ベル』おれはおれが思う『ベル』を演じなければならない。村田と同じ『ベル』をみんなは求めていないのだ。……でも、どうしよう。あたまが混乱してきた。さっきまで描いてきた『ベル』すら曖昧になっていく。
 返事をしたのはいいが、いまやってもまたNGを出してしまう。
 ……怖い。どうしよう。どうしたらいい?
 背筋に汗が、伝うのを感じながらマイクに向かう。あとは、合図を待つだけだ。合図はもう死の宣告ように思える。でも、おれはおれの『ベル』を演じたい。恐怖をかき消すように深呼吸をしたとき、とつぜんウェラーさんが手をあげた。
「勝手で申し訳ありませんが、すこし休憩をはさんでもいいでしょうか? ムラケンくんの演技を聴いたうえでユーリくんも考える時間があったほうがいいと思うんです。それに、俺も彼にアドバイスしたいことがたくさんあります。本当に勝手だとは思いますが、良い作品を作るためにも時間をくれませんか」
「ウェラーさん……」
「あなたはとてもいいものを持っています。ただいまは戸惑っているだけ。……監督、休憩が終わったら一発撮りでオーケーが必ずもらえるようにしますからお願いします」
 言うと、監督は腕を組んでむずかしい顔を見せたあと渋々頷いてくれた。
『わかりました。長くても三十分後には収録を開始しますからそのつもりで。それと、このシーンは約束通り一発でお願いしますよ』
「ありがとうございますっ!」
 できないやつだと落胆されたかもしれない。けれど、チャンスをもらえた。おれは、震える声でお辞儀をして、ウェラーさんを見てもう一度感謝の述べた。
「ウェラーさん、ありがとうございます」
「いえいえ。まだ『ありがとう』は、はやいですよ。ユーリくん。いくつか個室があったと思うからそこで特訓しよう。時間がない」
「はい! ……村田もごめんな。長い時間つきあわせちゃって」
 言うと、村田は笑って「いいよ」と言ってくれた。
「予想の範囲だったし、気にしないで。ああでも、悪いことしたなあって思うんなら今度お昼おごってよ」
「もちろん! ステーキでも、寿司でもなんでもおごる! ……それじゃあ、ちょっと行ってくるね」
 そうして、おれはウェラーさんに付き添われるようにスタジオをあとにした。

