■ 01


 幼いときの夢は『プロの野球選手』だった。
 十歳のときに受けた一日野球教室。おれは子供野球チームでキャッチャーをしていた。それまでは、それなりに楽しく野球をしていたけど、野球教室でまじかに見る上級生やプロの走者が投げる球がとても速くて情けないことに怖くなってしまったんだ。もちろんいままでだって、キャッチャーをするときに受け切れないボールがマスクや防具にあたったことはある。でも、レベルの違う剛速球。あんなのがもしあたったら……と思うと怖くて怖くてしかたがなくてどうしようもなかった。
 帰りたいとさえ思ったそのとき、野球選手が『どうしたの?』と声をかけてくれたんだ。
『……向かってくる球も、突っ込んでくる走者も怖いんだ』
 こんなことを言ったら、男らしくないと言われてしまうのではないかと思ったがプロの野球選手は『そうか』とやさしく微笑みおれの掴むとキャッチャー体験できるコーナーへ連れて行き、おれをしゃがませるてそのうしろに座ると近くにいた仲間に声をかけボールを投げるように指示をした。
 父親よりも背も高く、がたいのいいピッチャーを目の前にして恐怖でからだがふるえたのをいまでも覚えている。
 そうして投げられたボールがミットに『パンッ!』と音を立て驚きとうれしさで胸がいっぱいになったんだ。おれをうしろから支えてくれた選手はこう言ってくれた。
『きみはもうプロの球も捕れる様になった。……それでもまだジュニアの球が怖いのかい?』って。
 いま考えれば、こども相手にプロが本気で投げてくれるわけない、あれは超スローボールだった。ってわかるけど、あの出来事がおれの人生を大きく変えて将来に夢を与えてくれたんだ。
 だけど、おれはプロの野球選手にはなれなかった。毎日朝のロードワークは欠かさないし基礎練習だって怠ったことはないけど、中学生のとき所属していた野球部で監督をケンカをしたからだ。
「野球なんてやめちまえ!」
 監督の後輩に向けた心ない一言につい頭がカッとしてしまったおれは監督を殴って……退部した。元々くちが悪い監督だと評判があったし、部のみんなは「渋谷がやめることなんてない」と言ってくれたがあの事件が起きたとき
自分のなかでなにかが終わってしまったように思えた。不思議なことに退部しようと決めたとき、後悔もなにもなかったのだ。部活自体はとても充実してたと思う。でも、もうやる気がなかった。三年間万年ベンチだったおれにあの事件は教えてくれたのかもしれない。夢を見すぎだと。
 野球部を辞めてからは、どこの部活に入部しようと思うこともなく、中学、高校に進学してからは帰宅部。学校が終わればときおり友達と繁華街に出向いてファストフードを食べることはあったが中流家庭のおれにはそんなにお小遣いもないのでほとんどまっすぐ帰宅する。というのが高校に入ってからのスタイルになっていた。
 そんな平凡でどこにでもある生活のなかでたびたび思うことがあった。
 ――将来、自分はなにになりたいんだろう。
 プロ野球選手の夢をあきらめてからは、野球以上にのめりこめるようなものがなかった。
 野球部をやめてからも、一番好きだと思うものはやっぱり野球。やる立場から、鑑賞する立場にかわっただけで好きなものは変わらない。
 両親は、つきたい職業についている。父の勝馬は銀行サラリーマン。母の美子は専業主婦。兄の勝利は将来都知事になるのが夢らしく某有名大学で主席をとり続けているらしい。
『人生は一回。やらない後悔よりやった後悔をするほうがいい』
 と、いうのが我が家の家訓だ。おれ自身、そう思っている。だからこそ、野球と同じくらい好きなことをみつけて今度こそはそれを将来ずっと続けていけるものと出会いたい。
 まあ、そうは言ってもすぐに見つかるわけもなくただ時間だけが過ぎていく。
 そうして、高校二年生ともなるとちらほら先生や友人のくちから『将来のはなし』が日常会話に出てくるし、進路希望調査の紙が期末テストの結果とともに配られると自然と気分が滅入ってくる。中学生まではいろんな夢を、大きな夢を持ちなさいと大人は言っていたくせに高校生にもなると『もっとちゃんと現実を見なさい』と夢を語ることを否定する。大人の言うことはもっともかもしれない。だけど、夢もなく自分に見合った仕事、大学を選ぶというのはとてもむずかしいとも思う。
 一体どうしたらいいのか。自分はなにがしたいのか。
 わからないまま、返却されたテストと進路希望調査用紙を持ち帰ったその日――おれは、運命の出会いを果たしたんだ。
