■ 27

「……え?」
 なにを言っているんだ? 吉田さんは。
 あたまが真っ白になる。
「あ、あの、よしださ」
「ぼくは気のながいほうじゃないんだ。でも今回はけっこう辛抱強く我慢してたのにさ。こんな裏切りってないよね。いつも有利くんはぼくの想定外をしでかしてくれる」
 問いかけようとこえをかけたそれは吉田さんにこえにさえぎられた。
「……うそですよね?」
「ん? なにが」
「吉田さんが、痴漢だったなんて」
 ふるえそうになるこえを必死に抑えて真相を問う。キスマークのことはだれにも言ってない。だれも知らないはずのことを吉田さんが知っている。そして『ぼくのつけたキスマークじゃない』とも言っていた。
 信じたくない。
 けれど、これだけの証拠があがっている。吉田さんの答えはやはり肯定するものだった。
「そうだよ、ごめんね」
 しかしその謝罪する口調は軽い。ほんとうに悪いというよりは、いたずらがバレていうような。その態度に戸惑ってしまう。
「正当な恋愛の手順を踏んでも有利くんはそういうのに疎そうだったから、ちょっと手法をかえてみたんだ」
 痴漢をされて怯えてるきみもかわいかったよ。
 あのときのことを思い出しているのか、吉田さんはおれからわずかに視線をはずして薄く笑う。
 彼の物言い。態度に怒りがわきあがってきた。
「おれのことをだましてたのか!」
 もはや敬語をつかう余裕なんてない。
 おれの胸倉をつかんだままの吉田さんを睨みつけ、怒号をとばしてみるが、彼は肩をすくめるだけだ。
「だましてた、なんて人聞きの悪いことを言わないでほしいな。手法を変えただけだってば」
 彼は「それにきみがそれを言うの?」と低く言いさらに胸倉を掴む手のちからを強くした。ぎゅっと突然襟もとがしまり息がつまる。
「……ぅっ」
「これは恋の駆け引きってやつだ」
 諭すように吉田さんが言う。
「きみは恋愛に慣れていない。だから知らない。大人の恋愛っていうのはきれいなものじゃない。汚いもので溢れてる。大人はね、子どもより貪欲な生きものなんだよ。欲しいものはどんなことをしても手に入れる。うそだって平気で吐く。その過程がどうであれ――終わりよければすべてよしさ」
 あまりのことばに絶句する。彼の行動、セリフの数々。どこまでがうそだったのだろう。いまとなってはわからない。けれど、吉田さんとの交流のなかで吉田さんに救われたところはたくさんあったのだ。失恋をしたとき、痴漢にあったときはなしを聞いてくれたそれがいまの自分に繋がっているところもある。なのに吉田さんはそんなおれを見て、こころのなかで嘲笑っていたというのか。
「泣かないで?」
「……っさい!」
 ふたたび頬へとのばされた吉田さんの手をふりはらう。
「そんな風に睨んだって相手の嗜虐心を煽るだけってことをだれかに言われなかった? 痴漢をしたときも思ってたけど、そういうかおかわいいよね。もっといじめたくなっちゃうっていうか」
 吉田さんは、悠然とした笑みを浮かべながら身につけていた自身のネクタイをほどいていく。
「ま。バレちゃったら、しかたない。できれば、ちゃんとぼくに好意を持ってくれたらいいなって思ってたけど、それがむりならほかの手でいくしかない」
「なっ?!」
 そのセリフにいやなものを感じて胸倉をつかんでいた手がはなれた瞬間、すぐさま距離をとろうとしたが吉田さんのほうが行動がはやく馬乗りをされ両手首をとられてネクタイでテーブルの柱に拘束されてしまった。
「これはずせよ!」
「ちゃんとはずしてあげるよ? だけどいまははずせないな。あんなに頑張ったのになにもしないなんて。それにまだ計画がぜんぶ失敗したわけじゃないから」
 言って吉田さんがおれのかおから視線をはずす。おれの首筋についたキスマークをみて、いやそうに眉間にしわをよせる。
「ぼくがきみのハジメテをもらう予定だったのにな。まさかさきにだれかにいただかれちゃうなんて。でもぼくテクニックにはけっこう自信があるんだ。心よりさきにからだからの関係っていうのも大人っぽいよね」
 吉田さんの言ってる意味なんて理解したくなんかない。吉田さんがおれのボタンのシャツをたのしそうにはずしていく。ときおり、肌を指の腹でなぞられるたび、みっともなく叫んでしまいそうになるのを下唇を噛んで必死に抑えるが「感じているの?」と吉田さんは見当ちがいなことを言う。
「安心してこえを出してよ。まわりには聞こえないから」