* * *

 空いている個室を見つけると、ウェラーさんは「さきに入って座って待っていてください。なにか飲み物を買ってきます」と行ってしまった。
 狭い個室なのにぽつん、とひとりでいるといまの心境もあってか心細い思いにかられる。
「……はあ」
 ため息がこぼれてしまう。
 ぜったいウェラーさんに呆れられてしまった。期待はずれ……なんて思われるに違いない。ならせめて、この休憩という名の個人レッスンで挽回したい。ドラマCDに携わっているひとのために、おれに期待しているウェラーさんのために――なにより、自分自身のために。
「しょげてる場合じゃないぞ、おれっ!」
 喝をいれるように、自分の両頬をぱあんっ! と叩く。
「おまたせ。いますごく大きな音がしたけど、虫でもいた? ほかの部屋に移動しますか?」
「ち、ちがいます。ちょっと自分に気合いをいれようと思って」
 またへんなところを見られてしまった。
「そうですか。でも、あまり根をつめるとからまわりしてしまいますよ。……はい、どうぞ。本当なら気分を落ち着かせるためにもココアなどがいいのかもしれないけど、乳製品は喉によくないからね。白湯でいまはがまんしてくれるかな?」
「がまんもなにも、お気づかいありがとうございます……っ。いただき、ます」
 ひとくち飲むと、思っていたより喉が渇いていたのかからだが潤いほっとした気持ちになる。ウェラーさんは「すこし、緊張がとけてきたみたいだね」と微笑みテーブルに台本を広げた。
「あなたが悩む気持ちも俺にはよくわかるし、じっくり相談にのってあげたいところだけどあまり時間がないからね。本題にはいろうか」
「はい、お願いします」
 おれは白湯をテーブルに置き、かわりにカバンからペンを取り出したが、ウェラーさんはそれを制した。
「書くのも大事だけど、いまは見て覚えてほしいな。……さて、問題のキスシーンだけど。ユーリくんはどうしてもそのシーンになると、羞恥心からか身がかたくなってしまうようだ。これは演技だと自分に言い聞かせて演じるから『ベル』に身がはいらない……と、俺は思ったんだけどどうかな?」
「う……っ、そのとおりです」
 彼の言うとおりだ。キスの音や吐息にいたたまれなくなりどうにかしなければ、と思えば思うほど声が浮いてしまうのだ。もう二十歳になったのだから、キスのひとつやふたつに動揺してしまう根性のなさにいたたまれなくなる。
「はじめての主役がBLだと戸惑ってしまうのはわかっていたのですが『ベル』の性格とユーリくんの性格には似ているところもあると思ったのでやりやすいかなと選んだんだけど……配慮が足りなかったですね」
「謝らないでください。おれが悪いんですから!」
 多忙な彼が、時間をさいて企画を進めておれに合うものを選んでくれた。もっとほかにもあったのだと思う。格好いい役とか悪役とか。まあもしかしたらのはなしだけど。だがもし、その役が自分の性格とまったくもって違うものだとしたら……いまのおれには無理だったと思う。
「あの……ユーリくん」
「なんですか?」
「いまさらだけど、この役を降りる気はないですよね?」
 不安そうに尋ねるウェラーさんにおれはすぐに頷く。台本を渡されたときは、気が引けていたところもあったけど、実際にやってみてやっぱり演じることのたのしさを知ったから。
「もちろんです……っ! こんなに迷惑かけてますけど、村田が言っていたようにいい作品を作ってみたい、です」
 最後のほうはついさきほどまでの失態を思い出してなさけなくなり声がちいさくなってしまったけど、ちゃんとウェラーさんには聞こえていたようで「よかった」とちいさく微笑んでくれた。
「なら、よかった。どうしてもだめならキャスト変更も考えていたので……なら改めて、俺が考えたアドバイスしてもいい?」
「はい、お願いします!」
「アドバイス、というほどでもないですけど。ユーリくんはキスシーンの音や吐息に過敏になって演技がかたくなってしまう。なら、その音に慣れれば問題ないんじゃないかな、と思いまして」
 たしかに。みんなに言ったら怒られるかもしれないがいくつか資料としてBLドラマCDを借りてきたがキスシーンや濡れ場になるといたたまれなくなってしまい、ちゃんと聴いてはいなかった。
 苦手だからと言って、逃げていたからこそ今日の収録でツケがまわってきたのだろう。ウェラーさんの助言を受けておれはカバンのなかを漁る。
「わかりました。村田に借りていたBLドラマCDがいくつか入っていたと思うので、いまからそれを聴いてみます!」
 言うと「それでもいいんだけど」とウェラーさんはおれのとなりの席へと移動してきた。
「一応、ムラケンくんに借りたCDは一通り聴いたんですよね。でも、それでもはずかしかったんでしょう? なら、収録でリアルにそんな音を聴いたときに免疫つけることできるかな?」
「う……っ」とおれはことばを詰まらせる。そうだ、聴いて結果がこれなのだから意味がないかもしれない。
「だから、いまから俺が音を出します。リップボイスをどうやるのか実践でしますので今後の役にも立つと思いますし。……ユーリくんも恥ずかしいと思いますが俺もはずかしいので」
 彼をみればうっすら恥ずかしそうな顔をしている。SINMA事務所の大手声優、そしておれの憧れのひとが恥を忍んでやってくれるのだ。ここは、しっかり聴き、技を盗まないといけない。
 おれはからだごとウェラーさんのほうを向け万全な体勢を整える。
「やっぱりこう……まじまじと見られるのは照れるものがありますね。――では、始めますよ」
 ウェラーさんはいうと、シャツをめくりあらわになった腕に自らの口を押しあてリップボイスを出す。瞬間、背中にぞくぞくと寒気ではない震えが走り思わず、顔をそむけたくなった。
「ごめんね。気持ち悪いでしょう?」
「い、いや……そんなことは!」
 気持ち悪さは一切ない。むしろ、色気がすごくて同姓なのに妙にどきどきしてしまう。
「口だけでもリップボイスはできるけど難しいからこうして腕を使ったりするといい。軽いキスはこんな風に、繰り返しくちを離したりつけたりする。で、だんだん深くなるキスの音はこの合間に吐息を入れたり、舐めたりしてみるといいですよ」
「は、はい……っ」
 くちゅくちゅと本当にキスしてるみたいな音がして鼓膜がざわざわする。恥ずかしさで耳を押さえたくなる本能をこれは勉強だと言い聞かせて理性で抑えおれは耐えるように自分のズボンの生地を握りしめる。
「あとは、指を舐めて音を出すひともいますね。こんなふうに」
 人差し指と中指を含んで淫猥な音を立てながらウェラーさんがこちらをみる。こちらの顔色を窺っているのだと理解しているもののおれはもうそのすさまじい色気に耐えられなくなってついにテーブルに突っ伏した。
「……特訓だとはいえ、やり過ぎましたよね。すみません」
「ち、違うんです! ウェラーさんすげー色気があって耐えられなくなったっていうか。休憩が終わったら一発撮りでどうにかしなきゃいけないのはわかってるんですけど……おれ、恋愛経験がほとんどないで免疫がなくて。たぶんこれが一番の原因なんだと思います」
 二十歳過ぎてまともに彼女、というものができたことがない。
「……キスがどういうものなのか、どんな気持ちになるのか理解ができなくて『ベル』の気持ちに入りこめないし、音を聞くだけで恥ずかしくなってしまう、んだと思います。だから、ウェラーさんが気持ち悪いとかは全然ないんです!」
 憧れのひとになにを言っているんだろう。ウェラーさんもおれの突然の告白にきょとんとしている。こんなのが言い訳になるわけでもないが、ここまでしてくれたウェラーさんに本当のことを隠しているのは申し訳ない。
「経験があんまりないからできないのは、ただのいい訳です。さっきはやっぱり羞恥に負けて顔を背けてしまいましたが、今度はちゃんと聴いて見てみなさんに迷惑をかけないようがんばりますから……もう一回お手本をみせてもらえませんか? お願いします……っ!」
 言うと、ウェラーさんは考えるように腕を組むと「いいですよ」と頷いてくれた。
「わがままばっかりで本当にすみません。ありがとうございます」
 本当にウェラーさんはいいひとだ! おれが何度も頭をさげて感謝をする。もうウェラーさんに足を向けて寝れない。
「頭をそんなにさげなくていいから。……それであのいまもうひとつ思いついたことがあるんですが」
「はい! なんでもやります!」
 ウェラーさんの新しい提案におれは喰いつくように即答するとウェラーさんは笑顔のままとんでもない提案をくちにしたのだ。
「実際にキスをしてみる、というのはどうでしょうか?」
「……はい?」
 いまウェラーさんなんて言いました?


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