 授業が四限目しかなくふだんよりもはやめに帰宅したその日。帰宅早々、どっかりリビングのソファーにもたれてテレビのリモコンを掴み電源をつけ、てきとうにチャンネルをまわしてみたが、恋愛や刑事もののドラマの再放送かニュースしかやっていない。
 ……つまらない。
 思わず、ため息がこぼれる。部屋にもどり野球雑誌をベッドでみるのもいいけど、一度ソファーに座ると立ち上がる気力がなくて目にも耳にもはいらない番組をみつめて数分ふとリモコンに視線をうつしてあることを思い出した。兄の勝利が、以前アニメ番組だけを放送する有料チャンネルを導入したのだ。
 リモコンを有料チャンネルに切り替える。
 観る番組の優先は野球。そのあとはコメディとアニメ。とは言っても中学生まで週刊少年雑誌『John』でアニメ化されていたものしかちゃんと観ていないから楽しめるのかは疑問があったが、たまたま放送していたアニメが一話だったこともありのめりこむようにアニメに集中してしまった。アニメはファンタジーもので、主人公は熱血でまっすぐな少年。それを支える年上の相棒がメインのようだ。とくに観惚れてしまったのはその相棒で、知的で一見冷たい印象があるが笑うと目元がやらわらかくなり、声がほんのり甘くなる。声とキャラクターが完全に一致していてアニメだというのに、現実に存在しているんじゃないかって思ってしまった。
 アニメも再放送なんだろう。最後まで没頭して一話を見終わると、いま流れていたアニメの制作現場が放送がはじまった。それを観てはじめて、一本の番組をつくるむずかしさを知る。当たり前に観ていた番組のひとつひとつが多くのひとが携わってつくられている。そうして最後にキャラクターたちに声が吹きこまれていく。
 キャラクターに声を挿入するひとを『声優』というらしい。そりゃあ、ひとがやっているのだからそういう職業がいるのは当然なのだろうけど、なんだか不思議な感覚だった。
 熱血主人公は女性が吹き替えしていたようで、驚いてしまう。外見でひとを判断してはいけないとは思うけど、あんな華奢でかわいい女性が大声を張り上げたり、ぶっきらぼうなセリフを言っているなんて想像できなかったのだ。
 でもおれがもっと驚いたことは、主人公の相棒である青年役が外人であったことだ。きれいに切りそろえられた茶色の髪と瞳。飛びぬけて高い身長。しかもモデル並みのイケメン。一瞬、俳優がゲスト声優でもしているのかと思ったが……イケメンもといコンラート・ウェラーは声優一本だそうだ。とは言ってもその美声とルックスでかなりモテるみたい。神様というのはまったく不平等だ。
 それから番組が後半に入ると声優陣らへの質問がメインとなった。質問は『どうして声優になったのか』だったと思う。
 全員のことは正直覚えていない。ただ、その質問に答えた彼、コンラートのことばがおれに衝撃を与えたんだ。
 もともと彼はアメリカで軍人をやっていたのだが、とある事件の責任をとってやめたそうだ。そのあと世界各国を旅の途中で日本へついた。
『――軍に入隊していると、交流もひろがるので日本へきたのも友人へ会いに行く予定だったんです。当時は放浪してこともあって金銭面はぎりぎり。なので友人の家に泊まるかわりに友人の手伝いは積極的に受けることにしていたんです。日本の友人に手伝いを頼まれたのが、声優だった。とは言っても【ガヤ】大勢のひととざわめきを撮るワンシーンですけど』
 友人が、お手伝いというより日本文化であるアニメに触れてほしかったっていう遊びだっただけなんでしょうけど。と、彼は当時を思い出して笑う。
『声優をばかにしていたわけではないのですが、声をアテルのは思っていたよりむずかしいものでした。ただ台本に書かれたそれをくちにしただけでは浮いてしまう。友人の行為でお遊び半分だったものですけど、俺は負けず嫌いの性格なものでひとりだけ浮いてしまったそれがとても悔しかった。同時に声優と職業に魅力を感じたのです』
 そこから彼は声優を目指すことにしたそうだ。日本に移住しを決意し、養成所へ通い――いまにいたる。
『声優は正直影の存在です。一般の方からみれば名前すら覚えてくれないようなそんな職業。だけど彼らがいなければ成立しないアニメや番組は成立しない。漫画や小説には声がありません。そのなかでお気に入りのキャラがみんないる。みんなの想像し思う声を代表して彼らはキャラクターを動かす魔法使いのようだと俺は思っています。キャラを生かすも殺すも彼らにかかっている。影のような存在でありながら重大なる責任を背負っているんです。そう思ったらとても興味がわき、なりたいと思うようになりました』