 そうだった。このお店は防音になっていたことを忘れていた。となりの部屋でカラオケをしていてもかすかにしか聞こえないのだ。たとえ叫んだとしてもだれかが駆けつけてくれる可能性はゼロにちかい。
 どうしたらこの状況から脱出できるのか混乱するなか考える。
 店員を呼ぶにはおれが縛りつけられているテーブルの反対側にタッチパネルがあるし、この部屋の出入口は吉田さんのうしろ。どちらが逃げられる可能性があるかといえばやはり吉田さんのうしろにあるドアだろう。
 カギはかかっていないし通路でこえをあげればすぐにだれかが駆けつけてくれるはずだ。
 さいわいにも括りつけられたネクタイはわずかにゆるい。何度か動けばはずれるかもしれない。
「やっぱり有利くんは思ったとおりきれいな肌してる。きみは酒に弱いのかな? からだがうっすらピンクに染まってるのもいいね」
「……酒?」
 飲んだ記憶はない。訝しげに眉をひそめれば喉を鳴らして吉田さんが笑う。
「気がついてないみたいだから言うけど、ぼくノンアルコールを注文したように見せかけてアルコールを頼んだんだよ。だめだよ、気のある男とふたりきりになったら気をつけないと」
「ひ……っ!」
 吉田さんがおれの腹に頬をあて、おれは悲鳴をあげる。気持ち悪くてしかたがない。しかも、つぎは口唇を押しあててきた。ゆっくりと執拗に口唇で触れ恐怖と不快感から身をよじるおれに卑猥なことばを投げかけてくる。
「やめろって言ってるだろ! 離せ!」
「だからあとで離してあげるってば。いまはいっしょにたのしもうよ」
 ちゃんと気持ちよくしてあげるからさ。
 吉田さんにはまったくおれのこえが届いていないらしい。叫んでも、暴れても愛撫の手をとめてくれない。
 ――と、おれの目にバッグがうつり、ひとつの策が思い立つ。
 そうだ。まえに吉田さんからもらった防犯スプレーがおれのカバンにははいっている。運良くおれのカバンは拘束された手の近くだ。
 おれは吉田さんに諭されぬよう慎重に開いたカバンからわずかに見えるスプレー缶を指さきで引きよせ、やっとのことで――掴んだ!
 これを使えば、吉田さんの動きを一時的にとめることができる!
 すぐさまおれはスプレー缶のキャップをはずして噴射口を吉田に向けると、そこで吉田さんと目があった。
「ゆう、」
「ウアアアアア!」
 まさかもらった相手に使用するとは思ってもみなかった。渾身の思いをこめ、防犯スプレーのトリガーをひく。こんな至近距離で使えば自分の目にもはいるだろう。おれは目をつぶり中身がシューッ! と噴出される音。それから吉田さんの苦しげなこえが聞こえる。そのこえに申し訳なさも感じたが、こうでもしなければ吉田さんから逃れる手立てはない。
 宙に舞っていた防犯吸スプレーの煙はもう、薄れてきたかもしれない。
 目が痛くならないことを祈りながら目を開けおれのうえに乗っている吉田さんから退けようとして――絶句する。
「ふふっ、ぼくの演技けっこう上手だったでしょ?」
「な、んで……」
「よく考えてみなよ。痴漢であるぼくが不利にするようなものを渡すわけないじゃないか。それ、中身GPSになってるんだ。GPSってわかるかな? かんたんに言えば通信機みたいなものだよ。これがないと何時の電車にきみが乗り込むかわからないからね。さ、これで有利くんも理解したでしょう? ぼくがどれほどきみのことが好きかってこと――ここから逃げられるすべなんてないってことも」
 あたまに浮かんだのは『絶対絶命』
 ひたすらに腕を動かし、ゆるみはじめたネクタイを吉田さんが丁寧に結びなおし、それからゆっくりとおれの首に手をかけた。
「はねっかえりの強い子ってきらいじゃないけど、それにも限度っていうのがあるからあんまりオイタしてると痛いことしちゃうかもしれないから、気をつけるんだよ」
「吉田さん……っ、もうやめてください!」
 首を絞めるような仕草をしていた彼の手がおれのズボンへとかかり膝のあたりまではぎとっていく。太ももを撫でる手が気持ちわるい。
「ほんとうはやさしく丁寧に可愛がろうと思ったけど忠告しても、きみの目には諦めっていうのが見えないから抵抗しそうだしここは一回繋がっちゃおう」
 そう言った吉田さんが用意周到すぎてめまいを覚える。彼はカバンから取り出したのはローションだった。
「早急にことを済ませるからとは言ってもきみを傷つけたくはないから。無理に暴れないでね」
 ローションを手のひらに垂らし、伸ばしておれの下着も降ろしていく。その光景に目もあてられなくなりおれはかおを逸らした。