 どこにでもある単純な理由ですけど。と、苦く笑いながら彼ははなしを続けた。
『……声優はほんとうにすばらしい職業ですよ。ひとに夢や希望を与え、そしてキャラクターを通していろんな自分を見つけることができる。諦めた夢、かなわないと思っていた多くの自分が叶うんです。……でも、声優になれるのはとてもむずかしい。一握りのひとだけ。でも、本当にやりがいのある職業だと俺は思います』
 そう言っていたのをまだ覚えている。いや、忘れられるはずがない。
 あれを観て、おれのやりたいこと――将来の夢が決まったのだから。

* * *

『おれ、声優になりたい』
 兄のようにアニメやその世界について詳しくないおれがまさかこんなことを言うなんて家族全員思いもしなかったらしく、告白したとたんにリビングが静かになってしまった。まあ、おれ自身思いもしなかったからあたりまえの反応だったと思う。正直、家族に反対されると思ったが『ちゃんとやる気があるの?』と母に見つめられ頷くと『それじゃあ、頑張りなさい』と笑って夢を追うことを許してくれた。兄の勝利も『声優の道はかなり厳しいぞ』とか小一時間さとされたが、おれが折れないことをわかると最終的には承諾してくれた。
 
 ――あれから高校を卒業して、おれは声優専門学校へ通いその後、養成所に進んで運良くSINMA事務所。
 未だに夢なんかじゃないかと思う。おれ『渋谷有利』改め芸名『ユーリ』としてSINMA事務所で所属していることが夢のようだ。
 SINMA事務所は業界では有名な声優ばかりが集う事務所で、しかもおれが憧れの存在であるコンラート・ウェラーが所属しているのだ。
 彼は多忙で会うことなんてめったになく、会ったとしても挨拶程度でおれのことなんて名前を覚えているかどうかさえ不明だ。……まあ、脇役をもらったらバンバンザイ。ガヤで呼ばれることがあればほっとしてしまうペーペー。
 万年ベンチで鍛え上げられた忍耐力で下っぱの下っぱになってもへこたれることはないけど、やっぱりなんでSINMA事務所におれがいるのか不思議だ。
 SINMA事務所は売れっ子しかいない。他の事務所からこっちに移籍願いを望むひとたちは多いと聞く。しかし、名の知れた声優も社長のお眼鏡にかなわなければ移籍はできない。
 この事務所で主役をしたことがないのも、脇役やガヤばっかりしているのはおれだけで、ほかの事務所の声優さんにそれをネタに鼻で笑われるおれがこんな大物ばかりの事務所にいるのがいまいち納得できないのだ。しかも、SINMA事務所以外にもいくつか面接を受けたがどこもダメだったし……。
 なんで、ここにいられるのか。
 事務所に向かう足取りがゆっくりと思くなるのを感じながらとぼとぼと向かう。
 ふだんはネガティブな方向に考えてしまってもすぐに吹っ切れてしまうが、春から初夏。季節の変わり目がネガティブ思考を引きづってしまうのかもしれない。カラリ、と太陽が輝く夏がくれば憂鬱な気分も吹き飛ぶはずだとおれは自分に言い聞かせる。
「……はあ、」
 ため息が無意識のうちにこぼれてしまう。
 事務所の正面玄関は自動ドアで鬱めいた気持ちに喝を入れるひまもない。
「しーぶーや! おはよー!」
「うおっ!?」
 事務所に入った瞬間に突然うしろからタックルを決められて前のめりに転びそうになるのを、足を踏ん張る。
 振り向けば、外はねの髪と丸メガネが印象的な男。
「もーやめろよ! びっくりしたし、転ぶかと思ったじゃん!」
「だって、渋谷朝からどんよりしてんだもん。なにかあった?」
「いやあ、もっとがんばんなきゃなあって思ってただけ」
「まあね。この業界は努力だけじゃどうにもならないからねえ。がんばれ」
「おい、ふつうこういうとき慰めてくれるんじゃないの?」
「なんで慰めないといけないのさ? きみは同情で慰めてもらってもうれしくないだろ」
「そりゃそうだ」
 おれの弱音をばっさり一刀両断した男の名は村田健。村田とは、中学生のときの同級生で当時はあまり交流がなかったのだが高校にあがって一度だけ大きな事件があったことが、おれたちを交流を深くした。
 将来の夢が決まってからある日の帰り道に公園で不良に絡まれていた村田を助けたのがきっかけ。……まあ、助けたってなんて美談ぽく聞こえるけど本当のところ不良に返り討ちになって財布から金は抜かれるわ、女子トイレの水洗便器に顔を突っ込まれそうになりそうになったところを脱兎のごとく公園をあとにした村田が警察を連れてきてくれたからことなきを得た……っていうのが実話だ。
 交流を深くしたと言っても、一気に仲良くなったってわけじゃなく中学のときよりはってぐらいでご飯食べたり、遊んだりっていうだけ。将来の夢についても村田には言っていなかったからSINMA事務所に入社したときに村田がいたのは本当に驚いたものだ。村田の芸名は本名の『村田健』から一文字抜いて『村健』。ファンには『ムラケン』『健ちゃん』それからラジオやキャストトークでの毒舌ぶりから『猊下』と呼ばれている。もちろん言わずもがな超売れっ子声優。同年代の声優にも一目置かれる存在。
「大丈夫だ、渋谷。SINMA事務所はかなり厳しいんだよ。きみは堂々としていればいい。きみには才能がある」
 だから、その五月病丸出しの顔をどうにかして今日も一日がんばろうよ。
 ぽん、と頭を軽く叩かれてすこしだけ気持ちが軽くなる。
 そのままエントランスを抜けて事務所のドアを開けると事務の高橋裕子が声をかけた。
「ユーリくん、おめでとう!」
「え、あ、はい? おはようございます、高橋さん」
 なにがおめでとうなのかがわからなくて、首をかしげてしまうが彼女は机に置いていた本を手に取るとそれをおれの手にどっかりのせた。
「はい、これ! ユーリくんのものよ。しかもあなたがメイン!」
「えっ! まじ!?」
「よかったじゃん、渋谷! で、なにやるの?」
 それはおれも気になるところだ。手にのせられた資料と台本。嬉々として台本に目を落として――おれは固まった。
「……ん、どうしたの?」
 固まったおれの肩口からひょっこりと村田がひょっこり顔を出して台本をのぞきこみタイトルを読みあげる。
「なになに。『今日から王様!?〜護衛の愛の手ほどき〜』ボーイズラブかあ。よかったね、この原作小説徐々に人気が上がってるんだよ。収録時間からして、雑誌の付録かな」
「へ……へぇ〜?」
 ボーイズラブ……男性同士の恋愛ストーリーの名称だ。声優ともなれば、アニメや映画の吹き替え、ナレーションだけじゃない。世界中にさまざまな漫画や小説が溢れているのだ。こういう物語を演じることもあることはわかっている。ボーイズラブにたいして、偏見はないけど……。
 ページを一枚めくる。そこでまたおれは固まってしまう。
 たしかに、おれの役は主人公だった。
「……受け、ですか。っていうか、は、あ、相手役がウェラーさん?」
「そうなのよ! SINMA事務所の看板声優コンラート・ウェラーさんとの共演。絶対売れるわぁ!」
 高橋さんが嬉々として、声をあげた。
 たしかに、彼が出るだけで売り上げや視聴率が跳ね上がる。
 おれに夢を与えてくれたひと。コンラート・ウェラー。彼といつか共演できたらと思っていたがこんなかたちで……なんて。もうボーイズラブ関係なくもっと技術を磨いて成長してから一緒にお仕事をやってみたかった。
「……いまのおれじゃウェラーさんの足を引っ張ることしかできない気がする」
 あんなに素晴らしいひとの相手がこんな下っぱでいいのだろうか? 柄にもなく不安が募ってしまう。
「ウェラーさんの足だけじゃなくて僕の足もかな。僕もきみの親友役で共演するんだね。というか、全員SINMA事務所で固めてるってことは……もしかしなくてもあれですか?」
「そうそう、ついにあれよ。あ、れ!」
「あれ……ってなに? 村田」
 尋ねると村田と高橋は顔を見合せてニヤリと笑い村田が答えた。
「新人さんいらっしゃ〜い! きみもこれで大人の世界に仲間入り☆ ちょっと厳しい先輩からの愛を受け取ってスパルタ教育、さ」
 そういえば、僕もやったなあと思い出に浸るように村田がこぼす。
「僕の場合は、ゴールデン番組のナレーションだったけど。まあ、BLが主役からっていうのもよくあるはなしだし。最初からうまくできるわけがない。それに僕らがいる。SINMA事務所は家族同然だ。きみが足を引っ張っても幻滅しないさ」
「う、ん……」
 本当に大丈夫かな。
 でも、やるしかないんだ。いまのおれにできることをしなきゃ。
「おれ……がんばってみる」
「頑張って、ユーリくん。あなたの喘ぎ声、期待しているわ!」
「濡れ場一回だけど、キスは何回かあるからちゃんと台本に目を通しておくんだよ〜」
「……」
 すみません。ちょっとだけ、前言撤回します。
 ボーイズラブに偏見はないと言ったけど、演じるのはちょっと気が進みません。
 ……喘ぎ声ってどうやればいいんだ?


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