「やっぱり勃ってないか」
「……つッ」
「ごめんね。手であたためたんだけどやっぱり冷たいよね。でもすぐにあったかくなるから」
 吉田さんの手がおれの陰茎を上下に扱く。
 ぜんぜん、気持ちよくない。
 けれど、生理反射というべきかおれの陰茎は次第に硬くなっていく。
 そしてやっぱりだめなのだと痛感する。
 おれはウェラーさんが好きで、ウェラーさんだから感じていたのだと理解し、下唇を噛みしめた。
 ぜったいにこえをあげてやるものか。
 合意のうえじゃなかったが、それでも好きなひとだからこそおれは好きだったからこの行為を受け入れることができたんだ。
 ウェラーさんに軽蔑されたっておれはウェラーさんが好きだし、声優業だって続けていたい。
 そのためだったら自分が汚れたっていい。もう自分は十分汚い大人になった。十分しあわせな思いもした。
 こんなの犬に噛まれたようなものだと思えばいい。
 おれのモットーは信念を貫くこと。
 これしきのことで絶望なんてしてやるもんか。
 犯されたっておれの人生が終わったわけじゃないんだ。これも経験のひとつで泣くようなことじゃない。
 よくよく状況を思い返せば、吉田さんの誘いに乗った自分がわるいし、ここで叫び声をあげてだれかが助けてくれたら確実に警察沙汰になってしまう。そしたら、いままでお世話になったひとたちやようやくかたちになりかけていた声優業も続けられなくなってしまうかもしれない。
 おれは一切の抵抗をやめ、腹をくくる。
「……吉田さん」
「なんだい?」
「ひとつだけ……約束してください」
「約束?」
「このことをだれにも言わないと約束してください」
 言うと、吉田さんが「それだけでいいの?」と首をかしげおれはうなずく。
「それを約束してくれるなら、なんでもします」
「簡単になんでもします。なんて言わないほうがいいと思うよ。……じゃ、約束を守ってくれたらぼくとつき合ってくれる?」
 くちのはしをつり上げ、吉田さんがおれを見下ろす。くちもとは笑みをつくり冗談のように尋ねる彼の目はまったく笑っていない。
「はい」
 はっきりとした口調で返事をすれば、吉田さんは上半身を屈め「……うれしい」とおれを抱きしめた。
「有利くんをあの店で見かけたときからずっとかわいいなっておもってたんだ。とくに笑顔がかわいいなって。それがぼくだけのものになればいいのにってずっと、ずーっと考えてたからほんとうにうれしいよ」
 吉田さんはいい「きみはぼくだけのものなんだね」と首すじや鎖骨にキスマークをつけていく。痕が残るたび吐き気がしたが、あの約束を守ってくれるというのならこれぐらいどうってことでもない。
「『KATHAEN』はアルバイトなんだよね。お小遣いがほしいなら、いくらだって渡そう。欲しいものも買ってあげる。あそこで働くのやめてくれる?」
「もちろん。吉田さんのいうとおりになんでもします。やめますよ」
 言われるまえにやめるともりだったし。『KATHAEN』あそこにはやさしいひとたちで溢れている。いままでだってコ―ディさん、宮本さん。ヨザックをはじめとしてほかの従業員にもお客さんにもみじかいあいだだったけどすごくお世話になった。そんなひとたちに迷惑なんてかけたくない。
「よかった! ならぼくも『KATHAEN』に行くのはやめるよ。恋人が通っていたら気分よくないもんね」
「……そう、ですね」
 吉田さんだってわかっているはずだ。おれの心が吉田さんに向いてないってこと。でも心底うれしそうに彼は笑う。そのあいだにもおれの陰茎を扱き続けていて、徐々に湿っぽい音が室内に響いていく。
「有利くんとのはじめてのセックスが居酒屋っていうのは少々残念だけど、まあ回数を重ねれば場所なんて関係ないもんね」
 そうして吉田さんの手が陰茎から睾丸をすべり菊花のまわりをなぞる。
 もう二度とあんなところをだれかに触られる、ましてや使うことに思ってもみなかった。しかも、まだ一週間も経ってないというのに。
 人生なにが起こるかわからないものだ。
 おれは自傷的な笑みをひっそりと浮かべ口内でとある名前を転がした。
 もう二度と名前で呼ぶことはないひと。
 好きな、ひとの名前を。
 ……コンラート・ウェラー。
 ウェラーさん。いや――……。
『コンラッド』
 ちいさく、ちいさく呟いたその瞬間。

 ――バァンッ!

 ドアが大きな音を立て、開いた。

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